みなさま、
暑い夏が過ぎ去ったと思ったら、今度は台風攻め。今年の日本列島はどうなっているのでしょうね。
最近テレビを見ていて一つのことが気になります。それは「身近な凶悪犯罪」ということです。昔から凶悪犯罪といわれる事件はありましたが、それが最近では非常に身近な人々、いわゆる「仲間」とか「友だち」と呼ばれる人々の間で、しかもほんの些細なことによって起こっているということです。それだけ人々の心が荒んでいるのでしょう。まさに「人間関係の危機」です。それはそのまま、キリスト教の責任領域ではないかと思っています。
S13CT23(L)
2013.10.13
聖霊降臨後第21主日(特定23)
<講釈> 新しい人生への決断 ルカ17:11-19
1. ルカは何を意図しているのか。
資料としては他に平行記事がないので、一応ルカの特殊資料とするしかないが、この話はいったい何なのか。譬えなのか、実話なのか。学者の間ではいろいろな説があるが、ともかくいくつか矛盾している点もあるが、話全体としてはまとまっている。ということは、話し手は細かい矛盾点は無視して、メッセージそのものを強く打ち出している。
細かい矛盾点とは、先ず第1に話の舞台を「サマリアとガリラヤとの間にある村」という曖昧な空間に設定している。いったいそこはどこなのか。「サマリアとガリラヤとの間」という地名は明瞭である、それがどこかはっきりしない。
第2にここでのイエスの行動も変である。普通、イエスは重い皮膚病の人の病を癒す場合、近寄り体に触れて「清まれ」(5:211)という。ところがここでは遠くの方から「祭司たちのところへいって、体を見せなさい」というだけである。まだ癒されていない重い皮膚病の人々に癒された場合の社会復帰の手続きだけを語る。しかも遠くの方から。話者にとって癒しの方法にはあまり関心がないのかもしれない。もともと、祭司のところにいって体を見てもらうのはユダヤ人にだけ重要な問題でサマリア人には全く関係のないことである。イエスはサマリアとガリラヤの間の村に来て、そこにはサマリア人は居ないかのように振る舞っている。
第3に、イエスはそれがサマリア人であるということが分かっているのにわざわざ、「この外国人」という言い方をする。もっともこの「外国人」というのは誤訳に近い。元々の言葉は「生まれが違う者」という意味で、ユダヤ人たちにとって隠語に近い言葉である。なぜイエスはわざわざこんな差別的用語を使ったのだろうか。あるいは作者はイエスに使わせたのだろうか。
その他、細かい点になると、いろいろおかしなことが出て来る。ところが、そういう細かい点に目をつぶると語りたいメッセージはかなり鮮明に浮かんである。
2. とにかく読んでみよう。
11-13 <イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。>
「イエスはエルサレムへ上る途中」、この言葉には特別な意味はない。ルカはこの話をイエスのエルサレム旅行への道中話として語る。
「サマリアとガリラヤの間」。実際の旅行記として見るとこの旅程にはかなり無理がある。いうならば、そこはサマリアでもなくガリラヤでもない空間。文学的に言うならば、「地図にない場所」であろう。そういう道があって、イエス一行はそこを通過しようとした。その道の右側か左側かよく分からないが、その道筋にある「ある村」にさしかかった。いわば「地図にない村」であろう。イエスと弟子たちはその村に入る訳でもなく通り抜けようとした。そのとき、遠くの方から人の叫び声が聞こえる。見ると10人程の男が叫んでいる。耳を傾けてよく聞くと、どうやら「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいるらしい。
この言葉を聞いてイエスはピンと来た。彼らは人々から忌み嫌われている重い皮膚病にかかっている人たちらしい。そうすると、「わたしたちを憐れんでください」という言葉の意味は、病気を癒して欲しいといういうことらしい。
14a <イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、>
つまりイエスはすべてを了解した。それで、今度はイエスの方も大声で叫ぶ。
14b <「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。>
