落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

復活節第5主日説教 聖なるもの

2007-05-02 11:14:28 | 説教
2007年 復活節第5主日 (2007.5.6)
聖なるもの   レビ記19:1-18
1. 復活信仰とは
わたしはこの春、京都教区を定年退職した文屋と申します。本日は九州教区での最初の礼拝奉仕でございますので、まず最初にハッキリさせておきたいことがあります。本日は復活節第5主日ですが、一体わたしたちが「復活を信じる」という場合、その言葉で何を語っているのかという点です。復活信仰がキリスト教信仰の中心であることは間違いありませんが、一体それは何を信じているということなのでしょう。
復活信仰とは、過去の一つの歴史的出来事として、主イエスの復活という「ありそうもない奇跡」を信じるということなのでしょうか。決して、そういうことではありません。主イエスが十字架上で死んで三日目に甦ったということが本当にあったのか、どうかという議論にとらわれていたら、復活信仰はただ単なる推理小説の謎解きか、あるいは生物学や物理学など個別科学の課題に過ぎなくなってしまうでしょう。わたしたちにはそういう仕方での復活論にはまったく興味がありません。むしろ、復活信仰とはわたしの具体的な生き方の問題であり、人と人との関わりの中で、わたしは何を最も大切なこととして考えているのかということについての答えなのです。もう少し説明いたしますと、復活という出来事あるいは経験は、わたしたちが生きていくことの上で土台となる経験で、それを経験したのと、経験していないのとではまったく違った生き方をするものです。
そういう視点に立って、はじめて本日の特祷は復活節の祈りになります。もう一度読んでみましょう。「全能の神よ、あなたをまことに知ることは、永遠の命に至る道です。どうかわたしたちが、み子イエス・キリストは道であり、真理であり、命であることを深く知ってみ跡に従い、永遠の命に至る道を絶えず進むことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします」(祈祷書220頁)。復活を信じるということは「あなた(=神)をまことに知ること」であり、それは「永遠の命に至る道です」と宣言されています。それは誰か他人がそういう風に言っているということではなく、わたしたち自身がそれぞれ自分自身の責任においてそう宣言していることなのです。
本日の旧約聖書のテキストでは「あなたを知る」ということの内容として「神は聖である」ということが宣言されています。この聖という意味はただ単に清らかであるということではなく、むしろ正しくは「おそろしいこと、驚くべきこと」という意味です。その驚きも、普通の驚きではなく、わたしの心も身体も震えるような驚きです。母親が子どもに対して両肩を揺すって、何かを訴えるように、神がわたしたちを揺すぶる。それが復活という出来事です。復活の主との出会いという経験を通して、わたしたちは神が身震いするほど驚くべき方であるということを知った。この経験をした者は、もはや今までのように常識的に、自分の考えに従って生きることはできない。これが、「神が聖であるように、わたしたちも聖なる者であれ」いう呼びかけなのです。
さて、本日のテキストの後半において(9節から18節)、わたしたちの生き方に関わる具体的な事柄が5つ取り上げられています。しかもていねいに、その一つづに「わたしは主である」(10節、12節、14節、16節、18節)という区切りを示す印が付けられており、非常に分かりやすく、誰でも読めば分かることです。全部取り上げるのは時間的に無理なことなので、それぞれで読んで味わってください。今日はその内の2つだけを取り上げたいと思います。
2. 社会福祉の課題
第1は、9節から10節。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」。これはまさに社会福祉の問題です。
普通の感覚といいますか、常識的には、収穫をするときに、畑の隅まで刈り尽くすということは、食料を無駄にしないという点からは褒められることです。同じように収穫後の落ち穂を拾い集めることも当然良いことです。しかし、事柄はそんなに単純なことではないのです。実は、「落ち穂を残す」ということは、貧しい人々や寄留者と呼ばれる人々に対する配慮の問題なのです。自分の畑を持てない貧しい人々は、裕福な人の畑で働き給料を貰って生活しています。給料が安いということもありますが、一人の賃金で家族を養うということは大変なことで、当時イスラエルの社会におきましては収穫をし終わった後、貧しい人々が自由に出入りして落ち穂を拾い集めて持って帰ることが許されていたのです。というよりも、それも働く人々の権利であったということも出来ます。有名な話しが旧約聖書のルツ記にも出て来ます。つまり、「落ち穂を沢山残す」ということは、貧しい人々や寄留者と呼ばれている人々に対する配慮の問題なのです。
もちろん現代社会でも社会的に弱わい立場に置かれている人々に対する配慮のシステムは不十分ながらだんだん整って参りました。それはそれとして良いことです。しかし、そのシステムに「心」があるのかということが問題です。この「落ち穂を残す」ということは社会福祉における「心」の問題です。現代社会における非常に複雑になっている、社会福祉制度の中で「落ち穂を残す」ということが具体的にはどうすることなのかは、簡単には言えませんが、ここで重要なことは法律とか義務というような形式的な配慮ではなく、「心の問題」としての社会福祉が問われているということです。このことは、時代がどのように変わっても変わらないものです。現代社会では一方で福祉社会ということが強調されつつ、一方では社会的格差ということが問題になっています。わたしたちはもう一度「落ち穂を残す心」を取り戻したいと願います。
3. 人を裁くということ
2つ目として取り上げたい問題は、本日のテキストの中で最も興味深い課題で、裁判のことが取り上げられています。15-16節。「あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である」。
「力ある者におもねってならない」という点はいわば当然のことですが、もう一つの「弱い者を偏ってかばう」ということには、あまりにも鈍感になりすぎてはいないでしょうか。むしろ、現代のようにマスコミが支配している社会においては「弱い者をかばう」ということが褒められ、そのためには、何が真実かということがなおざりにされることが多いように思われます。特に、裁判というような場では、力ある者も、弱い者も完全に対等であるということが重要で、どちらかに偏っては公正な判断は下せません。ところが、その裁判でさえ、世論というプレッシャーに影響されて、偏った判決がくだされる場合が少なくありません。
しかし、現実的にわたしたちが裁判所に引き出されて証言したり、裁判を受けるというようなことは滅多にありませんので、この言葉はあまり関係がないように思われますが、実は、噂話というようなレベルで実際に人を裁くということは十分に経験していることです。確かな証拠もないのに、無責任に噂を流すことによって、「力ある者におもねったり」、「弱い者を偏ってかばったり」していることは十分に経験するところです。その意味ではこの言葉は十分にわたしたちも関係があります。世間の噂による声高な正義感に反する行動をとることにはかなりの勇気が必要です。
4. 結び
そして、最後に結論として、あの有名な言葉が出てきます。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(18節)。これは主イエスが、論敵たちから律法の内で何が最も大切か、と質問されたとき、先ず第1は全身全霊をもって神を愛することと言われ、続いて、それを実生活の中で具体化するのには、自分自身を愛するように、隣人を愛することなのだ、と語れました。主イエスの言葉がもともとこういう場面で語られた言葉からの引用であったということだけでも、心に留めておきましょう。神を愛するということ、また人を愛するということは決して生やさしいことではありません。いわば、主イエスが十字架で命をかけて示した「神の厳しさ」、しかしその厳しさの中に閃光のように輝く神の愛、それを弟子たちは見ました。それが復活の経験です。それが「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉に込められています。

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1 コメント

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教会用語の基礎知識 (てれさ)
2007-05-09 06:58:10
久しぶりにめぐり合いました。ヘエー、そうなの?とか、知らなかったわ!!と新しい発見を致しました。ありがとうございます。
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