落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第17主日(特定20)説教 地主と管理人の話  ルカ16:1-13

2013-09-16 11:33:43 | 説教
みなさま、
台風18号はとうとう日本列島を直撃し、現在のところ、関西方面に数十年ぶりの豪雨をもたらし、京都・福井方面に多大の被害を与えているようです。福井、敦賀の原発は大丈夫か。台風はそのまま北上に、関東から東北方面に向かう模様。福島が心配です。原発も心配ですが仮設住宅に住んでおられる方々の身の安全が気遣われます。どうぞ、お大事になさってください。北九州は雨は降っていませんが風はかなり強く吹いています。

S13CT20(S) 2013.9.22
聖霊降臨後第17主日(特定20)説教 地主と管理人の話  ルカ16:1-13

1.「最も難解なたとえの一つ」とされる
本当に難解かどうか、先入観なしに読んでみる。まず、新共同訳の「不正な管理人」のたとえというタイトルは、聖書には本来ないものであるから、無視する。そもそも「不正な管理人」というタイトルが先入観を与えるし、たとえという言葉も、これは譬えなんだという視点に立ってしまう。

これはイエスが弟子たちに語られた話である。このことについては最後に取り上げる。
登場人物は「ある金持ち」(以下「地主」と呼ぶ)と彼が雇っている一人の管理人である。この管理人とは「不在地主」に代わっての財産を管理する者を意味する。ここである人が地主に「あの管理人は財産を無駄使いしている」と告げ口したと言う。この「無駄使い」という言葉は端的に「ばらまく」という意味で、必ずしも私物化して贅沢をしているという意味ではない。この「ばらまく」という行為も、それが事実がどうかということよりも、その事実をどういう視点から見るのかということで評価が変わってくる。国の予算配分にしても、あるいは補助金の分配にしても、一種の「ばらまき」であり、そのさじ加減によって国の将来の方向付けがなされるし、社会的弱者への富の再分配という意味でもある。その意味で、かなりの部分が管理人にまかされていたのであろう。言うならば、地主は特別に強欲でない限り、一定の収入さえあれば、それで満足し、後は管理人に任されていた。従って、地主に告げ口をした人間が誰か特定されていないが、管理人をやっかみ、不当な告げ口をした可能性が高い。地主も、そういう告げ口がなければ何も不満はなかった筈である。しかし告げ口があった以上、一応管理人を呼んで、「会計報告書」の提出を求めた。この場合の会計報告書とは特殊なもので、通常の会計報告書ではなく、後任者への引き継ぎのための書類である。だから、それを告げられた管理人は驚く。自分は地主から信頼されていないのだろうか。もしそうだとすれば解雇されることは確実である。ここまでが1節から3節まで。

そこで管理人は「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」(3-4節)と考えたと言う。この文章をそのまま読むとこの管理人がいかにも情けない人間に見える。「自分を家に迎えてくれるような者たち」という言葉をこれに続く話の筋から油や小麦農家を想像し、彼らに恩恵を施しておけば、そこに再就職出来ると考えたと解釈してしまうが、それは明らかに誤解である。管理人自身は「土を掘る力もない」、つまり肉体労働は出来ないと自覚しているのであって、そういうところに再就職するつもりはない。彼は管理人という仕事意外のことを考えていないと見るべきであろう。
そうすると彼がなすべきことは地主の信頼を回復すること。あるいは他の地主に管理人として採用されることであろう。そのためには彼がいかに優れた管理人であるかをアピールする必要がある。そのために彼は今まで以上にいい管理人としての仕事ぶりを示し、評判を良くしておく必要がある。 今、地主の目は厳しく彼を観察している。一寸でも変なことをすれば即解雇であろう。従って、その後の彼の行為は不正どころか、良い管理人としてなすべきこと、やり残していたことを仕上げることである。とりあえず彼がすべきことは地主の心証を良くしておかねばならない。 ところがそこで彼は意外なことをする。

