落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 教会の成長 マタイ 13:31-33,44-49

2008-07-21 08:48:16 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第11主日(特定12) 2008.7.27
<講釈> 教会の成長 マタイ 13:31-33,44-49

1. 色々な譬
3週続いた譬話集も第3回目である。本日のテキストの省略されている部分(34-43)は、先週の譬の解釈の部分で、先週読まれた。今週の部分は2つの部分に分かれている。初めの部分には、からし種の譬えとパン種の譬えとがあり、後の部分では「宝の隠されている畑」と「高価な真珠」と「魚取りの網」の譬えの3つがある。これらの5つの譬はいずれもそれぞれ独自の視点から「天の国」について語っている。恐らくイエスが色々な情況の中で語られた色々な譬えをここにまとめたものと思われる。
2. 資料分析
前半の2つの譬え話は、いずれも「天の国は○○○に似ている」で始まり、後半の3つの譬えは「天の国は次のように譬えられる」という言葉で始まっている。マルコ福音書の比較すると、「からし種の譬え」だけが、共通するもので、マルコ福音書にある「ともし火の譬え」と「秤の譬え」は採用されていない。「からし種の譬え」はルカ福音書にも見られQ資料からの採用であろう(Qs46)。この「似ている」という表現はQ資料に由来するのであろうが、「譬えられる」の方はマタイ独自の表現である。意味にそれ程に違いはない。後半の3つの譬えはマタイ独自の資料によるものと思われる。
ここで語られている「天の国」とはこの世に存在する「イエスの共同体=教会」を意味する。前半の2つの譬えは、同じメッセージを伝えている。要するに、教会は現在は目に見えないぐらいに小さく、みすぼらしいが、やがて世界中の人々が目を見張るように成長するだろう、ということが主題である。それに対して、後半の3つの譬えのうち、最後の「漁の譬え」は先週の「良い麦と毒麦の譬え」と同じ主題であるが、重点が世の終わりの審判の方に置かれており、「宝の隠されている畑」と「高価な真珠」とは、教会の「値打ち」、価値の譬えである。その意味では、埋蔵金の発掘やレアメタルの取引を思わされるような話である。
3. 譬え話というもの
譬え話というものは、ワンポイントの説明である。いくつかの要素を組み合わせて物語化するとアレゴリー(寓話)になってしまう。しかし、その境界線は曖昧である。従って、アレゴリーと譬えとを明確に区別することにどれ程意味があるのだろうか。ただ、注意すべきことはアレゴリカル解釈を極端にすすめ、その物語が指し示すものを越えてしまうことは非常に危険であり、避けるべきことであろう。
本日、取り上げられた5つの譬えはすべて、基本的にはワンポイントの類似点が取り上げられている。そのワンポイントを際限なく広げてしまうことは避けるべきであろう。例えば、漁の網について、それはあくまでも教会の宣教によって集められた集団の状況を示しているにすぎないのであって、そこから、漁師の質の問題や編み目の大きさや魚の種類を論じることは無意味であり、危険でさえある。あるいは「からし種の譬え」にしても、「からし種」は小さく、目立たないというワンポイントの譬えなのであって、そこからからし種の特徴をあれこれ詮索して議論することも無駄なことである。あるいは「高価な真珠の譬え」でなぜ、それが真珠であってダイヤモンドでないのか、というようなことに話を展開してしまうのは、議論としては面白いかも知れないが、時間の無駄というものである。
ただ、こんなことをわざわざ説明しなければならないのは、教会ではオリゲネスの時代(2世紀後半から3世紀の初めにかけて)から「アレゴリカル解釈」が好きで、旧約聖書の解釈や福音書の解釈に、この手法を採用してきた。その影響は今でも残っている。しかし、そういう危険性を十分に理解した上で、それぞれの譬えについて、少しだけアレゴリカルな解釈を施してみよう。
4. 「からし種」の譬
「からし種」の譬では、「天の国」が地上に、つまりこの世に播かれた場合のことが語られる。播かれたときは「小さく」「目立たず」、ほとんど見えないと思った方がいい。その意味では、からし種が芽を出し、育ち大きくなるということは、人間の手によらないということの譬えにもなる。ここでは、ただ小さなものが大きくなるというだけの譬えであるのみならず、それは神の働きによるという譬えでもあるだろう。この譬えには大きくなった状態を説明するのに、「空の鳥が来て枝に巣を作る」ということが述べられている。少しうがった説明を加えると、教会は大きくなり、世の中の人々の憩いの場になるということを暗示しているのかも知れない。
5. 「パン種」の譬
次の「パン種」の譬もほとんど同じ様な譬であるが、ここではパン種が大きくなるのではなくパン全体が大きくなることが語られる。つまり、そこに「天の国」があることには誰も気がつかないが、「天の国」があるのと、ないのとでは「世界の歴史」が違ってくる、ということが語られている。パン種のように小さい教会が世界の歴史を変革する。
6. 「宝の隠された畑」と「高価な真珠」の譬
3番目の「宝の隠された畑」と第4番目の「高価な真珠」の譬はほぼ同じメッセージであろう。ここで重要な鍵となる言葉は「持ち物をすっかり売り払う」ということである。少し異なる点は、前の譬えでは求めていなかったのに「偶然に」「宝が隠されている畑」を発見したということにあり、後の譬えでは「求め、探していた」ということに重点がある。偶然にせよ、あるいは求めていたにせよ、ともかくそれを見つけ出したら、全財産を投げ出してでも手に入れる値打ちがある。それが「天の国」である。この譬えの背後には、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」というイエスの言葉を感じさせる。ここでは「天の国」とは「教会」というよりも、「福音」といった方がわかりやすいかも知れない。
7. 「魚取りの網」の譬
最後の「魚取りの網」の譬は、以上の4つの譬とはかなり雰囲気が異なり、「天の国」の厳しさ、終末における正しい人々と悪いものとの分離が語られ、ここでの「天の国」は正しい者と悪い者との混在する「教会」とは異なるように思う。明らかに新約聖書が「神の国」について語る場合に、現在既にここにある「神の国」と将来終末において実現する「神の国」との2つの面を持っている。
8. メッセージ
今日のテキストでは、まとめや結論は必要ないと思う。わたしたちが現在、教会のメンバーであるという意味、それをわたしたち自身はどう考えているのか。今日のテキストの一つ一つの譬がわたしたちに語りかける言葉をそれぞれが受け止め、応えて行かねばならない。

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