落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 正しい若枝

2007-11-20 19:49:59 | 講釈
2007年 聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日)(特定29) 2007.11.25
<講釈>正しい若枝  エレミヤ書23:1-6
1. 「降臨節前主日」(特定29)の名称読みかえについて
昨年5月(2006)に開催された第56(定期)教区会において、主教会提案の「祈祷書中の教会暦の一部を読み替え、その試用を認める件」が可決された。具体的には降臨節前主日(特定29)を「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日)」と改めるということである。意図は、特祷の内容を重視し、世界各国の聖公会に合わせるということにあるようである。
主教会が各教会聖職・信徒に贈られた書簡では次のように要請されている。
────その(聖霊降臨後最終主日の)意図はこの日の特祷と福音書にも明らかです。すなわち特祷では、「永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように」と祈っています。
年間を通して読まれてきた福音書の出来事の最後に、すべてのものがキリストのうちに集められ、また解放されることが祈り求められ、そしてその主キリストを待ち望む降臨節へと続いていきます。
主教会の要請に基づいて研究・作業を進めた礼拝委員会は、諸外国に一般的な「王なるキリスト」ではなく、特祷の中から「回復」という言葉に焦点を当てて答申をされ、主教会もそれを受けて議場に諮りました。
「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日)」というやや長い主日名ですが、礼拝案内、説教等を通してこの主日の意図を生かしてくださるようにお願いいたします。────
以上が主教会からの書簡であるが、文章がくどく、言いたいことが明白ではない。要するにこの主日は一年を総括し、新しい年を展望する(信仰を整え直す)ということであろう。
従って、本日の福音書も、使徒書も、旧約聖書もそのインテンション(意図)をくみとって解釈する必要がある。
2. 総括として読む
本日の旧約聖書のテキストは元来一つの固まりになっており、さらにそれは三つの部分に分けられる。第1の部分(1節~2節)では、二つの「・・・と主は言われる」を目印としてイスラエルの過去が総括される。今まではイスラエルの民の指導を王たち(牧者)に任せていたが、駄目だった。第2の部分(3節~4節)「・・・・と主は言われる」という言葉で、イスラエルに対する政策転換が宣言される。だから今度はわたし自身が導くと宣言する。第三の部分(5節から6節)は詩文で、新しい時代を祝福する歌である。以上が本日のテキストの構成である。
3. ユダの王の状況
ユダの王が駄目だった理由が22章13節から18節に具体的に述べられている。
────災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない者は。彼は言う。「自分のために広い宮殿を建て、大きな高殿を造ろう」と。彼は窓を大きく開け、レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。あなたは、レバノン杉を多く得れば、立派な王だと思うのか。あなたの父は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ、わたしを知ることではないか、と主は言われる。
あなたの目も心も不当な利益を追い求め、無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。それゆえ、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムについて、主はこう言われる。だれひとり、「ああ、わたしの兄弟、ああ、わたしの姉妹」と言って、彼の死を悼み、「ああ、主よ、ああ陛下よ」と言って、悼む者はない。────
実に具体的である。死んでも誰れひとり泣かない。悼む者がいない。何という哀れな王であろう。このような文章が、エレミヤ書には沢山ある。こういう状態を受けて本日のテキストのはじめの部分(1,2節)では、もう駄目だ。何とかなるかと、少しは期待していたが、もう我慢ができない。終わりにしよう、と語る。これが、イスラエルの歴史に対する神の総括である。
4. 神の方針転換
