S11E06 Ps119:9(S) 顕現後第6主日説教 2011.2.13
み言葉を心に抱け 詩119:9-16
1. アルファベット詩編
詩編の中には「アルファベット詩編」と呼ばれるものがある。詩9-詩10、詩25、詩33、詩37,詩111、詩112、詩119、詩145。それらの中で詩119はもっとも完全な形で、ヘブライ語のアルファベット22字による22編の詩によって構成されている。しかも、それぞれの詩が8節からなり、各節の先頭の文字が統一され、美事な統制美を保っている。この詩はユダヤ詩119はこの民族学校での基本的な学習テキストであったものと思われる。
詩119においては、主なる神が人間に対して語る「み言葉」をいろいろに言い換えている。律法、定め、掟、戒め、正しい裁き、命令、約束(新共同訳では「仰せのとおり」)等である。学者によっては、その他にも類似する言葉として「道」(3,37、90節)を挙げている。これらの言葉が詩119全体の各節に配分されている。これらの訳語は祈祷書訳では必ずしも一致しない。つまり詩119は全体として「み言葉」についていろいろな面から語っている。その意味では詩1と詩19と詩119とは一線上に並ぶ「教えの詩」である。
1段(1-8節)では、それらの「み言葉」の置き換え語が一覧表のように並べられ、詩119全体の序文のような役割を担っている。第2段(9-15)はそれを受け、それらの言葉を繰り返しつつ、それらこそが人間が守るべき「神のみ言葉」であると言うことが強調されている。
2. 第2段(ベト)の主題
序詞的な第1段が終わると、いきなり「バメー イザケー(如何にして清めるのか)」(9節)という疑問文で第2段が始まる。「若者は、その道を」と言葉が続く。この学校で学ぶべきことはこのことだ、という宣言であるかのようである。
日本の夜明け、開拓の地、北海道の大地でクラーク先生は日本人の若者を前にして「少年よ、大志を抱け」と叫んだという。まさに、その情景を彷彿とさせる。このクラーク先生の言葉を聞いた青年たちが世界へ開かれた日本を築く礎となった。内村鑑三然り、新渡戸稲造然り、彼らはクラーク先生の言葉を受けて、大志を抱き、日本全国に出て行った。
「君たちの生き方を決める根本原理は何だ」。教師は言う。「それは神の言葉以外にない」。この言葉は聞く者たちの「頭」に向けた言葉ではない。「心、ハート」に向けた言葉である。従って聞く者も心で受け止めなければならない。現代の最大の問題は「心に向けた言葉」が語られなくなり、言葉を受け止める「心」が失われことにある。
3. 決意
10節から16節までは神に対する祈りの言葉である。おそらく祈っているのは若い人たちであろう。彼らは長老からの言葉を聞き、神の言葉によって生きることを決意する。その決意が神への祈りとなってほとばしり出ている。この部分の祈祷書訳は簡潔で、分かり易く、ほかの翻訳文と比較しても遜色はない。前節で述べたように、10節の「勧め」、11節の「仰せ」、12節の「おきて」、13節の「審き」、14節の「さとしの道」、15節の「定め」、「道」、16節の「おきて」、「言葉」はすべて「神のみ言葉」と同義語である。
11節の「抱く」という単語は興味深い。新共同訳では「納める」と訳している。関根先生は「貯える」と訳している。もともとの意味は「蓄える」とか「秘蔵する」という意味らしい。
イエスが12歳の時エルサレムの神殿で両親から離れて神殿内で学者たちと「話を聞いたり、質問している」姿を見て、母マリアはその情景が理解できずイエスに小言を言う。それに対してイエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と言う。このとき、母マリアは事情が理解できないまま「これらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2:51)。マリアがこの時心に納めていたことが、何時、どのような形で甦ってきたのか私たちは知らない。言葉を心に収めるということはこういうことである。祈祷書の訳「抱く」には、親鳥がひな鳥を「抱く」というイメージがある。あるいはそれ以上に、母親が胎児を抱くようなイメージがある。言葉は聞いた者の心に抱かれて、その心の中で成長する。
13節の「わたしは宣べ伝える」という言葉も引っかかる。新共同訳では「わたしの唇がひとつひとつ物語りますように」と訳されている。明らかにかなり異なる。口語訳では「わたしはくちびるをもって、あなたの口から出るもろもろのおきてを言いあらわします」となっていた。新改訳では「私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます」と訳している。何かゴタゴタしていて直訳くさい感じがするが、その通りで、原文を直訳すると新改訳のようになる。ここでの「言葉遊び」は神の口と、私たちの唇との対語である。音韻上の対ではなく意味上の対である。「神の口」から発せられた「審き(=み言葉)」を一つ一つすべて「私の唇」から発する、と言うのがここでの原意である。従って「わたしは宣べ伝える」という訳は間違いではないが、祈祷書の訳ではキリスト教世界において固定化している宣教という意味が前面に出すぎているように感じる。むしろここでは宣教というより宣教の原点になってい、私の全生活、私の生き方、私の全ての表現が神の意志に源を持っているという宣言、あるいは願いである。その意味で私がもっとも大切にしているもの、私の宝は神の「さとしの道=トーラー」であると詩人は言う。詩人にとって、律法は「守らねばならない義務」ではなく、そう生きたいと願う生き方にほかならない。