この言葉を聞いた10人の男たちは戸惑ったに違いない。イエスは私たちの方に近づいて来て、頭に手を置いて「清まれ」とか言われるのではないだろうか。今まで聞いていたイエスの噂によるとそういう段取りになるのに、どうも今日は期待はずれか。おそらく10人の男たちは動揺したことだろう。これは私の想像であるが、議論もあったことだろう。イエスの言葉に従うべきか、なんだやっぱりダメかということでイエスに癒してもらうという期待を捨ててしまうべきか。彼らは議論の末、イエスの言葉に賭けてみようということになった。彼らの結束は固い。普通なら従う人と従わない人とで分裂する筈なのに、彼らは行動を共にすることになった。
14c <彼らは、そこへ行く途中で清くされた。>
まだ癒されない体のまま祭司のもとにいって体を見せるということは大変な勇気がいる。祭司のもとに向かう彼らの足は重かったことだろう。ところが彼ら歩き始めて暫く行くと病気が治った。重い皮膚病の場合、病気が治ったという自覚は非常に難しい事ではあるが、ここではそういう細かいことは抜きにしておこう。ともかく彼らの病気は癒された。彼らは驚いたに違いない。もう、何の心配もなく祭司のところに行ける。彼らは喜び勇んで祭司のところに向かった。
15 <その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。>
ところが、ここに一人だけ、病気が癒されたということが分かった時、大声を上げたと言う。日本語では「大声で神を賛美しながら戻って来た」と訳されているが、厳密には「大声で」という副詞は「戻った」あるいは「引き返した」という動詞に係っているので、ここでは「大声を上げて引き返し、神を賛美した」と訳すべきであろう。ここでこの「大声を上げた」というのは何を意味するのだろうか。何か大変なことを思い出した。あるいは気付いたということか。いざ本当に治ってみると、今までユダヤ人たちと何のわだかまりもなく仲間意識を持っていたが、自分と彼ら(9人)との違いに気がついたのか。彼は自分がサマリア人であり、祭司のところに行く必要がないということに気付いた。そしてこの仲間たちと別れなければたならないということに気づいた。それで彼は大きな声をあげたのではなかろうか。だから大声を上げるということと戻るということが結びついている。そして仲間たちと別れて、一人で行動しなければならない。とりあえず、彼はイエスのところに戻り、神を賛美した。これが15節までのところであろう。
3. 話者の立ち位置視点
ここまでのところと、これからの部分とで語り手の立つ位置が明らかに変わる。ここまでは出来事をいわば客観的に淡々と語って来ている。その意味では語り手がどういう立場にに立って語っているのかほとんど意識しないで読むことができるが、ここからは語り手は一つの明白なメッセージを持って語り始める。
16 <そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。>
これはいったい誰の言葉であろうか。ここまでの語り手はイエスであった筈であるのに、ここで突然イエス以外の誰かが口を挟んでいる。もちろんそれはルカであろう。だから、ここで「この人はサマリア人であった」という言葉は18節のイエスの「この外国人」という言葉とが重複している。また、16節を挿入句として省略すると、15節の「神を賛美する」という言葉と18節の「神を賛美する」という言葉がスムースにつながり、話の筋がスッキリする。
そう思ってこの部分を読むと「ひれ伏して感謝した」という言葉はいかにも教会での説教らしい。このサマリア人が戻って来たところはユダヤ人としてのイエスの元ではない。礼拝されるべきイエスの元に戻って来た。これは完全に教会的な視点からの発言である。従って、この「ひれ伏して感謝した」という言葉は単に病気を癒していただいてありがとうございます、というようなレベルの感謝ではなく、生活の転換を意味する感謝である。
17-18 <そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。>
話は15節に戻って、イエスは10人が戻って来ることを期待していたのだろうか。単に神を賛美するのであるならば、どこででも出来る。祭司のところに行ったのであるから、祭司のところで神を賛美すればいい。病が癒された彼らにとってイエスはもはや無縁の人であろう。イエスは彼らが惨めであったときのことを知っている人物であり、むしろ忘れたい人物であったかもしれない。その意味では、一人の外国人が戻って来たということは驚きであったであろう。その意味では9人のことより、この外国人はなぜ戻って来たのかが謎であったであろう。その意味では「神を賛美する」ということと「戻って来た」ということとは必ずしも同じことではない。重い皮膚病が治ったことが分かったとき、先ず飛んで行くのは祭司のところであろう。そして治ったということがはっきりしてからいろいろな行動に移る。それが普通であろう。なぜこの男は戻って来たのか。そのことについてテキストは何も語らない。テキストが語らない以上読者が考えなければならない。何から考えようか。事実は1人の外国人だけが戻って来て他の9人、おそらくユダヤ人は戻って来ていない。イエスは「他の9人はどこに行ったのか」と問う。彼らがどこに行ったのか、それは明らかである。これが考えるヒントである。
