落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

昇天後主日説教「エルサレムに座して待つ」 使徒言行録1:12-26

2013-05-06 11:25:54 | 説教
みなさま、
ゴールデンウイークも今日までです。と言っても、定年退職した私にとっては年がら年中ゴールデンウイーク、いや「シルバーウイーク」でかえって世間でのゴールデンウイークには静かに家で蟄居生活という次第でした。次の日曜日の説教をお送りします。

2013R07(S) 2013.5.12
昇天後主日説教「エルサレムに座して待つ」 使徒言行録1:12-26

1.昇天日から聖霊降臨日まで
既に論じたように、ルカ福音書の最後の部分と使徒言行録のはじめの部分とはほぼ重なっている。しかし厳密に見るといくつか異なっている点も見られる。その最も注目すべき違いは、ルカ福音書では「高い所からの力」と述べられている部分が使徒言行録では「聖霊による洗礼」または「聖霊が降ると力を受ける」というように読み替えられている点であろう。
ルカ福音書において「聖霊」という言葉が用いられているのは(新共同訳による)13回でその内9回は第4章までで、残りの4回は10章から12章までで、それらの文脈を見るといずれもイエスの行動あるいはイエスの言葉である。詳細な検討は他日に譲るとして少なくともルカは「聖霊」という言葉をかなり慎重に用いていることがわかる。
それが使徒言行録においては、いろいろな場面でかなり多彩に用いられ、あたかも聖霊が主人公のようである。先ず冒頭で生前のイエスが語り行った行為を「使徒たちに聖霊を通して指図を与え」という言葉でまとめている。つまり使徒言行録は冒頭からイエスと聖霊との関係が強調されている。使徒言行録がまだ「使徒行伝」と呼ばれていた頃、しばしば「聖霊行伝」と呼ばれていた所以である。また同時に福音書においての「イエスの弟子」は「使徒」と呼ばれることとなる。聖霊の働きが使徒たちの活動である。

2.「都にとどまれ」
ルカはイエスの時代と聖霊(使徒)の時代とを明白に区分している。ルカ自身は使徒の時代に属しているので、当然使徒時代については「同時代史」として生き生きと語ることができる。しかしイエスの時代はいわば過去の物語であり「歴史」である。しかも、その歴史は使徒時代を生み出した「聖なる歴史」である。現在から見るとその歴史は「雲に覆われて彼らの目から見えなくなって」(使徒1:9)はいるが確かにそこで神の子が働き、語り生きていた。過去と現在、その間に何があったのか。ルカはここで一つのことを語る。「都にとどまれ」(ルカ24:49)。これが昇天日から聖霊降臨日までの十日間の課題であった。
この「とどまれ(カシゾー)」と訳されている動詞の本来の意味は「座れ」で、他の場所では「腰を据える、座る、席に着く」などと訳されている。キリストが神の右に座るという場合にもこの単語が用いられている(マタイ22:44、26:64、ルカ22:30、コロ3:1等)。一寸余談になるが、主教座という言葉を「カテドラル」というが、これもこのカシゾーの派生語である。つまり昇天直前のイエスの命令はまず「座ること」であった。浮き足たつ弟子たちにイエスは「先ず、そこに座れ」と言われた。
人間は不安に襲われたり、危機的状況に直面すると、何とか事態を改善するために動き回り、走り回る。自分が動き回って解決できるようなことならば、それ程恐れる必要はない。自分たちでどうにもならないときに、すべきことは先ず「座る」ことである。柔道にせよ、剣道にせよ、対戦する前にしなければならないことは、先ず正座して相手と向かい合い、お互いの呼吸を合わせることである。イエスも公の活動をする前に荒れ野に行って修行をしている。マルコ福音書は「イエスは40日間そこにとどまり」(マルコ1:13)と記しているが、この「とどまり」とは何かをするということでなく、ただそこに居るということである。動き回っているのはサタンであり、野獣であり、天使たちである。
何かことを始める前に「座る」ということは姿勢を整えるという意味が込められている。心の準備も身体の準備もまだ整わないうちに飛び出しても何も生まれてこない。先ず姿勢を整え、これから起こって来るであろうどのような事態に対しても対応できるような「構え」をすること、これが「座る」ということである。これから何が起こるのか分からない。敵は前から来るのか、後ろから来るのか、何人責めてくるのか、武器は何か。あるいは相手は敵か、味方か、あるいは自分自身の弱点は何かそれを補強し、どういう事態になっても対応できる構えを整えること、これが「座る」ということである。この「座る」には姿勢を正すという意味が濃厚である。待っている自分の姿を顧みて問題点を座り直す。そこで彼らは自分たちの集団の問題点が2つあることに気付いた。
1つは、この集団の中心になるべき12使徒が1人欠けていることで、それを補う必要があった。先ず注目すべきことは、彼らが使徒の数を12人にしなければならないと考えたことである。この考えには無意識のうちにこの集団が永続するものと考えているということである。もう彼らは「明日の教会」はないとは思っていない。
もう一つ、誰が使徒に相応しいかと問うこと、「誰が主の復活の証人になるべきか」と協議する中で、いったい 自分たちの集団とは何なのか、この世に対してどういう使命を持った集団なのかということを自覚したということである。ここで彼らが取った選出の仕方が興味深い。先ず自分たちの間で協議して、適当と思う2人を選出する。そしてその2人の内どちらが相応しいかをクジによって選ぶ。彼らは人間の判断の限界を知っていた。最終的には神の判断にゆだねる。それがクジである。ここまでが「座る」という言葉に含まれている内容である。

3.「エルサレムを離れず」
「都にどどまれ(座れ)」というルカ福音書での言葉が、使徒言行録では「エルサレムを離れず、父から約束されたものを待ちなさい」と言い直される。こちらの方では「待つ」ということに重点がおかれている。何かを待つという姿勢は、向こうからやってくるものに対して「待ち構える」ということで、何もしないようで実は非常に大きなエネルギーを必要とする積極的な行動である。外見的には「座る」と「待つ」とは同じように見えても、内面的にはかなり異なる。一瞬の油断もなく、意識を集中して、相手が打ち込んできたら瞬間的に反応する。それはまさに人間の理性や意識や判断を超えた「脊髄反射」、これを身に付けるためには厳しい修錬を必要とする。それが待ち構える姿勢である。ここでは「父から約束された聖霊」が降臨するのを待ち構える。
私はこの「待ち構える姿勢」こそ、祈りだと思う。「(彼らは)心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)。祈りとは私の願いを無理に聞いてもらうということではなく、私が神の御心を聞き、神の働きを待つことである。あくまでもイニシャティブ(主導権)は神の側にある。
ルカによると、この祈りは10日間続いたことになる。彼らはエルサレムの隠れ家で腰を据えて、熱心に祈った。この祈りはイエスと共に過ごした日々を思い起こし、イエスの言葉を分かち合い、イエスを信じることができなかったことを懺悔し、お互いに赦し合う。その全てが祈りであった。
そして10日目の朝、イエスが復活された日から数えて50日目の朝、突然、ブレークした。それが聖霊降臨の出来事である。この日、教会という共同体が生まれた。

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