落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

昇天後主日 <講釈>「エルサレムに座して待つ」 使徒言行録1:12-26

2013-05-05 18:15:21 | 講釈
みなさま、
先ほど八幡聖オーガスチン教会での礼拝奉仕を終えて帰宅しました。本日は復活節第6主日で昇天日前の主日で、イエスの昇天物語を取り上げ共にそこで語られているメッセージに耳を傾けました。次の主日は復活節第7主日でいわゆる「昇天後の主日」で、昇天日と聖霊降臨日に挟まれた主日です。この10日間弟子たちは何をしたのか、ということが次の主日のテーマです。この2つの説教はセットになっております。

2013R07(L) 2013.5.12
昇天後主日 <講釈>「エルサレムに座して待つ」 使徒言行録1:12-26

1.ルカ福音書と使徒言行録 (1~2は前週の<講釈>の再録)
ルカ福音書の24:44-53と使徒言行録1:3-9とはほとんど重なっている。多くの学者たちは、ルカ福音書と使徒言行録とはもともと1つの作品であったのを、他の福音書と合わせるために、ルカ24:49で2つに分けられたのではないか。そのため、ルカには50ー53を付加し、使徒言行録の方には巻頭の言葉と3節~5節を書き加えたのであろうと言われている。もちろん、古い文書のことであり、すべてが推測の域を出ないが、その可能性はかなり高い。
使徒言行録の1:5-8の文章はルカ福音書の最後の言葉、つまり24:47-49が2つに分けられ、その間に終末についての質疑(6ー7)が挿入されているが、重複していることは明白である。整理すると、以下のようになる。訳語の関係で口語訳で対比する。
ルカ福音書24:47-49(口語訳)
その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。
使徒言行録1:5,8(口語訳)
あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう。聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。

2.福音書から使徒言行録へ
文献学的に見ると確かにルカ福音書と使徒言行録とは一つの文書であった可能性は大きい。
しかし、そこで描かれている世界は連続しているようで切断され、二つのようで一つである。前者はイエスを中心としたイエスと弟子たちとの交わりの世界であり、後者は使徒たちの活動を中心とした最初期の教会の世界である。それらは区別されるが分離することができない二つの世界である。
それら二つの世界を結び付けているのが49節の言葉である。この言葉はイエスの地上での生活の出口であると同時に新しい世界の入口でもある。この出口からイエスは地上を離れ、この入口から聖霊が弟子たちに臨んだ。イエスの地上での活動の最後が昇天という出来事であり、使徒たちの活動の最初が聖霊降臨という出来事である。
そうだとすると、勿論そうではなかったとしても、49節の言葉は非常に重要な位置にある。ルカ福音書から見ると、昇天する直前のイエスの言葉であり、いわばイエスの遺訓でありる。そこにイエスが昇天した後、弟子たちが「とりあえず」何をすべきかということが指示されている。使徒言行録では弟子たちがイエスの指示に従ったことから始まる。この遺訓の中に教会成立の謎が隠されている、とルカは考えているようである。
さて今年は昇天日を挟んだ2つの主日において、この間のことを2回に分けて取り上げる。先週はイエスの昇天を中心に、今週は弟子たちが昇天後に何をしたのかということを中心に取り上げることとする。

3.聖霊降臨
既に論じたように、ルカ福音書の最後の部分と使徒言行録のはじめの部分とはほぼ重なっている。しかし厳密に見るといくつか異なっている点も見られる。その最も注目すべき違いは、ルカ福音書では「高い所からの力」と述べられている部分が「聖霊による洗礼」または「聖霊が降ると力を受ける」というように読み替えられている点であろう。
ルカ福音書において「聖霊」という言葉が用いられているのは(新共同訳による)13回でその内9回は第4章までで、残りの4回は10章から12章までで、それらの文脈を見るといずれもイエスの行動あるいはイエスの言葉である。詳細な検討は他日に譲るとして少なくともルカは「聖霊」という言葉をかなり慎重に用いていることがわかる。
それが使徒言行録においては、いろいろな場面でかなり多彩に用いている。先ず冒頭で生前のイエスが語り行った行為を「使徒たちに聖霊を通して指図を与え」という言葉でまとめている。つまり使徒言行録は冒頭からイエスと聖霊との関係が強調されている。使徒言行録がまだ「使徒行伝」と呼ばれていた頃、しばしば「聖霊行伝」と呼ばれていた所以である。また同時に福音書においての「イエスの弟子」は「使徒」と呼ばれることとなる。聖霊の働きが使徒たちの活動である。