9人が行った行き先は明らかである。それは彼らが病にかかる前にいた場所に戻って行ったに違いない。彼らは社会復帰をした。彼らは喜び勇んで彼らがもと居た場所に戻っていた。そこは、重い皮膚病の人々やサマリア人を差別するユダヤ人社会に他ならない。彼らは司祭に体を見せて社会復帰を認められそこに戻って行った。確かにそれは彼らにとって居心地のいい場所であるに違いない。そこまで考えると「他の9人はどこにいるのか」というイエスの言葉は質問の言葉ではなく深い嘆きの言葉である。彼らは新しい生き方を選択できるチャンスを捨ててもとの生活に戻って行ってしまった。
しかし、この外国人だけは、いわばサマリア人社会からもユダヤ人社会からも捨てられて、いや人間社会から捨てられて「無国籍者」となった彼は新しい生き方を求めてイエスのもとに戻って来た。彼にとってイエスはユダヤ人でもなくサマリア人でもなく、そういう枠組みから全く自由にされた人間を示していた。彼の戻って来る場所はここにしかない。
19 <それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。>
18節との間にどれだけの時間が流れたか分からない。イエスはその男をじっと見て、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた。イエスは私に従えとも言われない。もうあなたは自分の足で立ち上がり、自分の好きなところへ行ける。つまり、自分の生き方は自分で決めることが出来る人間とされた。イエスの最後の言葉はそういう意味に受け取らねばならない。もう誰もあなたに、こうせい、ああせい、ということはない。誰かの指示のもとで生きることはない。 「あなたの信仰があなたを救った」のだ。
暑い夏が過ぎ去ったと思ったら、今度は台風攻め。今年の日本列島はどうなっているのでしょうね。
最近テレビを見ていて一つのことが気になります。それは「身近な凶悪犯罪」ということです。昔から凶悪犯罪といわれる事件はありましたが、それが最近では非常に身近な人々、いわゆる「仲間」とか「友だち」と呼ばれる人々の間で、しかもほんの些細なことによって起こっているということです。それだけ人々の心が荒んでいるのでしょう。まさに「人間関係の危機」です。それはそのまま、キリスト教の責任領域ではないかと思っています。
S13CT23(L)
2013.10.13
聖霊降臨後第21主日(特定23)
<講釈> 新しい人生への決断 ルカ17:11-19
1. ルカは何を意図しているのか。
資料としては他に平行記事がないので、一応ルカの特殊資料とするしかないが、この話はいったい何なのか。譬えなのか、実話なのか。学者の間ではいろいろな説があるが、ともかくいくつか矛盾している点もあるが、話全体としてはまとまっている。ということは、話し手は細かい矛盾点は無視して、メッセージそのものを強く打ち出している。
細かい矛盾点とは、先ず第1に話の舞台を「サマリアとガリラヤとの間にある村」という曖昧な空間に設定している。いったいそこはどこなのか。「サマリアとガリラヤとの間」という地名は明瞭である、それがどこかはっきりしない。
第2にここでのイエスの行動も変である。普通、イエスは重い皮膚病の人の病を癒す場合、近寄り体に触れて「清まれ」(5:211)という。ところがここでは遠くの方から「祭司たちのところへいって、体を見せなさい」というだけである。まだ癒されていない重い皮膚病の人々に癒された場合の社会復帰の手続きだけを語る。しかも遠くの方から。話者にとって癒しの方法にはあまり関心がないのかもしれない。もともと、祭司のところにいって体を見てもらうのはユダヤ人にだけ重要な問題でサマリア人には全く関係のないことである。イエスはサマリアとガリラヤの間の村に来て、そこにはサマリア人は居ないかのように振る舞っている。
第3に、イエスはそれがサマリア人であるということが分かっているのにわざわざ、「この外国人」という言い方をする。もっともこの「外国人」というのは誤訳に近い。元々の言葉は「生まれが違う者」という意味で、ユダヤ人たちにとって隠語に近い言葉である。なぜイエスはわざわざこんな差別的用語を使ったのだろうか。あるいは作者はイエスに使わせたのだろうか。
