落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 清算日

2007-11-29 15:40:50 | 講釈
2007年 降臨節第1主日 2007.12.2
清算日  マタイ24:37-44
1. 教会暦の第1主日
教会の1年は降臨節第1主日から始まる。いわば、今日は教会の元旦のようなものである。元旦だから目出度いと考えるのは早計で、本当の始まりは闇夜から始まる。天地の創造も「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」(創世記1:2)から始まる。
新しい年は古い年が暮れ、真っ暗な闇夜の中から始まる。日が昇るにはまだ早い。歴史は暗闇から始まり、暗闇において終わる。それが一区切りの歴史である。ユダヤ人はそれを「1アイオーン」と言った。古いアイオーンが終わって、新しいアイオーンを迎える。従って、歴史の終わりは同時に新しい歴史の始まりでもある。だからといって、アイオーンの変わり目は単なる時の通過点ではない。「非連続の連続」とでもいうべき特殊な時であり、連続した時間の流れを表すクロノス(経過する時間)に対して「カイロス(決定的な瞬間)」というべき時である。
聖書の最も根本的な思想は、歴史には始めがあり終わりがある、ということである。しかし、「始めと終わり」はわたしたちの経験を越えている。わたしたちはもう既に始まっている歴史の中に生まれ、おそらく歴史の終わりの前に死ぬであろう。つまり、わたしたちにとってはこの歴史が「この世」であり、わたしの属するアイオーン(時代=世界)である。歴史の始まる前のことも、歴史が終わってからのことも、わたしたちは本当のところよく分からない。ただ、歴史の中のあらゆるものは「始めがあり終わりがある」という経験的事実から、歴史そのものの始まりと終わりについて、想像し、類推して「神話的」にしか語れない。それ故に、「神話」を「歴史的事実ではない」として葬りさるとき、歴史の始まりと終わりについての「思想」も否定してしまう危険性がある。
2. 聖書が終わりの日にこだわる理由
聖書が終わりの日についてこだわる理由は、始があれば終わりもあるというような哲学的テーマとしてではない。むしろ、現在のわたしたちの生活に関わるテーマとして欠かすことができないからである。端的にいうと、聖書において終わりの日とは、現在の生活のすべてを「清算する日」としてである。わたしたちの日常生活は一瞬一瞬、未来は現在になり、現在は過去になるというように時間は過ぎていく。過去はもはや過ぎ去った時間として永遠の彼方に消えていく。良いことも、悪いこともすべて過ぎ去る、と思っている。特に、悪事の場合、人の噂も75日ということで、消えてしまうことを願っている。重大な秘密も「墓場まで持っていけば」それで終わりである、と言う。しかし、聖書は「そうは問屋はおろさないぞ」、と警告する。わたしたちの全生活を清算しなければならない時が来る、という。それが、聖書が語る、特に福音書が問題にする終末であり、最後の審判である。
3. マタイの語る「清算日」
新しい年(A年)の福音書はマタイ福音書で、本日はマタイ24:37-44までが読まれた。マタイ福音書24章は「マルコの小黙示録」と呼ばれているマルコ福音書13章をほとんどそのまま引き継ぎながら、そこにマタイ独自の変更を加えている。この変更の部分にマタイの終末についての思想が反映している。ただ、この主日のメイン・テーマは、終末論にあるわけではないので、その点については別な機会に論じることにする。ただ、ここでは新しい年の初めに終末についてのテキストが選ばれていることについて、一言述べておこう。
わたしたちの本日の課題は今年一年どういう心構えで生きるのか、ということにある。その際に、どうしても確認しておかねばならないことは、一年の最後に「清算の時」があるということである。このことを念頭に置くのと置かないのとでは、全然生き方が異なる。決算の時があるからこそ、毎日毎日わたしたちは出入金を証明するすべての領収書を丹念に確保しておかねばならない。もし、決算がないなら、領収書は不要であろう。アイオーンの終わりが精算日である。しかし、その日が何時かが分からない、と言う。
4. ノアに学ぶ
マタイはその清算の日を「人の子がくる日」と表現し、それは「ノアの時」と同じである、という。一体、それはどういう意味であろうか。そのことについて考察する前に、先ずこの部分の資料的な問題を明らかにしておこう。
先ず、マタイ福音書24章全体は、マルコ福音書13章を下敷きにしている。本日のテキストでも36節は、マルコ13:32とまったく同じで、これがこの個所を形成する「枠」となっている。主題は「目を覚ましていなさい」ということである。ところが、マタイはマルコがその理由付けとして語る「旅に出かける主人のたとえ」をまったく取り上げず、ノアの箱船物語を語る。これは、マルコにはない資料で、おそらく、いわゆるQ資料と呼ばれているイエスの語録資料からのものであろう。Q資料についての議論は別の機会にゆずるとして、結論をいうと、この部分についてのQ資料の原型に近いものはルカ17:26-35で、そこではいわゆる「稲妻語録」と呼ばれている言葉に続いている。少し複雑になるが、マタイ福音書の順序でいうと24:23-28に続く部分である。つまり、Q資料では「人の子の出現」についての「どこに」という場所に関する質問に対して、「何時か分からない」という時間に関する答えが対応するという矛盾をおかしている。マタイはその点を修正している。マタイは「どこに」ということについては、24:26-28にまとめ、ここでは「何時」ということに集中している。