4.初期教会における聖霊理解
ここで少々回り道をして、初期の教会において聖霊についてどういう理解がなされていたのか、考えておく。聖霊に関して、とくに聖霊の働きについては多様すぎて一筋縄ではまとまらない。それで3つの福音書に共通している1つの言葉を取り上げて聖霊論への糸口を探ることとする。

○マタイ12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。
○マルコ3:28-29 人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。
○ルカ12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。

これら3箇所からの引用句はほぼ同主旨であり言葉遣いも似通っているので、もともとは同じ資料から取られたものであることは明白である。
最初に書かれたマルコ福音書では、イエスの悪霊追放はイエスが悪霊の頭だから出来ることだという律法学者の見解に対して、イエスは「サタンがサタンを追い出すということはおかしいではないか」。それこそイエスが悪霊の頭ではないという証拠ではないか、と反論する。反論ついでにイエスは「悪霊追放」であれ、病気の癒しであれ、何かというと「罪」を持ち出して人を批判する律法学者たちに対して、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜であっても(そうだ、あなたたち律法学者たちも含んで)、すべて赦される」と宣言する。これは当時の人たちにとっては、いや現代においても驚くべき宣言である。この宣言があまりにも激しすぎるので、後の教会の人々は「しかし」以下の言葉「 聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」を補ったのであろう。つまりこの句の前半と後半では明らかに状況の差がある。「聖霊」という言葉は教会という時代を示す表徴である。マルコ福音書において(必ずしも「マルコが」という意味ではない。)前半の「 人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」という言葉と後半の「 聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」という言葉とが結合され、それが一種の教会用語となったものと推測される。
次にマタイ福音書もマルコ福音書とほぼ同じ文脈であるが、マタイはイエスによる悪霊追放の背景には神の霊と悪霊との戦いがあり、イエスは神の霊によって悪霊を追い出しているのだと言う。従って「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(30節)と結論づけている。その上で、マルコの言葉を引用する。「言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、『霊』に対する冒涜は赦されない」(31節)。こう言ってもまだ言い足りないと思ったのかマタイはさらにほぼ同じ文章を繰り返す。「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」(32節)。
マタイ福音書の注目すべき点は31節の言葉と32節の言葉とがほとんど重複していることである。おそらく32節の言葉は当時教会において単独で流布していたイエスの言葉をダメ押しの言葉として繰り返したのであろう。
面白いことに、ルカ福音書におけるベルゼブル論争の結論としてはマタイの30節がほとんど一言一句同じ文章としておかれている。(どちらが先か不明)
ルカはこの言葉(12:10)を、イエスの仲間であるか、否かということが論じられている文脈に置いている。「 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」。「人の子の悪口を言う者」という句を直訳すると「人の子に向かって言葉を言う者」(田川建三訳)で「悪口」という言葉はない。ここで問題になっている点はイエスの仲間であるというのか、イエスを知らないというのかということなので、「向かって」という言葉がイエスを知らないという立場に立っていることを示している。ルカの歴史感覚からいうと生前のイエスについては「知らない」ということは罪にはならない。直接の弟子たちでさえイエスの本当の姿を「知った」のは十字架と復活を経て聖霊によって知らされたことであり、知らないことを知らないというのは「皆赦される」ことであるが、聖霊経験を経て後も知らないということは聖霊を冒涜することになる。 
さて、「聖霊に対する冒涜は永遠に赦されない」とはかなり厳しい言葉である。ここに聖霊とは何かという聖霊論の核心部分が秘められている。神学において、神についての議論、イエスについての議論はほとんどこれ以上論じるべき点がないほど論じ尽くされてきた感があるが聖霊論については多くの議論を残したままである。議論を広げ出すとほとんど無限に広がり、深めようとすると底のない池を手探りで搔き回すようなもので泥沼にめり込んでしまう。結論として聖霊についてはただ問題点をいろいろと羅列するだけで「論」にならないように思われる。従って聖霊については体験的にしか語れない。

