落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第24主日(特定27)説教 生きている者の神  ルカ20:27,34-38

2013-11-05 11:17:14 | 説教
みなさま、
何かしら日本列島の春と秋とが年々短くなって来ているように感じるのは私だけでしょうか。とくに秋は台風のシーズンでもあり,秋を満喫する日々が少なく、何かしら損をしているように感じます。こういう時に、風邪など引かないようにご用心ください。次の礼拝奉仕は12月1日で、教会暦では新しい年(マタイの年)に入ります。

S13CT27(S)  2013.11.10
聖霊降臨後第24主日(特定27)
説教 生きている者の神  ルカ20:27,34-38

1. 文脈
ルカ福音書19:47~48で「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」と述べられている。そのうえで20章ではイエスの殺害を計画している連中との問答が集められている。つまりこれらの問答自体が殺害計画の一環として行われている。
1~8節で「権威」という問題、9~19節では連中との議論から少し離れて民衆への譬え話が挿入され、20~26節で「皇帝への税金問題」、27~40節で「復活論」と続き、最後に「彼らはもはや何もあえて尋ねようとしなかった」という言葉で結ばれる。ルカはこれに続いて41~44節で、イエスの側からダビデについての問題提起を置いている。そして最終的に45~47節で「律法学者たちに対する批判の言葉」を民衆に語る。
これらの問答についてはマタイもマルコも取り上げており、イエスにとっても重要な発言であったものと思われる。

2. 復活についての問答
さて本日のテキストは「復活」についての問答である。このテーマについてだけは質問者は「復活があることを否定するサドカイ派の人々」(27節)である。おそらく日頃の言動から見てイエスはファリサイ派に近いと見られていたのであろう。サドカイ派の人々とファリサイ派の人々とは犬猿の仲であり、特に復活については常に対立している。ここで取り上げられているテーマは両派の間で繰り返し議論されて来た問題で、どこまでいっても平行線のままで解決のつかない難問題だと思われる。
7人兄弟の長男が結婚し、間もなく死ぬ。そういう場合にモーセの律法に従えば次男が長男の妻と結婚しなければならない。そのようにして7人とも死んだ。その後、女性の方も死んだ。ここまではモーセの律法に従っており何も問題はない。さて問題は復活があるとして、この女性は誰の妻となるのか。これは明らかに当時のファリサイ派の人々の復活論を前提にしている。彼らにとって復活とは「この世」の延長線上で考えられていたようである。復活ということを信じる以上、この問題にも答えが必要であるというのがサドカイ派の人々の問いである。おそらく、今までのサドカイ派とファリサイ派との論争ではファリサイ派の人々はこの問題に対して答えられなかった難問なのであろう。だから両派ともイエスの答えに非常に興味を持ったに違いない。イエスは何と答えるのか。

3. イエスの答え
マルコ福音書ではこの問いに対してイエスは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マルコ12:24~25)。実にあっさりしているし、的を得た答えである。ここでイエスは「聖書を知らないから」という。それでその聖書のどこに書いてあるのかと探しても出てこない。つまりイエスの答えもハッタリというか挑戦的である。そう言われれば、律法学者やサドカイ派の人々は一生懸命聖書の言葉を探すであろうが、そんなことが聖書に書いてある筈がない。つまりこれは「聖書を知らない」ということは、聖書に書いていないことをいろいろ議論しても仕方がないという意味であろう。「死んだ後のことなんか、知るものか。どうせそこらにあるような神話で出て来る天使のようになるんじゃない」というのがイエスの答えである。おそらくイエスが答えられえたのはここまでであろう。「復活については」などとイエスがわざわざ答える筈がない。マタイもほぼマルコの言葉をそのまま引用している。

4. 教会の答え
それで後の教会の人々は、そういう答えでは満足できなかったのか、「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(マルコ12:26~27)という言葉を書き添える。これも現代人としては何のことかよく分からない理屈である。いかにもユダヤ人ぽい屁理屈である。聖書の言葉を屁理屈などというと、どこかの敬虔なキリスト者からけしからんと言って叱られそうである。24節~25節のイエスの言葉と26節~27節の言葉とを比較してみればそのレベルの差がはっきりするであろう。
実は、ルカはマルコの記事をほとんどそのまま書き写しながら、それでもまだ足りないと思って、余計な言葉を書き加え問題をさらに紛らわしくしている。それが35節の前半と36節である。35節の前半では復活するのは「(それに)ふさわしい者だけ」ということ、36節の天使についての説明である。マルコ福音書ではただ「天使のようになる」というのを「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである」などと、いかにもキリスト教の説教者らしい説明をくわえる。これではイエスの「どうせそこらの天使のようになるんじゃない」という答えを台無しにしてしまうではない。

5. 生きている者の神
マルコやルカが思わず口にしたというか、筆を滑らせたというか、その積もりで言ったとは思えないが、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という言葉は名言である。この言葉は二通りに解釈できる。
一つはここでの文脈に従って、神が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)と自己紹介されたのであるから、アブラハムも、イサクも、ヤコブも生きている。つまり、すべての死者も神の前では生きているという意味に解釈することも出来る。
また、もう一つの解釈は神は今生きている者の神で、死者のための神ではない。ひょっとすると、こちらの方の解釈は評判が悪いかもしれない。しかし、長い人生において現実的にそういう極限に立たされるときがある。今、現実に目の前で生きている子供を救うのか、既に死んだ子供の遺骨を大切にするのか。そういう場面に立たされた時、神は生きている子供の神なのか、死んだ子供の神なのか。
こういう言葉は、学問的に厳密な解釈というより、現実の生活の中でそれぞれの信仰者がこの聖句をどう受け止めているのか、自由に発想するのが相応しい。
現在、韓国の釜山でWCCの第10回総会が開催されている。この大会がアジアで開催されるのは初めてのことである。西原司祭が日本聖公会を代表して大会役員として参加しており詳細な報告がFBでなされている。そう参加者は約4500人ということで、文字通り世界規模の会合である。今回の主題は「生命の神、わたしたちを正義と平和に導いてください」であり、本日のテキストと深く関係している。「生命の神」という場合、それは単に神が生きているというだけではなく「生きている者の神」という意味であろう。私たちが生きる上での命を脅かす悪の力が全世界の各地で、特にそこで全く無力な者を襲う現実の中で、神による正義と平和の実現を祈る。これがこの総会の主題の意味であろう。

6. 健一(満2歳)の遺骨をめぐるエピソード
これは文章にして公開するわけにはいかないので、説教台から語る。「神は死んだ子の神ではなく、生きている子の神なのだ」。


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