2008年 聖霊降臨後第11主日(特定12) 2008.7.27
教会の成長 マタイ 13:31-33,44-49a
1. 色々な譬え
本日のテキストの省略されている部分(34-43)は、先週の譬の解釈の部分で、先週読まれた。今週の部分は2つの部分に分かれている。初めの部分には、からし種の譬とパン種の譬とがあり、後の部分では「宝の隠されている畑」と「高価な真珠」と「魚取りの網」の譬の3つがある。これらの5つの譬はいずれもそれぞれ独自の視点から「天の国」について語っている。恐らくイエスが色々な情況の中で語られた色々な譬をここにまとめたものと思われる。
2. 「パン種の譬え」
ここで取り上げられている譬え話を全部取り上げると、話の焦点が分散するので、本日は、2番目の「パン種の譬え」だけを取り上げる。このパン種の譬えと、その前の「からし種の譬え」とは同じテーマを取り扱っている。地上におかれている「天の国」つまり教会は、今は「からし種」のように小さく、よほど注意して見ないと目にとまらないような存在である。あるいは、「パン種」のように、粉に混ぜてしまうと完全に粉の中で消えてしまう。しかし、やがて、時がたつと、からし種は人々が目を見張るように大きくなり、人々が出入りするようになる。あるいは、パン種を混ぜた粉はやがて膨らみ、ビックリする。要するに、この譬えはマタイが活動していた当時の教会の姿と将来の姿とを描いている。マタイの時代においては、確かに教会は誰からも注意されず、むしろ世界にとって「余計なもの」と思われ、迫害の対象とされた。むしろ、迫害されるほどであれば、それはかなりの影響力があるのであって、それはマタイよりは50年あるいは100年の後の教会の状況で、マタイの頃には迫害というよりも、たんなる「いじめ」であり、ひねり潰せばつぶれてしまうような存在であったであろう。その意味では、マタイの預言はもうすでに実現し、教会という存在は非常に目立ち、影響力も決して少なくない。
さて、これら2つの譬えは以上のように同じテーマを取り扱っている。しかし、これら2つを並べて考えるそれらの違いにも気が付く。「からし種の譬え」では、単に取るに足りないような小さな教会がやがて大きくなるということを述べているが、「パン種の譬え」にはもう一つ別な視点が入ってくる。それは、パン種の場合は、パン種自体が大きくなるのではなく、パン種が粉全体に影響を与えて「(粉)全体が膨れる」という。パン種が粉全体の質を変える。少し、大げさな言い方をすると教会が存在することによって、その世界全体が影響を受け質が変わる。もちろん、良くなる。パンで言うなら、美味しくなる。
3. 美味しいパンの作り方
定年退職後に覚えたわたしの趣味の1つにパン作りがある。だいたい、毎週一回か二回パンを焼く。今日はパンを作ろうと思い立つと、最初にしなければならないことはイースト菌の予備発酵で、ここで失敗すると絶対に美味しいパンはできない。失敗したなと思ったら、思い切ってそのイースト菌は捨てて、初めからやり直すに限る。予備発酵で重要な点はお湯の温度と砂糖の濃度である。そこに菌を入れ、軽く混ぜ、しばらくすると菌が活動を始める。ぶくぶく泡立ち初め、イースト菌独特の香りが立ち始める。一次発酵の終わりは、菌の状態を観察して居れば、わかる。要するに寝ていたものが起きて働き始めたという感じである。それを計量した粉の中に入れ、定められた量の塩、牛乳、バターを混ぜてよくこねる。はじめの間は、べとべとしているが、やがて水分が粉全体に均等に染み込み、粉の中のグルテンが形成され、赤ちゃんの肌のように滑らかになってくる。そうなったら、適当に形を整えて、ボールに入れ上からラップして、発酵させる。これが、いわゆる一次発酵で、ここが勝負所である。季節や室温の関係で、いろいろ工夫しなければならないが、粉全体が2倍くらいに膨らんだら、一次発酵は終わりである。ここが不十分だと絶対に美味しいパンはできない。その後、切ったり、休ませたり、形を整えたり、パン焼きケースに入れたりといろいろ作業はあるが、最終段階が二次発酵で、ここでは作る人の忍耐が試みられる。「もういいか」「いやもうチョット」という葛藤の中で、決断しなければならない。ベテランになってくると経験的な勘で終わりを決断しやすい。
さて、以上パン作りのプロセスを長々と説明したが、要するにパン作りというものはイースト菌との対話であり、イースト菌はわたしの言うことよりも、環境の影響下にあるということがいいたかったのである。
4. 教会の存在意義
教会が本当の教会として成長するためには、人間はひたすら受け身である。否、受け身であることが求められている。人間が手を出しても碌なことはない。神からの働きかけとこの世の状況との間で、素直にそこにあり続けること、存在し続けることが重要である。そこに教会が置かれているということによって、教会を含む地域社会は変化し、人々の意識は変えられる。教会は何かをすることによって教会なのではなく、そこに存在しているということが教会なのである。
