落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第3主日(特定5) 説教「ナインでの奇跡」 ルカ7:11-17

2013-06-04 15:07:40 | 説教
みなさま、
取り上げられているテーマの関係上、中途半端な説教はできませんが、やはり20分以内に収めようと思うと、枝葉をかなり切り詰めなければなりませんでした。そのため、どうしても説明不足になろうかと思います。でも、このテーマはこれからも繰り返し語らなければならないテーマであるのでご勘弁頂きたい。説教ではできる限り、自由に、分かりやすく語りたいと思っています。

2013T05(S) 2013.6.9
聖霊降臨後第3主日(特定5) 説教「ナインでの奇跡」 ルカ7:11-17

1.死の悲劇性
このテキストが語る中心的テーマは、死による離別の悲劇性と回復という人生における最大の問題である。すべての人は必ず死ぬ。死ぬということだけはすべての人に共通する悲劇である。人が死ぬということの悲劇性の本質とは何か。愛する人たちに囲まれ、看取られて天寿を全うする死と、突然の災害や事故によって若者が命を失うのとを同じ死とは思えない。高齢者の孤独死、戦場における若者の犠牲死。あるいは貧困による幼児の餓死や病死。
死とはまさに瞬間的な出来事である。生きているという状況から死という状況への変化は除除であれ、その除除の変化がどんなに苦しみを伴うものであれ、あるいは全く苦しみが無くても、「死」そのものは瞬間である。その意味では「死の苦しみ」とは生きている証拠でもある。しかし、その「瞬間の死」の前と後とでは状況が全く異なる。それはその人本人にとってもまたその人に関わるすべての人にとっても同じである。それを一言でいうならば「関係が変わる」。その変化を突き詰めると、死以前の関係においては相互的であるのに、死後は一方的になる。こちら側からどのように語りかけ、刺激を加えても、相手側からの反応がない。そのために、こちら側の人間にとっては相手側が今どういう状況なのか、全く捉えようがない。「死」という線を引いて、線のこちら側にいる者には線のあちら側のことが全く分からない。
2.ナインの婦人
本日のテキストは、ひとり息子に先立たれた母親の悲劇が描かれている。当時、いや現代でも人は死者を墓に埋葬する。墓という死者の世界は生者の生きる空間から明瞭に分離される。それが社会の掟であり、たとえ母一人子一人の関係であっても同じ所に住むわけにはいかない。
イエスはこの婦人を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。「もう、泣かなくともよい」。随分優しい表現である。原文には「もう」なんていう言葉はない。たった2語で単純に「泣くな」である。イエスは婦人に「泣くな」と言われた。それから後の展開はハッピーエンドまで、そこに書かれた通りであろうから、繰り返す必要はないであろう。
私の驚きは死者がよみがえったという奇跡ではない。ひとり息子に先立たれて大声で泣いている婦人に「泣くな」と言われたイエスの態度である。それはイエスに死者を生き返らせることができるから、言えた言葉であろうか。勿論、私たちは死者を生き返らせる力はない。だから、この婦人に対して何も言うことが出来ない。ただ一緒に泣くことしかできない。だから「泣くな」という言葉は出てこない。
3.「主(キュリオス)」という言葉
実はこのテキストはそんなに単純ではない。よく注意してみると、ここではイエスのことを「主」と書いている。福音書の中でイエスに「主よ」と呼びかけるのは時々見られるが、地の文章において「主」と書いているのはここだけである。教会においてイエスを「主」とするは復活後である。復活したイエスが「主」である。つまりナインの婦人に「泣くな」と語られたのは復活の主である。
少々乱暴な言い方をするとナインの婦人の物語は教会における事件を反映している。教会は死別によって悲しみの中にある人に対して「泣くな」と語る。それは死者がよみがえるという意味ではなく、あるいは天国でまた会えるという神話的信仰の表明ではなく、死者と生者とを明瞭に区分する「死」という線を越えて、死者と生者とが共に生きる世界、それが教会だという信仰の表明である。だから教会は主の名によって「泣くな」と宣言できる。ヨハネ黙示録はもっと明白に、「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と」(黙 14:13 )と述べている。この言葉が、逝去者記念の式文の中で「世にある人、世を去った人の主なる神よ、あなたは、主にあって死ぬ人は幸いである、と教えられました」(祈祷書402頁)という言葉に受け継がれている。
4.「死の棘」