み言葉を心に抱け 詩119:9-16
1. アルファベット詩編
詩編の中には「アルファベット詩編」と呼ばれるものがある。詩9-詩10、詩25、詩33、詩37,詩111、詩112、詩119、詩145。それらの中で詩119はもっとも完全な形で、ヘブライ語のアルファベット22字による22編の詩によって構成されている。しかも、それぞれの詩が8節からなり、各節の先頭の文字が統一され、美事な統制美を保っている。この詩はユダヤ詩119はこの民族学校での基本的な学習テキストであったものと思われる。
詩119においては、主なる神が人間に対して語る「み言葉」をいろいろに言い換えている。律法、定め、掟、戒め、正しい裁き、命令、約束(新共同訳では「仰せのとおり」)等である。学者によっては、その他にも類似する言葉として「道」(3,37、90節)を挙げている。これらの言葉が詩119全体の各節に配分されている。これらの訳語は祈祷書訳では必ずしも一致しない。つまり詩119は全体として「み言葉」についていろいろな面から語っている。その意味では詩1と詩19と詩119とは一線上に並ぶ「教えの詩」である。
1段(1-8節)では、それらの「み言葉」の置き換え語が一覧表のように並べられ、詩119全体の序文のような役割を担っている。第2段(9-15)はそれを受け、それらの言葉を繰り返しつつ、それらこそが人間が守るべき「神のみ言葉」であると言うことが強調されている。
2. 第2段(ベト)の主題
序詞的な第1段が終わると、いきなり「バメー イザケー(如何にして清めるのか)」(9節)という疑問文で第2段が始まる。「若者は、その道を」と言葉が続く。この学校で学ぶべきことはこのことだ、という宣言であるかのようである。
日本の夜明け、開拓の地、北海道の大地でクラーク先生は日本人の若者を前にして「少年よ、大志を抱け」と叫んだという。まさに、その情景を彷彿とさせる。このクラーク先生の言葉を聞いた青年たちが世界へ開かれた日本を築く礎となった。内村鑑三然り、新渡戸稲造然り、彼らはクラーク先生の言葉を受けて、大志を抱き、日本全国に出て行った。
「君たちの生き方を決める根本原理は何だ」。教師は言う。「それは神の言葉以外にない」。この言葉は聞く者たちの「頭」に向けた言葉ではない。「心、ハート」に向けた言葉である。従って聞く者も心で受け止めなければならない。現代の最大の問題は「心に向けた言葉」が語られなくなり、言葉を受け止める「心」が失われことにある。
3. 決意
10節から16節までは神に対する祈りの言葉である。おそらく祈っているのは若い人たちであろう。彼らは長老からの言葉を聞き、神の言葉によって生きることを決意する。その決意が神への祈りとなってほとばしり出ている。この部分の祈祷書訳は簡潔で、分かり易く、ほかの翻訳文と比較しても遜色はない。前節で述べたように、10節の「勧め」、11節の「仰せ」、12節の「おきて」、13節の「審き」、14節の「さとしの道」、15節の「定め」、「道」、16節の「おきて」、「言葉」はすべて「神のみ言葉」と同義語である。
11節の「抱く」という単語は興味深い。新共同訳では「納める」と訳している。関根先生は「貯える」と訳している。もともとの意味は「蓄える」とか「秘蔵する」という意味らしい。
イエスが12歳の時エルサレムの神殿で両親から離れて神殿内で学者たちと「話を聞いたり、質問している」姿を見て、母マリアはその情景が理解できずイエスに小言を言う。それに対してイエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と言う。このとき、母マリアは事情が理解できないまま「これらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2:51)。マリアがこの時心に納めていたことが、何時、どのような形で甦ってきたのか私たちは知らない。言葉を心に収めるということはこういうことである。祈祷書の訳「抱く」には、親鳥がひな鳥を「抱く」というイメージがある。あるいはそれ以上に、母親が胎児を抱くようなイメージがある。言葉は聞いた者の心に抱かれて、その心の中で成長する。
13節の「わたしは宣べ伝える」という言葉も引っかかる。新共同訳では「わたしの唇がひとつひとつ物語りますように」と訳されている。明らかにかなり異なる。口語訳では「わたしはくちびるをもって、あなたの口から出るもろもろのおきてを言いあらわします」となっていた。新改訳では「私は、このくちびるで、あなたの御口の決めたことをことごとく語り告げます」と訳している。何かゴタゴタしていて直訳くさい感じがするが、その通りで、原文を直訳すると新改訳のようになる。ここでの「言葉遊び」は神の口と、私たちの唇との対語である。音韻上の対ではなく意味上の対である。「神の口」から発せられた「審き(=み言葉)」を一つ一つすべて「私の唇」から発する、と言うのがここでの原意である。従って「わたしは宣べ伝える」という訳は間違いではないが、祈祷書の訳ではキリスト教世界において固定化している宣教という意味が前面に出すぎているように感じる。むしろここでは宣教というより宣教の原点になってい、私の全生活、私の生き方、私の全ての表現が神の意志に源を持っているという宣言、あるいは願いである。その意味で私がもっとも大切にしているもの、私の宝は神の「さとしの道=トーラー」であると詩人は言う。詩人にとって、律法は「守らねばならない義務」ではなく、そう生きたいと願う生き方にほかならない。