その他、細かい点になると、いろいろおかしなことが出て来る。ところが、そういう細かい点に目をつぶると語りたいメッセージはかなり鮮明に浮かんである。
2. とにかく読んでみよう。
11-13 <イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。>
「イエスはエルサレムへ上る途中」、この言葉には特別な意味はない。ルカはこの話をイエスのエルサレム旅行への道中話として語る。
「サマリアとガリラヤの間」。実際の旅行記として見るとこの旅程にはかなり無理がある。いうならば、そこはサマリアでもなくガリラヤでもない空間。文学的に言うならば、「地図にない場所」であろう。そういう道があって、イエス一行はそこを通過しようとした。その道の右側か左側かよく分からないが、その道筋にある「ある村」にさしかかった。いわば「地図にない村」であろう。イエスと弟子たちはその村に入る訳でもなく通り抜けようとした。そのとき、遠くの方から人の叫び声が聞こえる。見ると10人程の男が叫んでいる。耳を傾けてよく聞くと、どうやら「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んでいるらしい。
この言葉を聞いてイエスはピンと来た。彼らは人々から忌み嫌われている重い皮膚病にかかっている人たちらしい。そうすると、「わたしたちを憐れんでください」という言葉の意味は、病気を癒して欲しいといういうことらしい。
14a <イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、>
つまりイエスはすべてを了解した。それで、今度はイエスの方も大声で叫ぶ。
14b <「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」。>
この言葉を聞いた10人の男たちは戸惑ったに違いない。イエスは私たちの方に近づいて来て、頭に手を置いて「清まれ」とか言われるのではないだろうか。今まで聞いていたイエスの噂によるとそういう段取りになるのに、どうも今日は期待はずれか。おそらく10人の男たちは動揺したことだろう。これは私の想像であるが、議論もあったことだろう。イエスの言葉に従うべきか、なんだやっぱりダメかということでイエスに癒してもらうという期待を捨ててしまうべきか。彼らは議論の末、イエスの言葉に賭けてみようということになった。彼らの結束は固い。普通なら従う人と従わない人とで分裂する筈なのに、彼らは行動を共にすることになった。
14c <彼らは、そこへ行く途中で清くされた。>
まだ癒されない体のまま祭司のもとにいって体を見せるということは大変な勇気がいる。祭司のもとに向かう彼らの足は重かったことだろう。ところが彼ら歩き始めて暫く行くと病気が治った。重い皮膚病の場合、病気が治ったという自覚は非常に難しい事ではあるが、ここではそういう細かいことは抜きにしておこう。ともかく彼らの病気は癒された。彼らは驚いたに違いない。もう、何の心配もなく祭司のところに行ける。彼らは喜び勇んで祭司のところに向かった。
15 <その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。>
ところが、ここに一人だけ、病気が癒されたということが分かった時、大声を上げたと言う。日本語では「大声で神を賛美しながら戻って来た」と訳されているが、厳密には「大声で」という副詞は「戻った」あるいは「引き返した」という動詞に係っているので、ここでは「大声を上げて引き返し、神を賛美した」と訳すべきであろう。ここでこの「大声を上げた」というのは何を意味するのだろうか。何か大変なことを思い出した。あるいは気付いたということか。いざ本当に治ってみると、今までユダヤ人たちと何のわだかまりもなく仲間意識を持っていたが、自分と彼ら(9人)との違いに気がついたのか。彼は自分がサマリア人であり、祭司のところに行く必要がないということに気付いた。そしてこの仲間たちと別れなければたならないということに気づいた。それで彼は大きな声をあげたのではなかろうか。だから大声を上げるということと戻るということが結びついている。そして仲間たちと別れて、一人で行動しなければならない。とりあえず、彼はイエスのところに戻り、神を賛美した。これが15節までのところであろう。
3. 話者の立ち位置視点
