落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第25主日(特定28)説教 義の太陽

2007-11-14 15:45:21 | 説教
2007年 聖霊降臨後第25主日(特定28) 2007.11.18  八幡聖オーガスチン教会
義の太陽   マラキ書3:13-24
1. 「終わり」について考える主日
来週の主日は、一年の終わりの主日で一年を総括する日である。それに対して、本日は、「終わりについて」考えさせる主日で、そのようなテキストが選ばれている。キリスト教の思想においてはすべてのものの始まりを意味する創造論と共に万物の終わりについての思想も重要である。終末論(エスカトロジー)とは、「世界の終わりについての教え」であり、初期のキリスト教では「再臨論」として熱狂的に待望されたことである。その教えは現在でも使徒信経でもニケヤ信経でも唱えられている。従って、一年に一度ぐらい、終末について考えることはわたしたちの信仰生活にとって非常に重要なことである。終わりについて考えるということは実は終わりそのものよりも、現在を終わりに向かって整えるということにほかならない。
2. 旧約聖書の最後の書
マラキ書は旧約聖書の最後の書である。もちろん、現在わたしたちが手にしている聖書の中で最後に書かれたかどうかは不明であるが(多分ダニエル書の方が後で書かれたものと思われる)、内容的には明らかに最後を飾るにふさわしいという意味である。「マラキ」という単語の意味は「わたしの使者」という意味で、おそらくこれは本名というよりも、ペンネームであろう。実名を伏せることによって、目の前の社会を鋭く批判する手法である。文章は黙示文学的表現が多く、その点ではダニエル書とよく似ていると言われているが、時代的には紀元前4世紀末から紀元前3世紀の初め頃の著作であると考えられている。分かりやすくいうと、アレキサンダー大王が登場する少し前頃ということになる。
3. マラキの批判と希望のメッセージ
預言者マラキが活動した時代を一言で表現するならば、神殿における祭儀への徹底的な失望、あるいは絶望ということであろう。祭儀は形骸化し、祭司たちの堕落は目を覆うものがあった。宗教が腐敗し堕落するということは、国民の間での道徳が退廃するということでもある。一旦堕落の道を進み始めると、もうその進行を止めることはできない。その一例を紹介しておこう。読むだけで十分理解できる。
「子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら、わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら、わたしに対する畏れはどこにあるのかと、万軍の主はあなたたちに言われる。わたしの名を軽んずる祭司たちよ、あなたたちは言う。我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に、汚れたパンをささげておきながら、我々はどのようにして、あなたを汚しましたか、と言う。しかも、あなたたちは、主の食卓は軽んじられてもよい、と言う。あなたたちが目のつぶれた動物を、いけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても、悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと、万軍の主は言われる」(1:6-8)。
当時の祭司たちはこれぐらい堕落していた。もう一つ決定的な言葉を紹介しておこう。
「あなたたちは、自分の語る言葉によって主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う。どのように疲れさせたのですか、と」(2:17)。祭司たちは少しも分かっていない。
もう一個所、だめ押しの一点である。本日にテキストの中から。
「あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う。どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え。神を試みても罰を免れているからだ』」(13-15)。
彼ら(当時の祭司たち)はいったいどんな神学を持っていたのか。もう無茶苦茶である。
4. ひどい言葉
ここでは「言ったとか、言わなかった」ということの議論である。こういうことはわたしたちの日常生活でしょっちゅう起こっていることである。しかし、問題は言ったとか言わなかったとか、そういう意味ではないとか、誤解ということではない。重要なことはそういう生き方をしているということである。一つ一つの言葉ではなく、その人の生活の全体が語っていることがここでは問題にされている。特に本日のテキストでは、実に明白に神を信じない人々の生き方を述べている。たとえ、口では「神を信じる」とか、正義を尊ぶとか言っても、根本的なところでこう思っている人は結構多い。テレビや新聞に登場する多くの犯罪事件は、決してわたしたちから遠くにあるのではなく、一つ間違えればすぐにその当事者になりかねないことである。問題はその「一つ間違えるか間違えないか」という分岐点である。本日のテキストでいうと「そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と神に仕えない者の区別を見るであろう」という「区別」である。確かに現実を見ると、なぜ正しい者が苦しみ、高慢な者が栄えるのか理解に苦しむ。現実は不条理に満ちている。わたしたちはそれを嘆く。平気で悪いことをする連中が幸福そうにしているのを見ると腹ただしささえ感じる。
5. 「記録の書」
16節の言葉は面白い。何かホッとする挿入である。どんなに社会が乱れ、堕落していてもすべての人間がそうだというのではない。必ずその中に「憂えている人、泣いている人、義に飢え渇いている人」、「主を畏れ敬う人」がいる。そういう人びとが集まって、語り合っている。おそらく、密かに、隠れるようにして集まり、語り合い、祈りあっている。神は、その人たちの言葉に耳を傾け、神の前に「記録」されている、と言う。わたしもそれを信じる。
17節、18節はそのような人びとへの神からの秘密メールである。16節は散文で書かれているが、17、18節は詩文である。ぜひ、この秘密メールを心に留めておこう。これこそが、義に飢え渇く人びとへの神からの愛のメッセージである。
「わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」。
実に恐ろしい。わたしたちの日常生活のすべてが神の手にあるノートに記録されている。しかし、考え方によっては、これは大変な「福音」である。これが「福音」だ。文字通り「よき音信」である。その日が来たら、わたしたちは「神の宝物」になる。いや、そうではない。今も神の「宝物」であるが、その日にそれが公になる。本物の太陽が現れるとき、すべてが明るみに引き出され、善と悪と、信仰と不信仰とが明白に区別され、悪は裁かれる。

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