小作人を呼んで地主に対する小作人の負債を減らしたのである(5節から7節)。地主の立場からすると大損失である。ここがこの話の難しいところで、多くの誤解の原因となっている。
問題はこの負債である。油百パトスとはどの程度の負債であるのか。新共同訳の付録によると1バトスは約23Lなので100バトスというと2300L、これは莫大な金額である。これはもう日常の家計のために一寸借りたというような量ではない。不作の年などで一定の小作料が支払えないような場合、それが債務として残り、それに利息が加わり、積もり積もって膨大な額になってしまったというのであろう。「小麦百コロス」も同様であろう。小作人の負債がそれほど膨大になってしまった原因は、この管理人はそういう負債を無理に取り立てなかった殊によるのであろう。そもそも、そういう債務とは法的にいえば地主のものではあるが、具体的には管理人と小作人との間の人間関係から生じたものである。あこぎな地主であるならば、それも厳しく取り立てたであろうが、普通の地主ならば大目に見ているものである。そこが非常に微妙なところで、管理人の「やり方」の問題である。もし管理人が自分本位で地主にいい格好をしようと思うならば、負債を厳しく取り立てたことだろう。ところが、この管理人は逆のことをしたのである。

管理人の行動を注意深く見ていた地主は、「この管理人のやり方をほめた」(8節)という。地主自身が褒めているのであるから、この管理人が「不正」である筈がない。あるいはそのやり方が「抜け目のない」と言われる筋でもない。ここで「不正な」という言葉を挿入したのは、この話の筋が理解できなかった後代の挿入だろうし、「抜け目のない」という訳語は新共同訳の翻訳者の偏見である。口語訳では「利口なやり方」である。
おそらく、地主は管理人が辞職前にして負債者の負債を減額するのを見て、あの悪意に満ちた告げ口の「ばらまく」という実態を知ったのであろう。この管理人が小作人たちの生活の実態や負債の原因等を考慮し、また地主の名誉にも十分な配慮をしているのをみて、この管理人なら安心して任せられると思ったに違いない。管理人も立派であるがそれを認めた地主もまた立派である。物語はここまでである。

さてこれは「譬え話」であろうか。実はイエスの時代においてはこういう農園経営が一般的で、その場合に「悪い管理人」もおれば、「良い管理人」もいる。悪い地主もおれば、良い地主もいる。イエスはここで、思い切って賢い管理人の話をすることによって、暗に悪い管理人を批判しているのである。この話を聞いて、がめつい地主や悪徳管理人に痛めつけられていた多くの人々は拍手喝采をして喜んだことであろう。この話はそういう話であり、イエスという人物はそういう話をする人であった。

2.誰のための話か
この話はイエスが弟子たちに向かって語った物語として伝承されて来たものと思われる。ここでイエスは弟子たちに何を語ろうとしているのだろうか。答えははっきりしている。要するに弟子たちに、あなた方もこのような管理人になれと言っておられる。イエスの弟子がこの管理人のようになるということは、いったいどういう意味なのだろうか。もう少しこの管理人がほめられた意味を整理しておこう。
先ず第1に主人から、あなたのことについて悪意に満ちた告訴があったことを告げられたとき、そのことについて彼はいっさい弁解をしていない。 それだけ彼は自分の態度に自信があったし、主人に対する信頼もあったのであろう。あるいは、疑われつつその立場に固執しようとは思わない。むしろ、彼を信頼できないような主人の許では働きたくないという思いがあったのかもしれない。

第2に、そのことによってそれまでの生活態度を変えていない。彼が地主の財産を「ばらまく」ということの実態は、彼の権限範囲内のことで小作人たちに対して、それぞれの事情を考慮して寛容に対応したのであろう。そのために、他の地主たちや管理人たちから嫉妬されていたのかもしれない。だからこそ、彼は解雇される危機になったとき、今まで以上に徹底して小作人たちの立場を守ったのであろう。その背景には彼は管理人という仕事に誇りを持っていた。

第3に、彼の仕事ぶりを見ていると、負債の免除の仕方が一律でなく債務者の状況を考えて細かい配慮がなされている。地主はこの繊細さを見ていたに違いない。

第4に、彼は管理人として、地主と小作人の間に立って両者の利益を守っている。

イエスが弟子たちに期待した理想の弟子像がここに示されている。
(1)自分自身に対する自信。
(2)自分の仕事に対する誇り、
(3)他者に対する細かい配慮、
(4)調停者としての自覚。
これはそのまま現代の牧師にも当てはまる。

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