ここまでのところと、これからの部分とで語り手の立つ位置が明らかに変わる。ここまでは出来事をいわば客観的に淡々と語って来ている。その意味では語り手がどういう立場にに立って語っているのかほとんど意識しないで読むことができるが、ここからは語り手は一つの明白なメッセージを持って語り始める。
16 <そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。>
これはいったい誰の言葉であろうか。ここまでの語り手はイエスであった筈であるのに、ここで突然イエス以外の誰かが口を挟んでいる。もちろんそれはルカであろう。だから、ここで「この人はサマリア人であった」という言葉は18節のイエスの「この外国人」という言葉とが重複している。また、16節を挿入句として省略すると、15節の「神を賛美する」という言葉と18節の「神を賛美する」という言葉がスムースにつながり、話の筋がスッキリする。
そう思ってこの部分を読むと「ひれ伏して感謝した」という言葉はいかにも教会での説教らしい。このサマリア人が戻って来たところはユダヤ人としてのイエスの元ではない。礼拝されるべきイエスの元に戻って来た。これは完全に教会的な視点からの発言である。従って、この「ひれ伏して感謝した」という言葉は単に病気を癒していただいてありがとうございます、というようなレベルの感謝ではなく、生活の転換を意味する感謝である。
17-18 <そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。>
話は15節に戻って、イエスは10人が戻って来ることを期待していたのだろうか。単に神を賛美するのであるならば、どこででも出来る。祭司のところに行ったのであるから、祭司のところで神を賛美すればいい。病が癒された彼らにとってイエスはもはや無縁の人であろう。イエスは彼らが惨めであったときのことを知っている人物であり、むしろ忘れたい人物であったかもしれない。その意味では、一人の外国人が戻って来たということは驚きであったであろう。その意味では9人のことより、この外国人はなぜ戻って来たのかが謎であったであろう。その意味では「神を賛美する」ということと「戻って来た」ということとは必ずしも同じことではない。重い皮膚病が治ったことが分かったとき、先ず飛んで行くのは祭司のところであろう。そして治ったということがはっきりしてからいろいろな行動に移る。それが普通であろう。なぜこの男は戻って来たのか。そのことについてテキストは何も語らない。テキストが語らない以上読者が考えなければならない。何から考えようか。事実は1人の外国人だけが戻って来て他の9人、おそらくユダヤ人は戻って来ていない。イエスは「他の9人はどこに行ったのか」と問う。彼らがどこに行ったのか、それは明らかである。これが考えるヒントである。
9人が行った行き先は明らかである。それは彼らが病にかかる前にいた場所に戻って行ったに違いない。彼らは社会復帰をした。彼らは喜び勇んで彼らがもと居た場所に戻っていた。そこは、重い皮膚病の人々やサマリア人を差別するユダヤ人社会に他ならない。彼らは司祭に体を見せて社会復帰を認められそこに戻って行った。確かにそれは彼らにとって居心地のいい場所であるに違いない。そこまで考えると「他の9人はどこにいるのか」というイエスの言葉は質問の言葉ではなく深い嘆きの言葉である。彼らは新しい生き方を選択できるチャンスを捨ててもとの生活に戻って行ってしまった。
しかし、この外国人だけは、いわばサマリア人社会からもユダヤ人社会からも捨てられて、いや人間社会から捨てられて「無国籍者」となった彼は新しい生き方を求めてイエスのもとに戻って来た。彼にとってイエスはユダヤ人でもなくサマリア人でもなく、そういう枠組みから全く自由にされた人間を示していた。彼の戻って来る場所はここにしかない。
19 <それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。>
18節との間にどれだけの時間が流れたか分からない。イエスはその男をじっと見て、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われた。イエスは私に従えとも言われない。もうあなたは自分の足で立ち上がり、自分の好きなところへ行ける。つまり、自分の生き方は自分で決めることが出来る人間とされた。イエスの最後の言葉はそういう意味に受け取らねばならない。もう誰もあなたに、こうせい、ああせい、ということはない。誰かの指示のもとで生きることはない。 「あなたの信仰があなたを救った」のだ。