落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>ヤボクの渡し

2007-10-16 14:47:47 | 講釈

2007年 聖霊降臨後第21主日(特定24) 2007.10.21
<講釈>ヤボクの渡し   創世記32:4-9,23-31
1. 人間関係の原点
人間は生まれるとすぐに「男」か「女」に振り分けられる。最近では、その中間というか、第3の性も認めるべきだという主張もあるが、それにしても「性」あるいはジェンダーとしては男かあるいは女である。従って、対人関係の基本には「男に対する女」というあり方と、「女に対する男」というあり方がある。現実的には男同士、女同士という対人関係もあるが、むしろそれは「人と人」いう多少観念的な要素が加わっており、人間関係の「原点」とは言い難い。その意味では、聖書が関係としての人間を描く際にアダムとイブから始めたのは含蓄に富む。この関係が夫婦となる。この夫婦から子どもが産まれて、親子関係という人間関係の新しい次元が発生する。夫婦関係と親子関係という二つの要素が縦軸横軸となって、人間関係の「原点」となる。
これら二つの人間関係に加えて、もう一つの第3の人間関係が兄弟あるいは姉妹という関係である。この第3の人間関係は論じ始めると、あまりにも個別的特殊性が複雑に絡み合っているので、哲学的テーマになりにくい。従って、心理学の領域においては多く語られるが、哲学的に論じらレることは稀である。
ところが、聖書においては兄弟関係はいろいろな場面で、特に重要な場面で語られている。気付いたところだけでも拾い上げてみると、カインとアベル、イシマエルとイサク、エサウとヤコブ、ヤコブの息子たち、モーセとアロン、ダビデと兄たち、主イエスの譬え話ではマタイ21章の二人の兄弟、やルカ15章の放蕩息子などである。聖書の、特に旧約聖書の物語により深いものを与えているのは兄弟間の確執であるといってもいいほどである。第3の人間関係においては兄弟、兄妹、姉弟、姉妹の4つのパターンがあるが、聖書に登場するのは兄弟関係が主である。おそらくこのことは第3の関係においては兄弟の関係が基本的であり、その他のパターンはそのバリエイションであることと無関係ではないだろう。兄弟においても、それが双子というケースに最も第3の人間関係の問題点が典型的に示されている。
心理学においては、兄弟間のコンプレックスを聖書のカインとアベルの物語から「カイン・コンプレックス」と言う(らしい)。が、ここは心理学の理屈を展開する場面ではないので、エサウとヤコブの双子の兄弟のことに話を絞ることとする。
2. エサウとヤコブとの確執
兄弟確執の原因は親の愛の取り合いという競争原理によるとされる。両親の間で最初に生まれた兄は、両親の愛を独占している。ここでは競争原理は未だない。両親の愛を一身に受けて、両親の保護の元で平穏に過ごしている。そこに弟が生まれる。そのことによって、両親の愛が半減するわけではないが、少なくとも「独占」という特権は脅かされる。ここから兄弟間における葛藤(conflict)が始まる。この場合、兄の方は自分に向けられた愛の一部であれ「奪われた」という被害者意識があるのに対して弟の方にはそういう意識は全くなく、それがこの世の当たり前の状態として単純に受け入れることができる。つまり兄の側での一方的な「加害者なき被害者意識」である。ここに兄と弟の性格形成のズレ根本的原因がある。ところが、双子の場合には、この点では兄も弟もまったく同じ条件であるにもかかわらず、恣意的に(文化によって)兄と弟が定められ、兄の方には兄の役割が、弟の方には弟の役割が振り分けられ、強制される。ここに兄には兄の不満が、弟には弟の不満が内向し、両者の間の葛藤はより強化される。ヤコブが兄の「かかとをつかんで生まれてきた」(創世記25:26)という伝説はこの関係を美事に表現している。ヤコブの策略によって長子の権利を奪われたとき、エサウは「彼をヤコブとはよくも名付けたものだ。これで二度もわたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた」(創世記27:36)と嘆く。
父親は兄を、母親は弟を偏愛した(25:28)とされるが、実はこれは親の子に対する偏愛というよりも、内向された不満の現れと見た方が正確であろう。エサウは兄としての特権である「長子の権利」(創世記25:31-34)を「当然の権利」として甘受し、弟ヤコブはそれを奪うべきターゲットする。この態度は、弟が作った「赤いもの(アドム)」を「食べさせろ」と要求するエサウの態度と共通する兄の特権意識である。弟には兄の特権意識にあぐらかいている態度が許せない。ヤコブは逆に兄のこの態度を利用して、兄の特権を奪ってしまう。 その結果、弟は兄と共に生きることが不能となり、家出をすることになる。それを手助けしたのが母リベカであった。エサウとヤコブとのこの対立はたまたま起こった偶発的な不運ではなく、双子の兄弟という存在のあり方が内包している競争原理が表に出て来たのである。