1、2節において、以上のように総括された神は、イスラエルの民との関係を決定的に変更する。いわば運動方針の変更である。3節では「このわたしがする」と宣言される。つまり、神はダビデ以降の王たちの言動を見ていて、もう彼らには任せられないと、判断し神ご自身が民の指導者となろうと決断し、宣言する。ただ、この宣言は4節では「彼らを牧する牧者を立てる」と言われ、3節と4節との間に矛盾がある。はっきりしない。一応、その曖昧さは、新しい王が即位するまでは、イスラエルの民の牧会は暫定的に「わたしが」預かろう、という意味に理解しておこう。5節、6節で新しい方針が語られる。それが「若枝預言」である。
「革命」という言葉がある。英語ではレボリューション(revolution)という言葉の翻訳語として用いられるが、「革命」とレボリューションとはかなり異なる意味あいである。レボリューションという場合は、天体の回転運行から派生した言葉で、いわば自然の回転運動から派生した言葉である。資本主義社会から社会主義社会への変化は、なるべくしてなる自然の転換であり、熟した実が自然に枝から落ちて、新しい社会が生まれるのがレボリューションである。それに対して「革命」とは「天の意志」の変更を意味する。具体的には、命令の変更とか指導者の変更を意味する。実際には暴力的に政権を奪い、権力の座に着いたとしても、それはあくまでも「天の意志」であったと主張する。そこに新しい権力の正統性の根拠を持たせる。
本日のテキストが語るのはまさにこの「上からの革命」である。神による歴史への直接介入であるから、権力を奪う新しい勢力はまだない。変な言い方をすると、「奪取する主体のない革命」とでも言うべきか。神が、統治を委託する新しい権力は「まだ」ない。しかし、その萌芽はすでにある。それが「若枝預言」である。
5. ダビデの家系
ここで一つ断っておかねばならないことがある。それは、わたしたちにとってはどうでもいいことであるが、ユダヤ人たちにとっては非常に重要なことである。彼らは、王なる者はダビデの家系を継ぐ者でなければならない、ということに以上にこだわりを持っていた。その意味では、革命といっても、新しい王朝はやはりダビデの家系を継ぐ者でなければならないと考えていた。それが、彼らとヤハゥエなる神との「永遠の契約」であった。ダビデ・ソロモンの時代の後、イスラエル民族は南北に分裂したが、ダビデの王朝から離れた北のイスラエル王国は分裂後間もない頃アッシリア帝国によって滅ぼされてしまった。しかし、ダビデの王朝を維持した南のユダ王国は北のイスラエル王国が滅ぼされた後135年も維持された。これは奇跡に近いことであった。もっとも、その南のユダ王国も最終的にはバビロン帝国に滅ぼされたが、その後45年ほどで解放された。そのときには北のイスラエル王国は歴史から消えてしまった。この経験はユダヤ人の骨の髄まで染み込み、ますますダビデの家系に対する信仰は不動のものとなっていた。
従って、「革命」といってもダビデの家系からまったく別の家系に移るということは倫外である。この矛盾を克服するのが、若枝論である。
6. ダビデのための正しい若枝
エレミヤの「若枝預言」(23:5)は明らかにイザヤの預言(11:1)を意識している。イザヤ書では「エッサイの株から一つの芽が萌いで、その根から一つの若枝が育つ」と預言されている。この言葉は、クリスマスでしばしば引用される言葉であるが、ここで注目すべき点は、「エッサイの株」とは本体を切り落とされた、残りの切り株ということで、そこから新しく吹き出た新芽がここでの「若枝」という意味である。古いダビデの家系は切り倒される。そしてそこに残った切り株から新しいダビデの家系が始まる。エレミヤはここで明らかに100年前の預言者イザヤの預言を意識して語っている。これが、「ダビデのための正しい若枝」(23:5)である。
7. 「主はわれらの救い」
本日の主題は、始まりへの第1歩である。教会歴の最初のクライマックスはクリスマスであるが、今日のテキストはまさにクリスマスの先取りである。エレミアはバビロンに捕らわれている人々に向かって「ダビデのための正しい若枝」を預言する。つまり、先の見えない苦難の中からの解放の預言である。この預言の実現は直接的にはバビロンからの解放という歴史的事件として実現したのであるが、初代のキリスト者たちは、このエレミアの預言をキリストの出現という出来事の預言として受けとめた。イエスの中に「ダビデのための若枝」を見た。イエスは「我らの救い」と宣言した。新しい年は、新しい救い主イエス・キリスト共に始まる。

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