5.体験的聖霊原論
<「原論」という言葉を使ってみました。英語でいうと「principle」で、意味は「初めの一歩」「根本原理」「基準」。体系づけられた「論」の元になるもの。聖霊について論じる場合にこれだけははずしてはならないものという意味で「聖霊原論」と名付けてみました。>
そういう言い方が許されるかどうか分からないが一応、神も、イエスもいわば対象化可能な神、人間にとって「外なる神」であるが、聖霊とは「内なる神」、対象化不能の神である、と思う。
(1)聖霊とは、私の内にあって、私でないもの。それをパウロは「私の内に宿る霊」という。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)。私の内には神から頂いた聖霊が宿り、私自身は聖霊の宿る神殿である。これがすべてのキリスト者の体験的事実であり、聖霊に関する最も基本的なありようである。
(2)この聖霊は私の内に「言葉」として存在している。その言葉は「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書き付けられ」(2コリント3:3)ている。さらにパウロは「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ3:16)と勧めている。
(3)この言葉が必要なときに、語るべき言葉として外に出てくる(マタイ10:19、マルコ13:11、ルカ11:13)。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」(マルコ13:11)。
さて以上の3点が聖霊についての私自身の体験談である。聖霊の語りを私たちは私自身の内なる言葉として聞く。従って聖霊の言葉に逆らうこと、あるいは無視すること、あるいは冒涜することとは、私自身の内なる言葉に逆らうことであり、あるいは聖霊を冒涜することは私自身を冒涜することになる。
ここで問題になる点は、内なる言葉としての聖霊とは良心と同じこと、良心そのものではなかろうかという疑問が生じる。確かに聖霊の言葉と良心の言葉とはほとんど重なっており、差異はない。パウロもロマ人への手紙において「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」(ロマ2:14-15)という。ここでは「良心」を律法を対比して論じている。私たちの議論に置き換えると「聖霊の言葉」がなくても人間に自然に、生得的に与えられている良心が同じ役割を担っているという。問題は「聖霊を受ける」ということ、聖霊経験以前の私と聖霊経験後の私との違いである。確かに聖霊降臨(ペンテコステ)以前の弟子たちと聖霊経験後の使徒たちの違いは明白である(使徒2:38、4:8、13、19、31)。
この点についてパウロは次のように論じる。聖霊は「私たちの霊と一緒になって」私たちに語りかける(ロマ8:16、9:1)。ここでは「私たちの霊」と「良心」という言葉がほとんど同意語として用いられている。人間が人間であるのは神の息が人間に吹き込まれたときである(創世記2:7)。この神話は神話を超えて人間の深い真実を語り続けている。この「神の息」こそ良心に他ならない。人間は生まれながらに良心を持っている。ただこの良心の声は弱く、か細い。人間を取り巻く欲望の雑音の中でかき消されてしまう。人間の歴史は、そして私の個人史も、良心と欲望との葛藤の連続であった。パウロ自身もその葛藤を次のように述べている。「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ7:21-14)。パウロにおいても、また私においても、また人類史においても、聖霊が私たちの内に宿ることによって私の良心をきよめ、強化する(1テモテ1:19、2テモテ1:3、ヘブライ9:14)。
もう一点、内なる言葉としての聖霊について、パウロは「キリストの言葉」(コロサイ3:16)といい、マタイは「父の霊」(マタイ10:19)といい、マルコは「聖霊の言葉」という。これこそ彼らが内なる言葉をそのように体験したということなのであろう。
私自身は聖霊による「内なる言葉」とは聖書の言葉だと思っている。もちろん、聖書の言葉に限定する必要はないが、一種の言葉の貯金として聖書の言葉がある。不思議なことに、必要なときに最も相応しい言葉として聖書の言葉が甦ってくる。空っぽの墓の中で、婦人たちはイエスの言葉を思い出した(ルカ24:8)その意味では聖霊体験とは「御言葉体験」であるとも言える。

