落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 主はわたしの牧者  詩23

2011-05-09 21:27:03 | 講釈
S11R04Ps023(L) 復活節第4主日 2011.5.15

<講釈> 主はわたしの牧者  詩23

1.詩23のテキストについて
詩23に関しては文語訳聖書あるいは文語訳祈祷書の翻訳が、翻訳のレベルを超えて、完成度も高く、文学的な香りが豊かである。従って、この詩に関しては本文と訳文についての議論を省く。文語訳聖書の詩23と文語訳祈祷書のそれとは、ほとんど遜色がない。ただ2,3個所相違があるが取り上げて議論するほどでもないので、ここでは文語訳祈祷書の白文をテキストとする。

2.テキスト

主はわが牧者なり。われ乏しきことなからん。
主はわれを緑の野に伏さしめ、
憩いの水際に伴い給う。
主はわが魂を生かし、
御名のために、正しき道に導き給う。
たといわれ死の陰の谷を歩むとも災いを恐れじ。
汝われと共にいまし、
汝のむち、汝の杖われを慰む。
汝わが仇の前に我がために宴を設け、
わがこうべに油を注ぎ給う。わが杯は溢るるなり。
われ世にあらん限り、惠みと憐れみとは、必ずわれに添い来たらん。
われはとこしえに主の宮のうちに住まわん。

3. 主はわが牧者なり
詩23が詩編の中の詩、「詩編の真珠」であることに疑義を持つものはいないであろう。詩23がどれだけ多くの人を慰め、励ましてきたであろうか。この詩で描かれている神(ヤハゥエ)と私の関係の美しさは他にたとえようもない。
先ず、冒頭の一句が衝撃的である。「主はわが牧者なり」。この句は説明でもなければ、賛美でもない。宣言文である。全世界に対する「私」の宣言である。「主はわが牧者なり」。この宣言によって、私という存在と神との関係が語り尽くされている。神との関係だけではない、私と世界との関係、私という存在が世界に対してどういう存在なのかということも宣言されている。
この「主」という言葉はもちろん、通常の「主人」という意味ではなく「神」という言葉の代理語である。少し説明がいるだろう。ここで「主」と読まれている単語は、いわゆる「聖なる四文字」である。ユダヤ人社会においては、神の名をみだりに唱えてはならないという伝統に従って「神の名」が出てくると、その言葉を唱えずに代わりに「アドナイ」と読んだ。「アドナイ」という言葉は「主人」を意味する普通の単語であるが、その単語の読みを「聖なる四文字」に当てはめたのである。そのため、ユダヤ人たちはこの単語の本当の読み方を忘れてしまった。その後、ヘブライ語そのもの研究が進み、どうやらこの聖なる四文字は「ヤハゥエ」と発音するらしいということがわかってきたが、これを「アドナイ」と読む習慣は残ったのである。従って、この「ヤハゥエ」という単語は神についての普通名詞であるのか、固有名詞であるのか大いに議論がある。従って、これを日本語に翻訳する場合に「ヤハゥエ」と音訳するか「主(アドナイ)」という伝統的な訳語を使うかということでも議論がある。
詩人はこの単語を冒頭に持ってきて「主はわが牧者なり」と宣言する。意味は「神はわが牧者なり」と変わらないが、述べようとするメッセージは全然異なる。ここで詩人は「神はわたしの牧者である」と宣言していない。「神」という言葉が出てくると、すぐに人びとは「神の存在について」、「神の定義づけについて」議論を始める。しかし、詩人はここで「ヤハゥエ」という言葉を用いることによって、それらのすべての議論を封じ込める。私にとって神とはヤハゥエである。私にとってヤハゥエ以外に神を知らない。もちろん、これはユダヤ人の文化と歴史抜きには語れない。そんなことは承知の上で、敢えて「主はわが牧者なり」と宣言する。ヤハゥエに関するすべての議論を「わが牧者なり」という述語が吸収してしまう。この「わが」とは「私」である。私が産まれたときか今日までのすべてを導いた方、もっとはっきり言うと、この方が在って、私がある。私という存在のすべてがこの方に依存している。それが主であり、私の牧者である。

さて詩23はこの堂々たる宣言で始まる。というより、これがすべてである。それは詩23を超えて私の生がすべてここに凝縮されている。それが「われ乏しきことなからん」という言葉によって語られている。主がわたしの牧者である限り、私には欠けているもの、なくてならないのにないものは何もない。必要なものはすべて備えられている。この言葉が「豊かである」でないところが重要である。「あり溢れている」のではない。「乏しくない」のである。関根先生はこれを「わたしには欠ける所がない」、岩波訳でも「わたしに欠けるものはない」と訳している。