Q資料ではノアの物語に続くロトの妻の物語(ルカ17:28-32)があるが、マタイはそれを削除している。Q資料においてはノアの物語とロトの妻の物語とは同じ主題を用いていると考えているようであるが、マタイの目からは両者は異なる主旨と見なしているようである。その根本的な違いは、ロトの妻の場合は災害を受けた時の逃げ方、いわば災害時における身の処置方の問題であるのに対して、ノアの場合は、そこに向けての普段の準備の姿勢である。マタイは、あくまでも「その日」に向けての準備を問題にする。「その時が何時か分からないからこそ、常にそれに向かって準備をしておく」ということにマタイのメッセージはある。しかも、その準備は内面的なものであって、外面的なものではない、ということをそれに続く二つの例話によって示している。
5. <参考資料>マタイが参照したQ資料の該当個所
<「失われた福音書──Q資料と新しいイエス像──」(バートン・L・マック、秦剛平訳)> 
【QS60  選別される日】
彼らがおまえたちに向かって、「ほら、彼は荒れ野にいる」と言う時がくる。しかし、出て行ってはならない。「ほら、家の中に隠れている」と言われても、ついて行ってはならない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子の現れる日にも同じことが起こる。
ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れる日にも起こるであろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人びとは食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲ってきて一人残さず滅ぼしてしまった。
ロトの時代にも同じようなことが起こった。人びとは食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて一人残さず滅ぼしてしまった。
これがまさに人の子の現れる日の光景である。
おまえたちに言っておくが、その夜に2人の男が畑にいれば、1人は連れて行かれ、1人は残される。2人の女が臼をひいていれば、1人は連れて行かれ、1人は残される。
死体のある所に、はげ鷹は集まる。
6. ノアの箱船物語
マタイにとって、キリスト者の日常生活はすべてノアとノアの家族が山の上に箱船を建設するのと同じことであった。マタイにとって教会とは「山の上の箱船」のようなものである。日常生活では無用の長物にすぎない。その「無用の長物」が何時か重大な意味を持つ時が来る。というのは、一つの観念である。そんなものの建築に「うつつを抜かす」ことは馬鹿げている。「思いこみ」とか「信念」とか、そんなもので飯は食えない。と言うような批判を背にして、キリスト者は黙々と教会を建設し、終わりの日に備える。これから一年間、マタイ福音書から聖書のメッセージを聞く。マタイは徹底的な観念論者である。観念論もここまで徹底するば、恐ろしい思想となる。マタイの観念論は甘ったるい理想論とは質が違う。この一年、そこのところを学びたい。
ノアとノアの家族とが船を建造しているとき、人々は嘲笑した。世の終わりなど来るものか。世界はいつまでもこのまま永遠に続くのだと。ここにまだ現実に起こっていない将来の出来事を既に現在のこととして準備しているノアと、まだ起こっていないことは現実ではないとして否定する人びととの対比がある。洪水が起こっていないときにはどちらが正しいのか判定はできない。むしろ、ノアの生き方は「観念論」であるとして批判することができる。しかし、洪水が実際に起こったときには、ノアを観念主義者として批判していた人びとは、自分でその結末を担わなければならない。
女を見て、暴力的に犯せば、それは姦淫の罪である。しかし、ただ「色情を持って見る」だけでは罪にならない。それが、現実的である。しかし、マタイは「色情を持って見る」だけで罪であるという。これは、心の問題である。
畑で二人の男が働いている。しかし、その日には、一人は連れて行かれ、もう一人は残される(40節)。外見は区別がつかない。しかし、目に見えない心の違いが露わになる。同じように、二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される(41節)。終わりの日に向かって、マタイが問題にするのは外面ではなく、あくまでも「心の問題」である。
7. 降臨節の課題
降臨節の課題は、単にクリスマスに向けての準備ではない。終わりの日の清算に向けての心の順である。その意味では、主イエスの降臨を意味するクリスマスとは、この世の終わりの日と重なり合っている。第1の降臨と再臨とは重なり合っている。幼子イエスの誕生は「王としてお生まれになった方」(マタイ2:2)の誕生と呼応している。その意味では、わたしたちの全生涯が「降臨節」である。

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