6.「都にとどまれ」
さて、話を元の軌道に戻る。ルカはイエスの時代と聖霊(使徒)の時代とを区分している。ルカ自身は使徒の時代に属しているので、当然使徒時代については「同時代史」として生き生きと語ることができる。しかしイエスの時代はいわば過去の物語であり「歴史」である。しかも、その歴史は使徒時代を生み出した「聖なる歴史」である。現在から見るとその歴史は「雲に覆われて彼らの目から見えなくなって」(使徒1:9)はいるが確かにそこで神の子が働き、語り生きていた。過去と現在、その間に何があったのか。ルカはここで一つのことを語る。「都にとどまれ」(ルカ24:49)。これが昇天日から聖霊降臨日までの十日間の課題であった。
この「とどまれ(カシゾー)」と訳されている動詞の本来の意味は「座れ」で、他の場所では「腰を据える、座る、席に着く」などと訳されている。キリストが神の右に座るという場合にもこの単語が用いられている(マタイ22:44、26:64、ルカ22:30、コロ3:1等)。一寸余談になるが、主教座という言葉を「カテドラル」というが、これもこのカシゾーの派生語である。つまり昇天直前のイエスの命令はまず「座ること」であった。浮き足立つ弟子たちにイエスは「先ず、そこに座れ」と言われた。
人間は不安に襲われたり、危機的状況に直面すると、何とか事態を改善するために動き回り、走り回る。自分が動き回って解決できるようなことならば、それ程恐れる必要はない。自分たちでどうにもならないときに、先ずすべきことは「座る」ことである。柔道にせよ、剣道にせよ、対戦する前にまずしなければならないことは、正座して相手と向かい合い、お互いの呼吸を合わせることである。イエスも公の活動をする前に荒れ野に行って修行をしている。マルコ福音書は「イエスは40日間そこにとどまり」(マルコ1:13)と記しているが、この「とどまり」とは何かをするということでなく、ただそこに居るということである。動き回っているのはサタンであり、野獣であり、天使たちである。
何かことを始める前に「座る」ということは姿勢を整えるという意味が込められている。心の準備も身体の準備もまだ整わないうちに飛び出しても何も生まれてこない。先ず姿勢を整え、これから起こって来るであろうどのような事態に対しても対応できるような「構え」をすること、これが「座る」ということである。これから何が起こるのか分からない。敵は前から来るのか、後ろから来るのか、何人責めてくるのか、武器は何か。あるいは相手は敵か、味方か、あるいは自分自身の弱点は何かそれを補強し、どういう事態になっても対応できる構えを整えること、これが「座る」ということである。この「座る」には姿勢を正すという意味が濃厚である。待っている自分の姿を顧みて問題点を座り直す。
初期の教会において問題点はこの集団の中心になるべき12使徒が1人欠けていることで、それを補う必要があった。先ず注目すべきことは、彼らが使徒の数を12人にしなければならないと考えたことである。この考えには無意識のうちにこの集団が永続するものと考えているということである。もう彼らは「明日の教会」はないとは思っていない。もう一つ、誰が使徒に相応しいかということを協議する中で「誰が主の復活の証人になるべきか」と問うことによって、 自分たちの集団とは何なのか、この世に対してどういう使命を持った集団なのかということを自覚したということである。
ここで彼らが取った選出の仕方が興味深い。先ず自分たちの間で協議して、適当と思う2人を選出する。そしてその2人の内どちらが相応しいかをクジによって選ぶ。彼らは人間の判断の限界を知っていた。最終的には神の判断にゆだねる。それがクジである。ここまでが「座る」という言葉に含まれている内容である。

7.「エルサレムを離れず」
「都にどどまれ(座れ)」という言葉が使徒言行録では「エルサレムを離れず、父から約束されたものを待ちなさい」と言い直される。こちらの方では「待つ」ということに重点がおかれている。何かを待つという姿勢は、向こうからやってくるものに対して「待ち構える」ということで、何もしないようで実は非常に大きなエネルギーを必要とする積極的な行動である。外見的には「座る」と「待つ」とは同じように見えても、内面的にはかなり異なる。一瞬の油断もなく、意識を集中して、相手が打ち込んできたら瞬間的に反応する。それが待ち構える姿勢である。ここでは「父から約束された聖霊」が降臨するのを待ち構える。
私はこの「待ち構える姿勢」こそ、祈りだと思う。「(彼らは)心を合わせて熱心に祈っていた」(14節)。祈りとは私の願いを無理に聞いてもらうということではなく、私が神の御心を聞き、神の働きを待つことである。あくまでもイニシャティブ(主導権)は神の側にある。
ルカによると、この祈りは10日間続いたことになる。彼らはエルサレムの隠れ家で腰を据えて、熱心に祈った。この祈りはイエスと共に過ごした日々を思い起こし、イエスの言葉を分かち合い、イエスを信じることができなかったことを懺悔し、お互いに赦し合う。その全てが祈りであった。
そして10日目の朝、イエスが復活された日から数えて50日目の朝、突然、ブレークした。それが聖霊降臨の出来事である。この日、教会という共同体が生まれた。

最新の画像もっと見る