さて、始めにこのテキストが語る中心的テーマは、「死による離別の悲劇性と回復」であると述べた。死に伴う悲劇とは関係の断絶である。死という一線を挟んで向こう側とこちら側とが明瞭に分離される。ナインの婦人の悲劇は息子との関係の断絶である。これがパウロの言う「死の棘」である。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか」(1コリント15:54-55)。ナインの婦人の物語は「イエスは息子をその母にお返しになった」、という言葉で結ばれている。つまり一旦引き裂かれた関係は回復された。
5.「死者と共に生きる」
さて、私たちは最大の難問の前に立たされている。ナインの婦人に息子をお返しなったとはいったいどういう意味であろう。断絶され死者との関係が回復されるとはどういうことであろう。たとえ、その場で息子がよみがえったとしても、それは一時的なことであり、悲劇の先延ばしに過ぎない。本当の意味での死者との関係の回復とは死者と共に生きるという現実が回復することである。これは難問中の難問、そんなに簡単に分かることではない。
最近、山形孝夫さんが『黒い海の記憶』、副題「いま、死者の語りを聞くこと」という本を岩波書店から出された。この本はキリスト教の宗教学者として、この問題に真剣に向かい合った記録である。この人は確かに死者の声を聞いている。しかも、その死者とは彼自身が8歳の時に自死した母親の声であった。この声をエジプトの砂漠の風の中で聞いたという。その経験は東日本の大災害の中でさらに深められ、個人的経験という枠を越えて普遍的なテーマとされている。この人が言いたいことは、死者、とくに死者の声は無くなってしまっているのではなく、私たちの「記憶の底」に蓄えられており、実は私たちは死者と共に生きているのだということである。いま、私たちが抱えている問題は「死者と共に生きている」というリアリティが現実生活の中で失われてしまっていることである。例えば、家の中に仏壇が無くなってしまっている。毎日、仏壇にご飯をあげたり、話しかけるということが私たちの日常生活から無くなってしまっている。死者を完全に意識の中から消してしまっている。
さて、教会の礼拝、特に聖餐式は生者だけではなく死者も加わっている。聖餐式は、先ず「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿を現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」という言葉で始まり、神を讃える「聖なるかな」の直前で「ゆえにわたしたちは、み使いとみ使いの頭および天の全会衆と共に、主の尊いみ名をあがめ、常に主をたたえて歌います」と言い、司祭は陪餐の直前に「世にある者も世を去った者も、すべての人を一つの体とし、聖霊を満たして下さい」と祈る。聖餐式の中で「聖なる教会の交わり」というとき、そこには生者だけではなく死者も含まれている。教会の交わりにおいては死者と生者とを分ける境界線は取り除かれている。だから、私たちは別離の悲しさに泣く人々に「泣くな」と宣言できる。聖餐式の中で死者の言葉を聞く。今、世にある者も、世を去った後のことを心配しないでいい。
6.「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」
復活のイエスが発した最初の言葉は「婦人よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:15)であった。「泣くな」という言葉は初期の教会の宣教活動にとって非常に重要な言葉であったと思われる。
もう一度ナインの出来事を読み直すと非常に重要なことに気付く。それはこの物語では母親もまた周囲の人たちも、一言も「癒してください」とか「生き返らせてください」という言葉を発していない。また、イエスの方からも「信じなさい」という言葉も発せられていない。イエスは頼まれもしないのに、イエスの方から近づき「泣くな」と宣言し、婦人は何も反応していないのに、勝手に棺に近づき触って、若者を生き返らせている。これはいったいどうしたことだろう。ここでは「信じるならば」とか、イエスに願うという言葉や行為が全くない。つまり「泣くな」という言葉は、それを必要とする、つまり今泣いているすべての人に無償で与えられている。
ルカ福音書におけるいわゆる「山上の垂訓」に対応する説教においてイエスは「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(ルカ6:21)と語られた。イエスは今泣いている人に一方的に近づき「泣くな」と語られる。この福音は全ての人びとに開かれた恵みである。

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