2008年 聖霊降臨後第10主日(特定11) 2008.7.20
良い種と毒麦 マタイ 13:24-30,36-43
1. 「良い種・悪い種」
先週に続いて、今週もイエスの譬が取り上げられる。先週は「種のまかれる土地」の問題であった。今週は、「蒔かれる種」の良し悪しが問題とされる。
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた」。ここの文章を読んでいると、天の国は何に譬えられているのか、よく分からない。そこで、逆に、わたしたちがどこかとてもいい所に行ったとき、「ここはまるで天国のようだ」という。その逆に、ここは「地獄のようだ」という時もある。どういう状況の時、わたしたちは「天国のようだ」というのだろうか。イエスが「天の国はこのように譬えられる」という場合、その逆を考えればいい。
2. 天の国とはどんな所か
普通、わたしたちは善男善女が集まり、平和で、楽しく、何の問題もない所や状況を「天国のようだ」と言う。ところが、この譬えではイエスは「天の国は神の子らと悪魔の子らとが共存する場所だ」という。
そこで、人々はその場所が本当に天国のようになるために、悪魔の子らを追放しようとする。彼らさえ、排除すれば、そこは本来の天国のようになる。ところが、この譬えでは主人、つまりイエスは、悪魔の子らを追放しようとするとき、神の子らも間違って追放してしまうかも知れないから、そのままにしておきなさい、という。その際に、イエスは重要なことを言われる。人間には、神の子らと悪魔の子らとを判別する能力がないし、資格もない。それができるのは天使だけで、天使が世の終わりに分けてくれるので、それまでは「そのままにしておけ」と命じられた。
3. 何が問題か
今、現在、わたしたちが置かれている現状はそういう状況であり、その現状そのものが「天の国」である、とイエスは言う。ここに非常に重要なメッセージが込められている。神の子らと悪魔の子らとが共存している世界の中で、神の子らだけが集まっている場所が、教会で、そこが「天の国」だというのではない。教会そのものの中に神の子らと悪魔の子らとが共存し、しかも誰も絶対に、神の子らと悪魔の子らとを区別できないし、区別してはならない。
じつは、これが難しい。どうしても、わたしたちは自分の判断で神の子らと悪魔の子らとを区別し、悪魔の子らを排除してしまう。普通、難しいというのは、何かをする場合に言われることであるが、ここでは「しない」ということの難しさが語られている。これが、教会の最も深刻な問題である。早く言ってしまえば、人を裁くという習性、真面目であればあるほど、真剣であればあるほど、善良であればあるほど、人を裁いてしまう。この問題を克服しない限り、教会は真の意味での「天の国」になれない。
マタイが属する教会は、律法の解釈をめぐるユダヤ教徒とくにパリサイ派の人々との戦いにより、ユダヤ人社会から排除されたのである。従って、一つの集団が一つの価値基準に従って純化すればするほど、その価値基準は絶対化され、異なる意見の人々を排除するようになる、ということを身をもって体験したのである。しかし、本当にその価値基準は絶対的だろうか。そんな判断を人間はできるのか。そこに、自分の判断を相対化し、曖昧なまま、共存する道を模索しなければならない。「敵の仕業だ」という認識をしながらも、そのままにしておくという曖昧な状況、それが、現実的な社会のありようではないか。それは、先ず教会において実践されねばならないことであり、それが「天の国」のありようである。もし、そこで失敗するならば、教会はパリサイ派と同じ過ちを犯すことになる。
4. 教会内の共存の論理は全世界へと拡大されねばならない
さて、以上のような教会の構造は、この世におけるすべての共同体と同じ構造である。教会だけが特別だというものはない。あったとしても、本質的な差異ではなく程度の差である。ということは、言い替えると、教会の内部における論理は、教会内だけにとどまるような論理ではなく、人間のすべての集団において現実化されるべき課題であることを示す。
今の世界を見るとき、宗教は「平和の器」というよりも、紛争の種となり、紛争のエネルギーとなっている。宗教は常に絶対を求め、絶対の世界に生きる。絶対は他(敵)を絶滅することによって貫徹される。従って、宗教は常に共存を妨げるエネルギーとなっている。こういう状況の中で、今わたしたちは「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」というイエスの言葉を聞く。この言葉をどう受け止めるのか。
イエスは、「刈り入れるものは天使たちである」(39節)と述べておられる。わたしたちがしてはならない最も重要な過ちは、わたしたち自身が天使になることである。宗教的な信念というものにまとわりつく危険性は、自分たちの信仰のゆえに人間としての限界を超えて、天使になってしまう、ということである。少なくとも、今わたしたちはこの危険性からは逃れたい。
