落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

諸聖徒日 <講釈> 幸いな人たち  マタイ 5:1~12

2013-10-27 14:45:14 | 講釈
みなさま、
一連の台風が過ぎると、急に寒くなってきました。冬支度も、「そろそろ」という訳にいかず、「大急ぎで」という感じです。私は10月の1日からジム通いをして筋トレに励んでいるせいか、腰痛は改善されませんが、体調は頗る良いようです。諸聖徒日の説教はマタイ福音書の方を取り上げました。12月1日から始まる新しい年度(教会暦)の福音書がマタイなので少々丁寧にテキストを読み込んでいます。

S13CX(L)  2013.11.3
諸聖徒日 <講釈> 幸いな人たち  マタイ 5:1~12

1. 「諸聖徒日」とは
諸聖徒日 (All Saints Day) は主要祝日(7つ)の一つで有名無名の全ての聖徒(聖人)たちを祝う日とされる。もともとは5月13日に守られていたが、11月1日にグレゴリウス3世教皇(731-741)が聖ペトロの礼拝堂に全聖徒のためのチャペルを奉献したことを記念して変更された。東方教会では聖霊降臨後第1主日を諸聖徒日として守もっている。新約聖書では「聖なる人」とはイエス・キリストを信じるすべての人を示しているので、諸聖徒日とは全ての信仰者のための人されている。
ややこしいのは11月2日の小祝日の諸魂日(All Souls' Day)との関係で、こちらの方は「全て信仰を持って世を去った人々の記念日)である。その意味では諸聖徒日は逝去者記念礼拝には相応しくないが、日本ではこの日に全ての逝去者を記念する日とされている。
ついでに諸聖徒日の前日10月31日はハロウィーン(Halloween)はもともと西ヨーロッパの異教の収穫祭であったが、翌日の諸聖徒日のための悪魔払いの日として定着したものである。
1517年の諸聖徒日に当時の教会が資金集めのために免罪符を売り出そうと企画しているとき、マルチン・ルターは免罪符の無効性を訴える95箇条の訴状をヴィッテンベルグ教会の門扉に張り出したのがその前日の10月31日であった。
この日の特祷はクランマー大主教がエフェソの信徒への手紙4:11~13に基づき、それをさらに展開して『第1祈祷書』のために作成したものである。『第5祈祷書』で2カ所の変更があったと言われている。日本聖公会の祈祷書では明治28年の祈祷書から採用されている。なお、この祈りは逝去者記念式文でも採用され、葬送式諸式の(3)にも見られる。この日に読まれる福音書は、毎年同じ箇所でマタイ福音書の5章1-12か、ルカ福音書の平行箇所である。

2. マタイ福音書における説教
マタイ福音書は5つの長い説教を骨格として全体が構成されている。
(1)マルコ1:21~22の短い説教を足場にして、最初の説教がいわゆる「山上の説教(イエスの教えの総括)」(5章~7章)。
(2)マルコ6:7~11の記事を膨らませて「弟子派遣のための説教」(10章)。
(3)マルコ4章の譬え話集を拡大充実させて「譬え話による説教」(13章)
(4)マルコ9:33以下の「幼子」=「小さい者」=「キリスト教徒」と意味を転化させて「教会論的説教」(18章)。
(5)マルコ13章のいわゆる終末論を拡大充実して終末論的説教(24章~25章)。
これら5つの説教の目印は、それぞれの末尾に同じ文章で結ばれている。「イエスがこれらの言葉を全て語り終えた時に~~~~であった」(7:28、11:1、13:53、19:1、26:1)。
こういう形でイエスの教えをまとめていることがマタイの特徴である。
 
2. 「幸いな人々」(山上の説教)について
聖書の中でも最も有名なテキストの一つが、今日読まれたいわゆる「幸いな人々」という詩である。この詩は「山上の説教」の冒頭に置かれ、序論の役割を果たしている。ここには8種類の「幸いな人々」が取り上げられているが、このテキストと平行しているルカ福音書の「幸いと不幸」(6:20~23)では、貧しい者、飢えている者、泣く者の三者があげられているが、おそらくこの方がイエスの発言に近い形を保存しているであろう。
マタイ福音書の「幸いな人々」は美しい形に整えられており、おそらくマタイ個人の編集作業によるというよりもマタイ学派(教団)としての共同作業によるもので、マタイ教団の信仰内容を一般信徒にも分かるように補足され、変更され、整えられ、練り上げられたものであろう。そして、これは想像にすぎないことであるが、教団内部の信徒たちによって、ときにふれ暗誦されたのであろう。これがマタイ教団の人々が考えたキリスト者の理想像であろう。教会にはこういう人々が集っているのだという。そのことは同時に教会内部の人たちに向かっては、こういう人々になりなさいという倫理でもある。

