落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 派遣された者として生きる ルカ10:1-12、16-20

2013-06-20 10:20:26 | 講釈
みなさま
次の日曜日(6月23日)は、姪の結婚式のために土曜日から大阪に出かけますので、7月初めの<講釈>を一寸早めにお送りいたします。今回はテーマは間口が広すぎて、まとめるのにかなり苦労いたしましたが、むしろ説教の方を先に仕上げて、それを補う形で<講釈>をまとめました。

2013T09(L)
2013年 聖霊降臨後第7主日(特定9) 2010.7.4
<講釈> 派遣された者として生きる  ルカ10:1-12、16-20

1. 72人の派遣
ルカ福音書には弟子を派遣する記事が2つある。「12弟子の派遣」(9:1-6)と「72人の派遣」(10:1-12)で、前者は他の福音書にも見られる(マタイ10:1,5-15,マルコ6:7-13)が、後者はルカ福音書だけの記事であり、その点で歴史性には疑問がある。ルカの文脈では12弟子の派遣はガリラヤでの活動の仕上げの段階に置かれ、「72人の派遣」はエルサレムへの旅が宣言(9:51)された後の出来事とされる。
本日取り上げられているのは「72人の派遣」の記事であるが、これに続く部分では悔い改めない町、派遣された者を拒む町のことが記され(13-16)、「72人の帰還」(17-20)の記事とそれを聞いたイエスの喜びの記事が続く。つまり、この部分(10:1-24)はワンセットになっている。
この部分を資料的に分析すると、1-12と17-20とはルカ独自の資料によるものと思われるが、13-16、21-24はマタイにも見られ(マタイ11:20-27、13:16-17)、おそらくQ資料によるものと思われる。
また、72人については「ほかに72人を任命して」とだけ記されているだけで、それがどういう人たちなのか明記されていない。なお、この「72」という数字はユダヤ人にとって非常に象徴的な数字である。
以上のことを踏まえ、さらに詳細な言語的分析の結論として、「72人の派遣」の記事は、ガラテヤの村落で人々に教え、病気を癒しているイエスの時代よりは、ローマをも視野にいれた世界宣教への意欲をもったパウロの時代、教会における「派遣制度」がかなり整えられている段階を示している。
キリスト者たちは、福音を世界の隅々まで宣べ伝えなければならないという使命に燃えている。なぜなら、そこは「主イエスが行くつもりのすべての町や村」であったからである。「収穫は多いが、働き手が少ない」という実感は、初代教会のものである。従って、ここで言う「72人」とは、初代教会の専門の伝道者の全体を意味していたのであろう。彼らはそれぞれ2人づつ組になり、全世界へと派遣され、またエルサレム、あるいはローマに戻り、それぞれの働きを報告し合い、お互いに感謝したのであろう。

2.最初期の信徒の交わり
さて、最初期の教会の人たちは自分たちの共同体についてどういうものだと考えていたのであろうか。彼らはイエスに従って、ガリラヤの田舎から当時の大都市エルサレムに出て来た。そのとき彼らは大きな希望を抱いていた。自分たちの先生、イエスはエルサレムで立ち上がり、ローマの支配からユダヤ民族を解放すると信じていた。ところが、そのイエスはユダヤ民族の指導者たちから憎まれ、ローマの権力によって殺されてしまった。ところが、不思議なことにイエスは復活したという。そんなことはとうていまともに信じられるようなことではなかった。彼らは途方に暮れ、これからどうしようかと考えた。まず、一番簡単な方法は、そのまま黙ってというより隠れてガリラヤに戻り、それまでの生活をすることだった。おそらくその道を選んだ者もかなりいたことだろう。
また、他の人々は、私たちが今、ここに居るということには何かの意味があるのではないか。イエスが無残にも殺されてしまった今、何事もなかったかのように元の生活に戻れるものなのか。いま、私たちがここに居るという意味は何か。これらのことについて、延々と議論したことだろう。そのとき、彼らが思い出したことは最後の晩餐の席上でのイエスの祈りであった。
ヨハネによる福音書にその祈りが記録されている。かなり長い祈りなので一部だけを紹介すると以下の通りである。

< 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。>(ヨハネ17:6-19)

勿論、資料的に見て、最後の晩餐の席において実際にこのような祈りをイエスが捧げたという保証はない。しかしヨハネ福音書の記者は何らかの形でこのような資料を手にしていたのであろうし、おそらくある程度まではこれが弟子たちの共通の記憶であったものとも思われる。
ここで述べられているポイントは3つである。
1.弟子たちはイエスが神から派遣された者であることを信じた。
2.それでイエスは弟子たちに「み名の秘密」を教えた。
3.イエスはイエスが神から遣わされたように、弟子たちを全世界に派遣する。

ともかく、彼らはそのことを思い出し、自分たちをこの世に派遣された者と自覚した。というわけで、それまでイエスの「弟子」と呼ばれていた12人を「12使徒」と呼び始めた。使徒という言葉は派遣された者という意味である。
世界に派遣されたという自覚は、何のための派遣なのか、何を持ってこの世界で生きるのかということを抜きには考えられない。それが「み名の秘密」である。イエスのみ名をあっちこっちにばらまく。イエスのみ名によって病気を治したり、イエスのみ名によって貧しい人々を助けたり、イエスのみ名によって神の愛を語るとか、要するにイエスが生きたように自分たちも生きようと決断した。