4.「緑の野に伏さしめ」
2節と3節は、「乏しくない」という現実の詳論である。牧者と私との関係の描写である。細かい説明は不要であろう。「主はわれを緑の野に伏さしめ、憩いの水際に伴い給う。主はわが魂を生かし、御名のために、正しき道に導き給う」。羊にとって緑の野とは豊かな食物であると同時に身体を休ませる場所でもある。羊たちは草で満腹し、草の上に伏す。動詞「伏さしめる」は未完了・使役・能動態で、それが毎日のことであることを示している。この部分での主語はすべて「主」である。主が私のためにしてくださることであり、主と私との基本的な関係がここにある。
「憩いの水際」も「緑の野」というイメージと重なるが、むしろここでは生きるための基本的な条件であると共に「楽しみの場」であり、「静まりの場所」を示しているのだろうか。その意味では信仰的には神との交わりを含蓄しているのだろうか。その意味では「伴い給う」という言葉がその意味を助けている。まるでヤハゥエとのデイトを思わせる。その結果、身も心も霊も「生き返る」(新共同訳)。
「御名のために、正しき道に導き給う」という言葉は、羊と羊飼いとの枠を超えている。思わず比喩的表現を超えてしまったのであろう。「正しき道」とは「義の道」(新改訳)とも訳される。意味するところは「本来あるべき道筋」(詩17:5)である。

5.「死の陰の谷」
4節の「たといわれ死の陰の谷を歩むとも災いを恐れじ」という言葉は、ここまでの穏やかな、牧歌的な雰囲気を打ち破る。「死の陰の谷」という訳語には疑義があるといわれている。岩波訳では「死の陰」という句は70人訳が通俗的な語源の影響を受けた誤解に基づく訳であるという。その誤解がそのまま伝承されたものであるという。正しくは「死」とは無関係で単に「暗黒の谷」であるとする。とは言え、ここでの「暗黒の谷」とは詩人にとってまさに「死」を予感させる人生の谷間であるので、「死の陰の谷」という表現も捨てがたい。
人生には山もあれば谷もある。緑の牧場もあれば死の陰の谷もある。陽の差す日々もあれば、涙する夜もある。憩いの水際もあれば、戦いの戦場もある。ここで詩人は、「たといわれ死の陰の谷を歩むとも災いを恐れじ」と言い、その理由として「汝われと共にいます」と言う。
通常ヘブライ語では「ともにいる」という単語は「イム」が使われる。ところが、ここでは「インマード」という単語が用いられている。この「インマド」という単語は詩篇では4回(23:4、50:11、55:18、101:6) しか使われていない。この「インマド」の後に神という単語「エル」が付加されると「インマヌエル(神共にいます)」(イザヤ7:14、マタイ1:23)という言葉になる。この「汝われと共にいます」は死の陰の谷だけではなく、緑の牧場でもそうであったし、憩いの水際でもそうであった。その意味では、この言葉は「主はわが牧者なり」という言葉の言い換えでもあるし、発展でもある。

6.「汝とわれ」
実はこの詩は、この言葉を回転軸としてぐるっと廻る。ここまでは羊飼いと羊との関係で描かれてきた。ところがここからは「羊飼い」から「汝(あなた)」に変わる。「汝われと共にいまし、汝のむち、汝の杖われを慰む」。つまり詩人は神を「汝」と呼ぶ。そこではもはや私は「羊」ではない。「われ」である。つまり、神と私との関係が「汝」と「われ」という関係に転換する。この転換がこの詩を一段深いものにする。ここから詩23はのどかな牧歌的な詩から人生の苦悩における私と神との関係の詩に変わる。もう少し細かくいうと、4節は3節までの締め括りであると同時に、5節以下の出発点でもある。4節後半の「汝のむち、汝の杖」は羊飼いにとって、羊を外敵から守り、羊の群れを導く必需品であると同時に、5節以下の「敵」に対する「力」を意味する。
「汝のむち、汝の杖」がわたしの慰めとなる。羊飼いが「むち」と「杖」の2種類の装備を持っているように思われるが、実は羊飼いの持っている「杖」は外敵に対する武器の役割をすると同時に羊の群れを導く杖でもある。つまり、羊飼いの権力と権威の象徴である。それはもはや羊飼いの武器ではなく、「汝」のものである。汝が共にいるということの安心感の象徴である。ここで「慰める」という言葉について、岩波訳では「励ます」、関根訳では「勇気を与える」、祈祷書訳では「導く」、新共同訳では「力づける」と訳している。