3. 諸聖徒日と「幸いな人々」
古い祈祷書においては「幸いな人々」は11月1日の諸聖徒日にしか読まれなかった。従って11月1日が主日にあたるのは6、7年に一度であり、日曜日にしか礼拝に参加しない信徒はこのテキストを礼拝で聞くのは非常にまれなことであった。さいわい新しい祈祷書になってからはA年の顕現後第4主日に読まれることになり、3年に一度はお目に掛かることになった。それに加え、諸聖徒日に読まれる福音書の2つの内の1つに選ばれているので、うまくするとこの日にも聞くことができる。
「幸いな人々」は文頭に「幸いなるかな」という言葉が並び、書いたものを見ても、声を出して読んでも、詩的なリズムを醸しだし、心に響いてくるものがある。ところが残念なことに、口語訳以降新共同訳でも無粋な散文になってしまっている。ギリシャ語本文でも、あるいは欧米の翻訳でも、この言葉は文頭にあり、動詞なしで「マカリオイ(幸い)!」という単語が単独で用いられている。たとえば3節を直訳すると「幸い! 霊において貧しい者、天の国はこの人たちのものである」となる。つまり最初の「マカリオイ」は相手の上に手をかざして「幸い」と言葉をかけることで、「貧しい者は幸いである」という意味でも、あるいは「貧しい者にこそ祝福があるように」というようにも、「貧しい者に幸いが与えられるように」という意味でもあり得る。いわば「一種の感嘆詞」のような役割を示している。
キリスト者と言えども、幸福であることを望んでいる。その意味でも、「幸いな人々」という詩はキリスト者にとって現実であり、希望であり、願いでもある。そこにこの詩の本来の目的があり、だからこそキリスト者にとって日ごとに唱えられ、あるいは歌われるべき詩である。従って諸聖徒日にしかこの詩が読まれないことは驚きである。逆に言うと、諸聖徒日にこの詩が読まれることによって、この詩は新しい意味を獲得する。どういう人々が諸聖徒なのか。

4. 8種の幸いな人(「八至福」)
(1) <心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。>
先ず言えることは、教会が成立した頃、教会に集う人々はみんな貧しかったということである。教会とは貧しい人々の集団に他ならなかった。最初期の教会の状況を語る使徒言行録の言葉によると「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」(使徒4:34)と記録されている。が、これは相対的な表現でそれに続く言葉は「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り」とあり、みんなが貧しかったことを述べている。だから最初期の資料ではルカ福音書のように「貧しい人は幸いである」で済んだのであろう。ところが、教会の宣教活動が広がるにつれパウロのように多少は豊かな人々も加わるようになって来る。しかし彼れらも貧しい人々と共に生きることによって「気持ちの上で貧しい人」となった。この場合の「貧しさ」とは経済的な貧しさというよりも「貧しい人々とともに生きるという貧しさ」で、マタイはそれを「霊において貧しい人々」と呼ぶ。
経済的な意味であれ、霊的な意味であれ、「貧しさ」はそのまま「幸せ」には結びつかない。貧しさの故に病気になること、貧しさの故に学校にも行けないこと、貧しさの故の不幸せなら幾らでも列挙できる。しかしイエスはこの言葉によって「貧しさの故に得られたものは何もないのか」と問うているような気がする。この問いは、もう一歩踏み込むと、豊かさの故に失っているものはないだろうか。貧しい人々はそれを経験していないから分からないが、豊かさの故に得たものもあれば、失ったものもある。同じように、貧しさの故に得たものもあれば、失ったものもある。もっとも、この場合は「失ったもの」というより得られなかったものという方が現実的であろう。このように「得たもの」と「失ったもの」とを比較して自分の人生を振り返るとき、まぁ、いろいろなケースがあるから一概に言えないが、「貧しい人々は幸いである」というイエスの言葉をそう簡単には否定はできない。
「天国はその人たちのものである」という言葉の意味は、将来、天国に行けるのだという意味ではなく、マタイ福音書において「天の国」という場合、それは教会を意味している。今、私たちが集まっている、ここが「天の国」である。実際にそのようには見えないかもしれないが、ここが「天の国」なのである。マタイ16:19でイエスはペトロに「天の国の鍵を与える、そして地上で結ばれた関係は天上でも結ばれる」と言われた。つまりペトロに与えられた「天国の鍵」とは地上にある教会のことで、ここで結ばれた関係は天上においても結ばれているということに他ならない。

(2) <悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。>
悲しむ人々は決して幸いではない。悲しみはどこまでいっても悲しみである。イエスは悲しんでいる人を見て「(あなたは)幸いである」と言われる。なぜ、悲しんでいる人が幸いなのか。私たちには分からないし、まして面と向かって「あなたは幸いである」などとは言えない。おそらくイエスが「幸いである」と言われるのであるから、悲しむ人々の人生のどこかに「幸い」が隠れているのであろう。
一つだけ思い当たることがある。悲しむ人が悲しみによって得られる経験、悲しい経験を通してしか得られない経験がある。それは悲しんでいる人の悲しみが分かるようになることであろう。ルカはこの句に該当するところで「泣いている人は幸いである」と記録している。おそらくそちらの方がイエスの言葉に近いのであろう。泣いている人は共に泣いてくれる人と出会って心が軽くなる。泣いている人の側に寄り添って共に泣けるということは幸せである。