そのようなことがあって、それぞれがそれぞれの道を歩むのであるが、人間が人間として人生を全うするためには、この敵対関係をそのままに放置しては生きていけない。一人っ子の問題は別に機会に考えるとして、兄弟関係を一度でも経験した人間は、相手が欠けた時に「欠如感」を抱く。特に双子の場合にそれは顕著であるとのことである。欠如感の別な形としての決定的な敵対関係は双方の心において「空白地帯」となり、和解なしには人生の充実感を得られなくなる。これが、いわゆる友情と兄弟関係との違いである。
3. 人格的和解
さて、本日のテキストのメインテーマは、相対立する兄と弟との和解の出来事である。和解の出来事について論じる前に、兄弟関係におけるもう一つの原理に触れておきたい。兄弟という内的関係においては競争原理が働くが、また同時に対外的には兄弟は一体化する。わたしたちが誰かに対して「兄弟」と呼ぶときには、それは「仲間内」ということを意味する。つまり、兄弟とは他に対して「わたしたち」と呼べる関係である。部族とは兄弟関係の拡大である。一般的には部族とか民族というものを拡大された家族関係というとらえ方があるが、むしろ厳密には兄弟関係の拡大が部族であり、民族であろう。イスラエル12部族とはヤコブの12人の息子たちの子孫である。従って、兄弟関係とは競争原理と同一原理という二つの要素が絡み合うアンビヴァレンス(ambivalence)な関係である。
さて、兄弟間の確執の克服としての和解とは、兄弟関係に内包されている同一原理とは異なる。その同一原理とは「血」または「出自」による共通性ということであって、人格的な和解とは次元が異なる。兄弟間の競争原理に基づく敵対関係は近親者同士だからこそ起こる関係であって、一種の近親憎悪である。この近親憎悪は同一原理によっては克服できない。「わたしたちは同じ親の子どもではないか」と言っても、そんなことは始から分かり切っていることであり、何の解決の糸口にもならない。むしろ、真の和解は相互に「他者性」、「我と汝」という関係を承認することによって、達成できる人格的出来事である。本日のヤコブとエサウとの和解の出来事はそのことをより明白に、絵画的に描いている。
4. ヤボクの渡しでの出来事
ヤコブは兄エサウの憎悪により家に居れなくなり(27:42)家出をした。落ち着き先を手配したのは、母リベカである。それやこれやで、ヤコブはリベカの実家ラバンのもとで居候生活を始めた。兄弟がまったく別々の世界でそれぞれが生きるならば、何も問題も葛藤も起こらない。兄弟は他人の始まりである。しかし、本当にそれで問題は完全に消えるのだろうか。なぜ、ヤコブはラバンの元を去って、父イサクの元に戻ろうと思ったのか。面白いことに、ヤコブは父イサクの家を出たときから「無事に父の家に帰る」(28:20)ことを神に誓い、約束している。この誓いを忘れていた頃、神が約束の実行を迫る(31:13)。ヤコブは家に帰らなければならない。帰ることによってヤコブである。旅先のヤコブはあくまでも仮のヤコブであって、そこでどれ程成功しても、幸せになってもそれは本来のヤコブではない。それが「ヤコブ」(25:26,27:36)という名前である。
ラバンの家に落ち着いたヤコブはここでも持ち前の才能を発揮し、たちまちの内にラバンの娘二人に彼女たちの召し使い二人を加えて四人の妻を持つようになり、彼の個人資産もかなり貯め込んだ。その上で、舅のラバンと交渉して、帰国することになった(32:1)。その途中での話である。いよいよ、彼の故郷近くの「ヤボクの渡し」と呼ばれる場所に着いた。ここを渡れば、兄エサウが支配する領地である。そこまで来てヤコブは非常に不安になった。自分に対する兄の憎しみは消えているのか。兄は許してくれるのだろうか。それが分からない。兄弟間にはお互いに分からないことが沢山ある。あって当然である。弟にとって、根本的な不知は自分が未だ生まれてこなかったときの兄のこと、兄と両親との関わりを知らない。想像もできない。しかし、お互いに知らないということは現実的には山ほどある。兄が本当のところどう出て来るの分からない。そのことに関しては兄の方でも同様であろう。兄弟喧嘩が再発するのではなかろうか、という不安は双方にある。この認識が重要である。兄弟のことはお互いに誰よりもよく知っているという認識が誤りなのである。本日のテキストはそこから始まる。
ヤコブは兄との再会に備えて涙ぐましい準備をする。その準備は、いわば和平と戦争の二面作戦である。ヤコブは先ず、兄の出方を調べるために、兄に使いを派遣する。使いの報告は恐ろしいものであった。兄は400人の手下を集めて、こちらに向かっているという。最悪の状況である。こちらには、それに対応できるような手下もいなければ、軍備もない。ヤコブは最悪の状況を想定して、使用人や財産を二組に分けて、一つが攻められているときに、もうひと組が逃げれるように準備をした。完全に争わないで逃げる作戦である。なにしろ、兄は野山を駆けめぐって野獣を捕まえるのが趣味の男である。荒っぽさはヤコブの比ではない。争えば、負けるに決まっている。万が一、そういう事態になれば、残されているのは手段は貢ぎ物作戦だけある。貢ぎ物作戦に持ち込めば、何とか打開の道はある。いわば、武力に対する経済力による戦いである。(解説者の感想:実に面白い。どちらが勝つか。これは他人の傍観者的、批評家的解説である。)