教会の成長 マタイ 13:31-33,44-49a
1. 色々な譬え
本日のテキストの省略されている部分(34-43)は、先週の譬の解釈の部分で、先週読まれた。今週の部分は2つの部分に分かれている。初めの部分には、からし種の譬とパン種の譬とがあり、後の部分では「宝の隠されている畑」と「高価な真珠」と「魚取りの網」の譬の3つがある。これらの5つの譬はいずれもそれぞれ独自の視点から「天の国」について語っている。恐らくイエスが色々な情況の中で語られた色々な譬をここにまとめたものと思われる。
2. 「パン種の譬え」
ここで取り上げられている譬え話を全部取り上げると、話の焦点が分散するので、本日は、2番目の「パン種の譬え」だけを取り上げる。このパン種の譬えと、その前の「からし種の譬え」とは同じテーマを取り扱っている。地上におかれている「天の国」つまり教会は、今は「からし種」のように小さく、よほど注意して見ないと目にとまらないような存在である。あるいは、「パン種」のように、粉に混ぜてしまうと完全に粉の中で消えてしまう。しかし、やがて、時がたつと、からし種は人々が目を見張るように大きくなり、人々が出入りするようになる。あるいは、パン種を混ぜた粉はやがて膨らみ、ビックリする。要するに、この譬えはマタイが活動していた当時の教会の姿と将来の姿とを描いている。マタイの時代においては、確かに教会は誰からも注意されず、むしろ世界にとって「余計なもの」と思われ、迫害の対象とされた。むしろ、迫害されるほどであれば、それはかなりの影響力があるのであって、それはマタイよりは50年あるいは100年の後の教会の状況で、マタイの頃には迫害というよりも、たんなる「いじめ」であり、ひねり潰せばつぶれてしまうような存在であったであろう。その意味では、マタイの預言はもうすでに実現し、教会という存在は非常に目立ち、影響力も決して少なくない。
さて、これら2つの譬えは以上のように同じテーマを取り扱っている。しかし、これら2つを並べて考えるそれらの違いにも気が付く。「からし種の譬え」では、単に取るに足りないような小さな教会がやがて大きくなるということを述べているが、「パン種の譬え」にはもう一つ別な視点が入ってくる。それは、パン種の場合は、パン種自体が大きくなるのではなく、パン種が粉全体に影響を与えて「(粉)全体が膨れる」という。パン種が粉全体の質を変える。少し、大げさな言い方をすると教会が存在することによって、その世界全体が影響を受け質が変わる。もちろん、良くなる。パンで言うなら、美味しくなる。
3. 美味しいパンの作り方
定年退職後に覚えたわたしの趣味の1つにパン作りがある。だいたい、毎週一回か二回パンを焼く。今日はパンを作ろうと思い立つと、最初にしなければならないことはイースト菌の予備発酵で、ここで失敗すると絶対に美味しいパンはできない。失敗したなと思ったら、思い切ってそのイースト菌は捨てて、初めからやり直すに限る。予備発酵で重要な点はお湯の温度と砂糖の濃度である。そこに菌を入れ、軽く混ぜ、しばらくすると菌が活動を始める。ぶくぶく泡立ち初め、イースト菌独特の香りが立ち始める。一次発酵の終わりは、菌の状態を観察して居れば、わかる。要するに寝ていたものが起きて働き始めたという感じである。それを計量した粉の中に入れ、定められた量の塩、牛乳、バターを混ぜてよくこねる。はじめの間は、べとべとしているが、やがて水分が粉全体に均等に染み込み、粉の中のグルテンが形成され、赤ちゃんの肌のように滑らかになってくる。そうなったら、適当に形を整えて、ボールに入れ上からラップして、発酵させる。これが、いわゆる一次発酵で、ここが勝負所である。季節や室温の関係で、いろいろ工夫しなければならないが、粉全体が2倍くらいに膨らんだら、一次発酵は終わりである。ここが不十分だと絶対に美味しいパンはできない。その後、切ったり、休ませたり、形を整えたり、パン焼きケースに入れたりといろいろ作業はあるが、最終段階が二次発酵で、ここでは作る人の忍耐が試みられる。「もういいか」「いやもうチョット」という葛藤の中で、決断しなければならない。ベテランになってくると経験的な勘で終わりを決断しやすい。
さて、以上パン作りのプロセスを長々と説明したが、要するにパン作りというものはイースト菌との対話であり、イースト菌はわたしの言うことよりも、環境の影響下にあるということがいいたかったのである。
4. 教会の存在意義
教会が本当の教会として成長するためには、人間はひたすら受け身である。否、受け身であることが求められている。人間が手を出しても碌なことはない。神からの働きかけとこの世の状況との間で、素直にそこにあり続けること、存在し続けることが重要である。そこに教会が置かれているということによって、教会を含む地域社会は変化し、人々の意識は変えられる。教会は何かをすることによって教会なのではなく、そこに存在しているということが教会なのである。