落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 使命を持って生きる  ルカ17:5~10

2013-09-29 13:58:02 | 講釈
みなさま、
すっかり秋になりました。食欲の秋か、読書の秋か、人それぞれでしょう。もう私などは食欲も読書もダメで、「旅の秋」と言いたいところですが、それも足腰が弱り、もっぱら近場の花を見て回るぐらいしかできません。そろそろロングドライブもしんどくなってきましたの、電車やバスによる旅に慣れたいと思っています。

S13CT22(L) 2013.10.6
聖霊降臨後第20主日(特定22)
<講釈> 使命を持って生きる  ルカ17:5~10

1. 「使徒たち」
教会は成立当初から「使徒たち」と彼らを中心にする信徒たちとで構成されていた。この場合使徒とはイエスの直接の弟子たち(使徒言行録1:21-22)を意味する。弟子たちが最初の使徒たちである。信徒たちは使徒たちから生きていたイエスの思い出話を聞き、イエスの道を学ぶ。それが最初期の教会の姿であった。
5節冒頭の「使徒たち」とは、彼らのことである。「使徒(アポストロ)」という言葉は「派遣された者」を意味し聖霊降臨後の教会において使われ始めた。従って、この言葉を福音書で用いることは明らかに時代錯誤である。
しかしルカはあえて「使徒」という言葉を福音書で6回も用いている(6:13、9:10、17:5、22:14、22:24、24:10)。それらを読むとルカが弟子たちのことを「使徒」と呼ぶときにはそれなりに理由があるようである。つまり聖霊降臨後に成立する教会との深い関係がある場合に「使徒」と呼んでいる。
聖職の就任(ルカ6:13)、派遣(9:10)、聖餐式(22:14)、組織運営(22:24)等、教会での実際的な出来事がイエスご在世当時にも行われていたことの延長である考えていたようである。さらに言うならば、使徒たちの権威の源泉がそこにあったという主張でもあろう。
50年代に開催された「使徒会議」では「使徒たちと長老たち」が活躍している。この「長老たち(プレスブテロ)」がどういういきさつで生まれたのかは明白ではないが、おそらく使徒言行録6章に見られるような使徒たちの働きを助けるために、信徒たちの間から選出され、使徒たちから按手された7人と同じような立場の人々であったと思われる。またこの会議では「イエスの兄弟ヤコブ」と呼ばれた人物がかなり重要な役割を担っているがその位置づけは明白ではない。ちょうどそのころパウロも改心し、教会に加わっている。パウロが使徒であるのかないのか、かなり深刻な議論があったようであるが、ルカはパウロの使徒性には疑問を持っているようである。
それが50年代から60年代にかけての教会の状況であった。そして、60年代には使徒ペトロを始めパウロも殉教し、教会の指導層は生前のイエスのことを知らない世代へと移って行く。
パウロの書簡には監督(エピスコポ)と並んで執事(ディコノス)が登場している(フィリピ1:1)が、それが古カトリック教会の聖職制度の萌芽であろう。

2.使徒以外の聖職者
ちょうどその頃、ルカは福音書を書いている。ルカは第2世代の教会の指導者たち、おそらく「長老たち(プレスブテロ)」と呼ばれている人たちの悩みを聞いていたのであろう。それが「信仰を増してください」という祈りであったと思われる。彼らには第1世代の使徒たちが持っている特権的な経験、つまりイエスと寝食を共にしたという経験(使徒1:21-22)がない。つまり彼らには一般の信徒たちとの明白な区別がない。彼らのための特別な神学教育があったわけではない。そういう状況において彼らが教会の指導者としての任務を達成するための根拠は「信仰のみ」である。信仰のみが聖職者としての根拠である。それは小さな信仰では間に合わない。卓越した信仰、すべての信徒たちの信仰の模範となるような信仰が求められる。
ルカは彼らの問題をイエスの時代におけるイエスと弟子たちとの会話に転化して語り、イエスの言葉を聞こうとする。それが本日のテキストの概要である。従って、ここでの「わたしども」とは初期教会における第2世代の聖職たち、特にその中でも使徒に代わる高位聖職者たちを意味するのであろう。彼らが「わたしどもの信仰を増してください」と願う。

3. 「信仰が増す」という願い
この祈りに対するイエスの第1の答えが7節である。この言葉はイエス自身に遡源する言葉であろう。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。この言葉の平行記事ははマルコ福音書にもマタイ福音書にも見られる。マタイはマルコをそのまま書き写したのであろう。「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる」(マルコ11:23)。「桑の木」と「山」とでは随分異なるが、マルコの文脈では「実のならないいちじくの木」が問題になっている部分だし、 イエスが元々どちらを言ったのかは明白ではない。ついでに付け加えておくと「いちじく(シケー)」と「桑(シカミノス)」という言葉も似通っているので、伝承の途中でこんがらかってしまった可能性もある。ともかくここでのイエスの答えは単純で「からし種一粒ほどの信仰があれば」、山か桑の木か分からんが、ともかく、ここから抜け出して海に根をおろすという。ここで「からし種一粒」とは「きわめて小さい」ということを意味する言葉で、小さな信仰でも、大きなことが出来るということを語っている。使徒たちの巨大で強力な信仰を求めるという姿勢に対して全くそれとは逆の極小で吹けば飛ぶような信仰を語る。教会という組織の指導者として信徒たちから尊敬され、大きな期待を寄せられて、それに答えるために大きくて強い信仰を求める使徒たちに対して信仰は小さくてもいい。弱くてもいい。その信仰が生きている信仰ならば大きなことが出来る。いや、自分の力で何かをしようと思っても出来る筈はないが、信じる信仰があるならば神がなしてくださる。山が海に移るのも桑の木が海に移動すると言うのも、要するに不可能と思われていることが可能になるということを意味しているのであろう。
このイエスの答えを率直に読むならば、聖職者の信仰も一般信徒の信仰も同じなのだ。聖職者が聖職者である根拠を何か特別なことができる信仰に求めること自体が間違っている。これが第1の答えである。それでは聖職者が聖職者である根拠はどこに求めるべきなのか。それが第2の答えである。