当の本人は、面白いなどとは言っておれない。おそらくその晩は寝られなかったのだろう。ヤコブは、先祖の神に必死になって祈っている(32:10-13)。祈りながら、さらに作戦を考える。より効果的な貢ぎ物作戦。わたしたちの国の「思いやり予算」、あるいは、ペルシャ湾における燃料補給作戦のようなものである。ヤコブは兄への贈り物を三つに分けて、順番に届くように手配し、それぞれ出発時間をずらす。いわば贈り物の三段作戦である。作戦が細かい。狙ったターゲットを必ず落とす有能なビジネスマンのようである。その上で、いよいよ最後に家族にヤボクの渡しをわたらせ、たった一人その場に残る。
ここからは聖書本文を読もう。
ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた(26-32)。
5. 兄弟の和解 この出来事について聖書学者たちはいろいろと議論をする。中には有益な議論もあるが、わたしは必要ないと思う。いずれにせよ、これは一種の伝説であり、民話である。民話にカッパが出て来ても誰も驚かないし、そんなことはあり得ないなどという議論もしない。むしろ、素直にこの文章を読んで、ヤコブの葛藤の深さを理解することが重要である。兄との葛藤といってもいいだろうし、自分自身との格闘といってもいいだろう。むしろ、読者自身が自分の経験に照らし合わせて、兄弟喧嘩がどのようにして克服されたのか、ということを考えたらいい。もし、まだ克服されていないとしたら、それを妨げているものは何かを考えればいい。とにかく、ここでヤコブは贈り物作戦はどれ程緻密に大量にしても、それらは気休めにすぎないということをよく知っていた。兄弟喧嘩は金でや暴力によっては解決しない。
この物語の中で、この「何者か」は、ヤコブに「おまえの名はなんというか」と質問している。それに対して「ヤコブです」と答える。まるで、英語を習い始めた頃の問答である。「What is your nname?」「My name is ・・・・」。この単純な問答がクライマックスである。もちろん、ここでヤコブという名前にまつわるいろいろな意味もあるだろう。それより、この質問は「わたしは何者か」という質問であり、わたしは何者かということを悟ることが、兄弟喧嘩を克服する道であることを語っているように思う。
ヤボクの渡しでの格闘は結局どちらが勝ったのかはっきりしない。「何者か」はヤコブが勝ったという(26節)が、ヤコブには勝ったという意識はなかっただろう。むしろ、「股を痛めて」(32節)ドクターストップである。戦闘能力を喪失したのであるから、むしろ負けたというべきだろう。この際、負けていいのである。これが、ヤコブの人生において初めての敗北経験であった。敗北を経験した、ヤコブは初めて兄の前に敗北者として立つことができた。33章の1節から11節までのヤコブの姿勢は完全に敗北者としての行動である。この「敗北者」とは喧嘩に負けたというよりも、「あなたはあなた、わたしはわたし。わたしはあなた所有物を欲しがらない」という宣言に外ならない。「わたしはわたし、兄は兄」という自己認識が兄弟間の和解をもたらす。実は、兄弟間の葛藤とは「あなたのものをわたしも(あるいは「は」)欲しい」というところに根がある。敗北者としてのヤコブは「奪う者」から「贈る者」への変換である。ヤコブが変われば、兄エサウも変わる。ここに、兄弟の和解は成立した。和解の結果、彼らが得たものは、「心の欠如感」が克服されただけではなく、むしろ「わたしには兄がいる」、「わたしには弟がいる」という充実感である。
6. 余談
33章8節から17節の部分は、読んでいてハラハラする。本当にこれで和解は成立したのか。何か、まだ「だまし討ち」があるのか。彼ら二人の会話はそれ程ぎこちない。読んでいて、ハラハラする。しかし、結局何も起こらない。二人はそれぞれ別な場所で別々に生活をする。実は、これが兄弟の和解という出来事の実態である。それでいい。それがいい。そうでなければならない。


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
きょうだい (ぱんぷきん)
2007-10-16 20:36:06
はじめまして。
聖書には本当にたくさんきょうだい同士の確執が出てきますね。
ぱんぷきんは一人っ子なため、そんなきょうだい喧嘩さえも羨ましくなります。
なんだかんだ言っても、きょうだいには、他人や従兄弟の入り込めない絆があるように感じます。

イサクとイシュマイルの関係でも、一般的に2人は不和だったように考えられていますが、本当にそうなのかな?と思います。
2人きりのきょうだいなのに、途中で離れ離れになって、イサクも寂しかったのでは・・・?と。

ログにも書かれているように、きょうだいがいると、人間関係において学ぶ機会がとても多いし、きょうだいがいるって、やっぱりいいですね^^
返信する