良い種と毒麦 マタイ 13:24-30,36-43
1. 「良い種・悪い種」
先週に続いて、今週もイエスの譬が取り上げられる。先週は「種のまかれる土地」の問題であった。今週は、「蒔かれる種」の良し悪しが問題とされる。
「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた」。ここの文章を読んでいると、天の国は何に譬えられているのか、よく分からない。そこで、逆に、わたしたちがどこかとてもいい所に行ったとき、「ここはまるで天国のようだ」という。その逆に、ここは「地獄のようだ」という時もある。どういう状況の時、わたしたちは「天国のようだ」というのだろうか。イエスが「天の国はこのように譬えられる」という場合、その逆を考えればいい。
2. 天の国とはどんな所か
普通、わたしたちは善男善女が集まり、平和で、楽しく、何の問題もない所や状況を「天国のようだ」と言う。ところが、この譬えではイエスは「天の国は神の子らと悪魔の子らとが共存する場所だ」という。
そこで、人々はその場所が本当に天国のようになるために、悪魔の子らを追放しようとする。彼らさえ、排除すれば、そこは本来の天国のようになる。ところが、この譬えでは主人、つまりイエスは、悪魔の子らを追放しようとするとき、神の子らも間違って追放してしまうかも知れないから、そのままにしておきなさい、という。その際に、イエスは重要なことを言われる。人間には、神の子らと悪魔の子らとを判別する能力がないし、資格もない。それができるのは天使だけで、天使が世の終わりに分けてくれるので、それまでは「そのままにしておけ」と命じられた。
3. 何が問題か
今、現在、わたしたちが置かれている現状はそういう状況であり、その現状そのものが「天の国」である、とイエスは言う。ここに非常に重要なメッセージが込められている。神の子らと悪魔の子らとが共存している世界の中で、神の子らだけが集まっている場所が、教会で、そこが「天の国」だというのではない。教会そのものの中に神の子らと悪魔の子らとが共存し、しかも誰も絶対に、神の子らと悪魔の子らとを区別できないし、区別してはならない。
じつは、これが難しい。どうしても、わたしたちは自分の判断で神の子らと悪魔の子らとを区別し、悪魔の子らを排除してしまう。普通、難しいというのは、何かをする場合に言われることであるが、ここでは「しない」ということの難しさが語られている。これが、教会の最も深刻な問題である。早く言ってしまえば、人を裁くという習性、真面目であればあるほど、真剣であればあるほど、善良であればあるほど、人を裁いてしまう。この問題を克服しない限り、教会は真の意味での「天の国」になれない。
マタイが属する教会は、律法の解釈をめぐるユダヤ教徒とくにパリサイ派の人々との戦いにより、ユダヤ人社会から排除されたのである。従って、一つの集団が一つの価値基準に従って純化すればするほど、その価値基準は絶対化され、異なる意見の人々を排除するようになる、ということを身をもって体験したのである。しかし、本当にその価値基準は絶対的だろうか。そんな判断を人間はできるのか。そこに、自分の判断を相対化し、曖昧なまま、共存する道を模索しなければならない。「敵の仕業だ」という認識をしながらも、そのままにしておくという曖昧な状況、それが、現実的な社会のありようではないか。それは、先ず教会において実践されねばならないことであり、それが「天の国」のありようである。もし、そこで失敗するならば、教会はパリサイ派と同じ過ちを犯すことになる。
4. 教会内の共存の論理は全世界へと拡大されねばならない
さて、以上のような教会の構造は、この世におけるすべての共同体と同じ構造である。教会だけが特別だというものはない。あったとしても、本質的な差異ではなく程度の差である。ということは、言い替えると、教会の内部における論理は、教会内だけにとどまるような論理ではなく、人間のすべての集団において現実化されるべき課題であることを示す。
今の世界を見るとき、宗教は「平和の器」というよりも、紛争の種となり、紛争のエネルギーとなっている。宗教は常に絶対を求め、絶対の世界に生きる。絶対は他(敵)を絶滅することによって貫徹される。従って、宗教は常に共存を妨げるエネルギーとなっている。こういう状況の中で、今わたしたちは「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」というイエスの言葉を聞く。この言葉をどう受け止めるのか。
イエスは、「刈り入れるものは天使たちである」(39節)と述べておられる。わたしたちがしてはならない最も重要な過ちは、わたしたち自身が天使になることである。宗教的な信念というものにまとわりつく危険性は、自分たちの信仰のゆえに人間としての限界を超えて、天使になってしまう、ということである。少なくとも、今わたしたちはこの危険性からは逃れたい。