7.「仇の前で」
この詩の本当のメッセージは4節までの羊飼いと羊との牧歌的な情景描写ではなく、5節以下の詩人のかかえている「仇」との関係である。ここでは詩人の「仇」についての描写は全くない。しかし詩人の問題は「仇の存在」であった。この「仇」が何を意味し、誰を意味するかについては何もわからない。しかし「仇」がいたことだけは明白である。詩人は常に「仇」に脅かされていた。それは4節では「死の陰の谷」という言葉で表現されていたのであろう。「仇」はストーカーのように詩人につきまとう。詩人は表面的にはどんなに楽しそうに生きていたとしても、心の奥底では常に「仇」に脅かされていた。
しかし今詩人はその「仇」をも恐れない。なぜなら主が共に居られるから。しかもその主は力強い。頼りになる。「主とともにいる」ということは「汝わが仇の前に我がために宴を設け」るようなものである。「仇」の前での宴会。しかも、それは主が主催する宴会である。これは単なる食事会ではない。主が客をもてなす「宴」であり、それは主人が他の者、全世界、とくに「仇」に対して、主と客との親密な関係を宣言する行為である。彼は「彼と私とは共であり、彼の敵は、私の敵でもある」という宣言である。これではさすがの「仇」も手が出せない。
ここでは次の言葉が楽しい。「わがこうべに油を注ぎ給う。わが杯は溢るるなり」。「頭に油を注ぐ」なんて言われると何か気持ちが悪く思うが、その油が香油だったらどうか。イエスのベタニヤのマルタ、マリアの家に招かれたとき、マリアは「純粋で非常に高価なナルドの香油」をイエスの足に塗ったといわれている(ヨハネ12:3)。別の資料によると、その際「イエスの頭に注いだ」(マルコ14:3)ともいわれている。この個所を読むと、私はプロ野球の優勝が決定したときの祝勝会を思い浮かべる。この時の油とはビールだったのではないか。お酒だったかも知れない。ともかくこの場面はお酒を浴びるように飲み、ビールを頭から掛け合うようなどんちゃん騒ぎの描写である。それを今まで私を苦しめてきた連中の前でするというのである。そこは完全にセイフティゾーンになっている。全く無防備なパーティー。神と共にいるという状況とはそういう状況だという。

8. 生涯を振り返って
さて、詩23は祈祷書では「葬送の式」(348頁)「幼年葬送式」(372頁)、「通夜の祈り」(386頁)、「逝去者記念の式」(400頁)で読まれることになっている。なぜ、この詩がこれらの式において読まれるのか。その理由は6節の「われ世にあらん限り、惠みと憐れみとは、必ずわれに添い来たらん。われはとこしえに主の宮のうちに住まわん」という言葉によるものであると思われる。そして多くの場合、さいごの「われはとこしえに主の宮のうちに住まわん」に重点が置かれる。しかし私はそうとは思わない。むしろ私が重視するのは「われ世にあらん限り、惠みと憐れみとは、必ずわれに添い来たらん」という方である。もちろん、最後の言葉も重要であるが、一生の最後に全生涯を振り返って、「われ世にあらん限り」、つまり私の全生涯にわたって、「惠みと憐れみとは、必ずわれに添い来たらん」、つまりずーっと「恵みと憐れみ」とが付き添っていたと思う。片時も、「恵みと憐れみ」とが離れることがなかった。これは「主が共に居られた」ということとは別のレベルのことで、もっと具体的に私の全生活に密着していたという意味である。先日、イギリスのウイリアムス王子とキャサリン・ミドルトンさんとの結婚式が行われた。イギリスのロイヤル・ファミリーらしい結婚式であった。テレビで1週間も前から大騒ぎで、いろいろな映像が流された。その中で結婚式を1週間後に控えたキャサリンさんが民間人としては最後のショッピングということで町を歩く映像が流れたが、その時キャサリンさんのすぐ後に何か怪しげな男が二人歩いていた。彼らはSPだとアナウンサーは説明していた。もうその段階でキャサリンさんにはSPがついていた。
実は今日のテキストの「恵みと憐れみ」とは神共にいますということが人格化された存在である。関根先生はこの部分を「恵みと慈しみとが追いかけてくる」と訳し、これは非常に強い表現で「敵に追われていたこの身が今や神の恵みと慈しみに追跡される」と説明している。つまり「仇」にストーカーされていたわたしがいまや神の「恵みと憐れみ」にSPされている。SPは私がこれから行こうと思っているところをあらかじめ察し、そこの安全を確かめたりなどして、私を守ってくれている。守るだけではなく、いろいろな配慮をして私の願いが実現するように助けてくれている。

8. 「永遠の住まい」
人生を終えた後、私のために「永遠の住まい」が準備されている(ヨハネ14:2-3)。その永遠の住まいについてここでは「アドナイの家」と呼ばれている。よく考えてみると、この詩は「アドナイ」で始まり、「アドナイの家」で終わる。さらによく考えてみると、私はもう既に「アドナイの家」に住んでいるのではなかろうか。「アドナイはわが牧者なり」というとき、また「主はわれを緑の野に伏さしめ、憩いの水際に伴い給う。主はわが魂を生かし、御名のために、正しき道に導き給う。たといわれ死の陰の谷を歩むとも災いを恐れじ」と語るとき、もう既に私はアドナイの保護の元にあり、「アドナイの家」に住んでいる。私が生きているこの場所が既に「アドナイの家」「永遠の住まい」である。

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