3.「イエスのみ名」の威力
彼らが自分たちを「み名を世界にばらまくために」派遣された者として生きようと決断した時、彼らは神から力を受けるという聖霊経験をした。それから間もなく、それを実行するときが来た。それが使徒言行録の第3章の出来事である。教会という共同体が生まれて間もなく、ペトロとヨハネがエルサレムの神殿にお参りに出かけた。その頃、キリスト者も普通のユダヤ人たちと同じように日毎に神殿にお参りに行っていたらしい。「美しい門」と呼ばれていた所に来ると、そこに「生まれながら足の不自由な男」が座っていて物乞いをしていた。彼はペトロとヨハネに施しを乞うた。ここで面白いのは二人はこの男をジッと見たという。すると男の方も2人を見つめたという。この男は幼いときから神殿の門前で物乞いをしていたのであろう。かなり有名だったという。いわばベテランの物乞いだ。毎日目の前を歩く人々の足を眺めて過ごしてきた。だから足元を見るだけで、その人物がどういう人物かすぐに見破ることができたであろう。その男が2人を見つめ、2人もこの男を見つめた。この男は物を「貰う」という立場で2人を見つめ、2人は何かを「与える者」として、この男を見つめている。常識的には彼らの間には上下関係がある。上から与える立場、下から受ける立場。そこでペトロは言う「私たちには金も、銀もない」。この言葉によって何がもたらされたのか。実は両者の間の上下関係が崩れ同じ立場に立ったということである。少なくとも、この世の諸関係においては、あなたも私たちも同じレベルにいる。それなら彼らの間にはそれ以上関わる必要なないし、黙って通り過ぎればいい。
ところがペトロとヨハネはこの世に派遣された人間である。派遣された人間としてそこに座っている男の前に立っている。派遣された人間とそこに、つまりこの世に座っている人間、それは与えるべきものを持つ人間と与えられることを待つ人間である。ペトロは言う。「私が持っているものをあげよう」。ペトロは何を持っているというのか。今、この男が欲しいと言っている金と銀はないと言ったところである。確かに金銀は我になし、であるが「持っているものをあげよう」という。男は首を傾げならが次の言葉を待つ。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」。この男に「イエス・キリストの名」がどれだけの値打ちがあると言うんだろう。それなら最小の硬貨、現代の日本なら1円硬貨の方がよほど値打ちがあるというものだ。ところがペトロが彼の手を取って立ち上がらせると、立ち上がった。足やくるぶしがしっかりしてきて、踊り上がって立ち、歩き出した。そんな奇跡は信じられないと言いますか。その奇跡は信じなくてもいい。ただ、イエスのみ名によって、今までの「与える者」と「受けるだけの者」とが同じレベルに立ったということは信じるに値する。この出来事はその後にいろいろと展開する。使徒言行録によると、その男はペトロとヨハネに「付きまとっている」と表現しているが、これは正しくは「ペトロとヨハネを掴んでいる」という意味で、引っ付いていて離れようとしない状況を示している。つまり、関係の一体化、同じ仲間になったと言うことを意味しているのであろう。今までは与える者と受ける者であったが、今や彼も与える者なったということであろう。これにはペトロもヨハネも驚いたことだろう。「イエスのみ名」の威力に驚いた。今までは、この世界において受けるだけの人間、人々から同情され憐れまれて与えられるだけの人間が、与える側の人間になったという奇跡である。

4.使徒たちの宣教報告
本日のテキストの後半は使徒たちの宣教活動の報告である。彼らは次のように報告している。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」。この報告はいかにも初代教会の雰囲気を示している。彼らは宣教とは悪霊との闘いだと認識していた。そして悪魔との闘いの武器は「イエスのみ名」である。使徒たちは実践の場に出て「イエスの名」の威力に驚いている。
これを受けてイエスは「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」。ちょうど、使徒たちがこの世界で「み名の威力」を発揮して、悪霊との闘い、勝利しているとき、イエスも天において「サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」といわれる。これは非常に面白い表現である。サタンが天から落ちるという伝説は大昔のことであって、サタンはもう天にいないはずである。ところが、ここでそういう言葉がイエスの口から発せられるということは、この地上で使徒たちがイエスのみ名によって闘っているとき、イエスも天においてサタンと闘っておられるというメッセージである。何と痛快なことだろう。私たちがこの世において苦労しているとき、イエスも天において苦労している。私たちがこの世で闘いに敗れ悲しんでいるとき、天においてイエスも悲しいでいる。私たちがこの世で悪の勢力と闘い勝利するとき、天においてイエスもサタンと闘い勝利している。これを神話的表現だと笑う人は笑わせておけばいい。私たちは「イエスの名」によって祈るとき、その同じ祈りをイエスもしているということを覚えておくがいいい。

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