(3) <柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。>
柔和な人々は、確かに幸いであると言える。この人たちはストレートに幸いだ。優しい表情、柔らかな言葉は周囲の人々を幸せな気持ちにさせる。 柔和な人々は誰からも歓迎される。しかし物腰や人当たりは優しいのだが、一歩その人の心に踏み込むと冷やっとする冷たさを感じることがある。柔和な人はひっくり返すと冷たい人になる。冷たい人は決して幸せではない。柔和な人が仕合せになる条件は暖かさ、つまり親切さである。だから柔和な人とは「心の温かい人」と言い換える方が良いかもしれない。心の温かい人々は幸いである。「その人たち地を受け継ぐ」。これは何も遺産が多いという意味ではなく、豊かな人間関係が与えられるという意味であろう。

(4) <義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。>
義に飢え渇く人々とは、正義感にあふれているタイプの人、社会の不正を見たら黙っておれないタイプの人々である。教会にはこのタイプの人々が結構いる。このタイプの人たちの問題点は思い込みが強く、いったんこれが不正だということになると猪突猛進的に突き進み修正が利かなくなる。まさに「飢え渇いた」状態になる。その結果、戦っている目的が分からなくなり、戦っていることに「満足」してしまうことである。社会の不正との戦いには、正義感とともに柔和な人が持っている「優しさ」が必要である。その意味からいうと、第3のタイプの信徒と第4のタイプの信徒との協力関係が築かれると鬼に金棒となる。

(5) <憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。>
この「憐れむ」という言葉はマタイ15:22に見られるように「主よ、わたしを憐れんでください」の場合のように宗教的な言葉として用いられている。祈祷書の「キリエ・エレイソン」である。つまり私たちが困っている人に対して「憐れむ」ことによって、神も私を「憐れんでくださる」という形が含蓄されている。これがキリスト者の慈善活動の根拠となっている。つまり憐れみ深い人々とは慈善活動家を意味している。本格的な社会活動にならないまでも、困っている人を見たら何かしてあげたいという心を持った人々を意味する。この人たちの問題はその善意の行動が押し付けがましいことになる場合もあり、押し付けられた人からは逆に嫌われることもある。

(6) <心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。>
心の清い人々とは純真な人、幼子のような心を持った人を意味している。これはもうそのまま宗教的人間像である。このタイプの人々の問題点は、内向的になりやすく、社会性に欠ける嫌いがある。しかし、ここではそういう人々は否定されていない。この人たちの究極の願いは「神を見る」ということであるが、この場合の「見る」は視覚的に「見る」というよりも深い宗教経験を意味している。

(7) <平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。>タイプ9
平和を実現する人々の関心は4番目の「義に飢え渇く人々」と同じように社会に向けられているが内容が異なる。この人たちの関心は社会における対立や分裂、国家間における紛争の解決、異なった文化や価値観を持った人たちの間の対話の実現に向けられている。平和を実現する人々は「和」を強調するあまりに、馴れやいになり、物事がいい加減になりやすい。

(8) <義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。>
これは今更取り上げるまでもなく、初期の教会においては、教会に集うというだけで激しい迫害を受けた。そのような時代において、この最後の項目を書き加えたのはマタイであろうと言われている。従って「義のために迫害されている人々」とは、誰かを想定しているのではなく教会に属する人々全部が「義のために迫害されている」という意味であろう。迫害されるよりは迫害されない方が幸いに決まっているが、自分の信念を曲げて他人の言うままに迫害されない生活を続けるのも不幸なものである。教会に集う人々とは迫害されようと、されまいとに関わらず、決断と信念を持って生きる人たちである。

さて、こうして読んでいくと、最初の「心の貧しい人々」と最後の「義のために迫害される人々」とは教会内の誰かというより、教会の人々全員が含まれていることが分かる。そこには聖職も信徒も区別はない。「天の国はその人たちのものである」という言葉は、教会の人々全員を包み込む言葉となっている。

3. 諸聖徒日と詩「幸いな人々」
諸聖徒日にこの詩を読む時、私たちの頭によぎることは、既に世を去った人々のことである。そしてそれらの人々をここに述べられているいろいろなタイプの人と結びつけ、あの人たちは幸いだったと思う。
あの人は私とともに泣いてくれた。あの婦人は教会に行くといつも、にこやかにわたしを迎えてくる「柔和な人」だった。などなど、その思い出が鮮明に甦って来る。ここで述べられている一つ一つの言葉がただ言葉だけでなく、一人一人の人間の生きた姿となって、わたしたちの目の前に描かれる。その言葉はもはや難しい倫理綱要ではなく、わたしたちに対する慰めと励ましに満ちた祝福の言葉である。これが諸聖徒日にこのテキストを読む意味である。

最新の画像もっと見る