4. 聖職者であることの根拠
イエスは続いて使徒たちに次の話をされた。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」(7-9)。  
ここに描かれている主人は腹が立つ程横暴である。下僕に対する同情とか気遣いが全く感じられない。一日中、外でかなりの重労働をして帰ってきた下僕にねぎらいの言葉一つもなく、すぐに夕食の準備をせよと命じ、給仕をさせ、その後で食事をせよと言う。おまけに感謝の言葉もない。語り手は「なかろうか」とか「だろうか」という反語を付けて、これが当たり前の主従関係だということを強調している。が、それは事実なのかどうか分からない。ちょっと大げさすぎるのかもしれない。
さて、ここで問題は聖職者にとって「主人」とは誰かということである。最も単純な答えは「神」であろう。神によって召され、神に仕え、神のために働いているのが聖職者である。しかしそれを言うならそれは聖職者だけに限らずすべての信徒も同様である。むしろここで問題になっているのは信徒と区別された聖職者のあり方の問題である。つまり聖職者の具体的な問題が主題である。その意味では聖職者に取っての「主人」とは教会を意味するし、さらに具体的には教会という組織、各個別的な聖職者の人事に関わる制度である。各聖職者はその制度の中で働く存在である。
聖職者とは教会に仕える下僕である。聖職者とは主人である教会の命令に絶対服従する者を意味する。それは軍人が上官の命令に絶対服従するのと似ている。つまりここでは上官とは軍という組織そのものを意味している。この服従の徹底度が聖職者と一般信徒との相違点である。もし聖職者に一般の信徒以上の「信仰」が要求されるとしたら、それは何か大きなことをする能力とか奇跡を起こす超能力ではなく、どこまで徹底的に下僕であるのかという度合いの問題である。もし聖職者に一般信徒にない「権威」があるとしたら、それはその人の下僕としての自覚の徹底度による。
ここがこの世における「権威者(=権力者)」との違いである。これは一般的な倫理としての謙遜とは異なる。ここで用いられている下僕という言葉は「奴隷」と訳すべき言葉で、奴隷がいくら謙遜であってもそれは謙遜とは呼ばない。

5.「しなければならないことをしただけです」
さてイエスはこの話を持ち出した上で、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(10)と語られた。つまりイエスはこれが聖職者の当然の姿勢であるという。実際、イエスがこういう話をされたかどうかは、他に資料がないのではっきりしたことは言えないが、なかなか興味深い。ルカがこれを書いている以上、これが当時の教会において聖職者たちに期待された姿勢なのであろう。
しかしこの言葉をじっくり読んでみると、これは聖職者と教会という枠組みには収まらない響きを感じる。つまり、この言葉は聖職者と教会との関係だけではなく、神の前に立つすべてのキリスト者と神との関係を語っている。
この文章においては「命じられたこと」と「しなければならないこと」とは同じ内容を示している。聖職者にとって「命じられたこと」とは教会によって命じられたことであり、それは聖職者として「しなければならないこと」である。その内容は明白で、教会の使命の達成である。それは同時に神の意志でもある。聖職者はそれを己自身の使命として選択し決断したのであり、神の意志と教会の命令と私の願いとが完全に一致している。 聖職者が教会という組織に絶対服従するというのは、その教会の背後に神がおられるからであり、それは「私の願い」でもある。この3点が1本の直線の上に乗っている。従ってこの3点にひずみが生じたとき、人事面で問題が発生する。
しかしその点で一般信徒の場合は、教会の命令という媒介項がなく、「(私が)しなければならないこと」と考えていることが神の意志に違いないという「信仰」に支えられている。
いずれにせよ、聖職者も信徒も、それぞれ「しなければならないこと」、言い換えると「神から命じられていること」を持って生きている。それが「私の使命」である。すべての人は神から何らかの使命を与えられて生きている。その内容は一人一人異なるであろう。しかし同時にその使命に忠実に生きている人もおれば、その使命に納得していない人もおれば、それをさぼっている人もいるであろう。その点については、聖職者も信徒も非信徒も同じである。ただ、その使命が神から与えられたものであると信じているか否かが異なるだけである。

6. 使命を持って生きる
さてここからは今日のテキストから離れるが、神は人間にそれぞれに見合う使命を与えるとともに、そのための能力をも与えてくださる。
神が人間を創造された時、人間をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた(創世記2:15)。これが人類に与えられた最初の使命である。というより、この「耕すこと」「守ること」の中に人間の営みとしてのすべての仕事、使命が込められている。非常に面白いことはここで神は何か特別な能力を与えたという記述がないのに何の躊躇もなく人間その使命を果たした。神は「野のあらゆる獣、空の鳥を土で形作り、人がそれを見てどうするか見ておられたと言う。するとアダムは何の躊躇もなくそれぞれを声を出した「呼んだ」という。目の前に出て来る物や事に名前をつけるということは大変の能力を要する。ところが人間は何の躊躇もなく、極自然にそのもの名前を呼び、それがそのものの名前となったと言う。これが人間が行った最初の仕事である。神は人間の中に物の名前をつけるという能力を与えておられたのである。これが一つの実例、というより人間の使命と能力の根源的な関係を示している。
だから、人間がその使命を果たした時に言うべき言葉は、ただ一つ「私はしなければならないことをしただけです」と言う。

最新の画像もっと見る