落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

大斎節第1主日説教 誘惑物語(食の誘惑)

2008-02-07 20:10:10 | 説教
2008年 大斎節第1主日 2008.2.10
誘惑物語  マタイ4:1-11
1. 食をめぐる誘惑
食の問題は人間の生存に関わることで最も根源的なものである。どんなに高尚な思想を脳の中に蓄えていても、食べられなくなったら、人間はお終いである。
人間が創造されて最初に住んでいたエデンでの生活と、エデンから追放されてからの生活との最も顕著な違いは、人間は食べるために「顔に汗を流してパンを得」(創世記3:19)なければならなくなったことである。人間に向かって神は厳粛に宣言する。「お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(創世記3:17)。これは創世記の有名な神話である。しかし、神話といって馬鹿にしてはならない。これほど、人間という存在のありのままの姿を描き出した論述は類を見ない。人間は生涯食べ物を得ようと苦しむ動物である。もちろん、その苦しみ方は時代によって異なる。貧しい時代は貧しい時代なりに、豊かな「飽食の時代」には、それに相応しい苦しみがある。直接的に「食」につながらないような出来事も煎じ詰めれば、「食えるか、食えないか」という問題に突き当たる。
2. 「汗を流して」
食への苦労の始まりは「汗を流して」「土を耕す」ことから始まる。人間にとって「土」はままならない。創世記の言い方をすると、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」(3:17)という。要するに、土は人間の思うようにならない存在である。人間は土の性質に従いつつ、土を耕し、土から食べ物を得る。この「土を耕し、食を得る」という一連の流れが「文化」である。この「耕す」という言葉が「文化」の語源である。ラテン語の「耕すcolere」という言葉から、英語の「文化(culture)」やドイツ語のKultur(文化)という言葉が作られた。
ここで一つの重要な問題に直面する。人間と「土」との関係である。もう少し普遍的に「自然」と言い直してもいい。西洋の思想においては、自然とは人間が「耕し」「改造し」、言い替えると「飼い慣らし」、人間にとって有用なものにする素材という考え方が根本にある。つまり、自然は自然のままではただそこにあるというだけで無意味な存在である。その考え方は、キリスト教とくに聖書の思想によるものだとされる。しかし、本当にそうだろうか。そういう理解の仕方は、実は19節の後半の人間は死んだら「土に返る」言葉を見落としているのではなかろうか。
ここを注意深く読めば、人間と自然とは決して対立的ではなく、むしろ、人間は自然の一部であり、自然の流れ(循環)の中に人間の営みも組み入れられている、ということは明らかである。創世記の言い方をすると、エデンの園における人間は決して「自然の一部」ではなく、自然に対する「管理者」であったが、エデンの園を追放されて、自然の一部に組み入れられた。いわば、「新入りの自然」である。自然を「飼い慣らす管理者」のではなく、自然の一部として全体自然に「馴染むべき奉仕者」である。こういう視点に立つならば、「顔に汗を流してパンを得る」ということの意味がより明白になる。人間は自らのパンを得るために汗を流し、自然を耕すことによって、自然をより豊かな自然へと変える。人間がそこに存在することによって自然そのものが祝福を受ける。
3. 汗を流さないで
ところが、人間には「汗を流さないでパンを得たい」という欲望がある。「エデンの園における管理者」としての思い出かも知れない。確かに、「楽をしてパンを得たい」という願望が、文化を高め、生産技術を高度化し、「一人一食」の時代から、今や「一人百食、千食、万食」とほとんど測定不能の生産性を持つようになった。しかし、そのために犠牲になったものは決して小さくない。人間の欲望によって、自然は自然自身が持つ循環能力(自然回復力)の限界を超え、破壊されている。そこでは、人間は「罪な存在」である。
さて、本日の問題は「汗を流さないでパンを得る」という誘惑の問題である。エデンへの誘惑と言い替えることができるだろう。エデンでは食べる心配は全くない。全てが神によって備えられ、保護され、管理されている。人間は幼な子のように遊んで暮らせばよい。そこでは「知恵」は全く必要ない。エデンの外、つまり自然界では人間は、自然の一員として、汗を流し、パンを得る生活をしなければならない。ここで生きるためには「知恵」が必要である。ここでの人間の特徴は「知恵」である。
4. 知恵の実
その知恵は食べてはならないと禁止されていた知恵の実を食べることによって得られたものである。その結果、「目が開かれて」自分たちが「裸であること」(3:7)を知ってしまった。わたしはこれは人間が「土」であることを知ってしまったことと解釈する。自分たちが「土」にすぎないということを知ってしまった以上、もはや人間はエデンの園では生活できない。「土」は「土」に帰らねばならない。土は土として自然の循環の中に組み入れられ、人間の特徴である知恵を働かせて、そこで生きる。しかし、そこに埋没してしまうのではなく、神と一体であった時代を憧憬して、その場から神を見上げ、神を信じ、神の言葉によって生きる。それが人間のあり方である。

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1 コメント

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初めて書き込みさせて貰います♪♪ (仲野 碧)
2008-02-07 22:50:12
栄光在主

初めて書き込みさせて貰います私は②年前のに受洗の恵みに授かった『新米クリスチャン』です
鳥取在住の女子大生で,市内のルーテル教会所属です
『ペテロ教会』は,作曲家さん・中村泰士さんを通して知りました゜¨゜*☆○o。*゜¨゜゜・*(。ゝω・。)*゜¨゜゜・*。o○☆*゜¨゜
『だんじり』&『ゴスペル』大好きな,全く敬虔で無いクリスチャンですが,此れからも宜しゅう御願いします

後,私もブログやって居ます
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