みなさま、
台風のため、宗像地方は暴雨です。風はそれ程強くありません。一刻も早く、台風が日本列島から遠ざかってくれることを祈ります。明後日(6月23日)は弟の娘、文屋ハンナが眞鍋隆行君と結婚式を挙げます。式はホテルで行われますが私が司式を致します。おそらく、これが私にとって最後の結婚式の司式になることだと思います。久しぶりに兄弟3人がそれぞれの女房を連れて、同じホテルに泊まることになります。すこし、興奮しています。
天気予報では台風一過、梅雨の間の晴れとのことですが、さぁ、どうなることでしょう。何しろ、「嵐を呼ぶ姪」のことですから。
2013T09(S)
2013年 聖霊降臨後第7主日(特定9) 2013.7.7
説教 派遣された者として生きる ルカ10:1-12、16-20
はじめに
今日は短く3つの話をする。それぞれ関係があるとも言えるが、基本的には無関係である。それは、私が今、ここで生きている意味を問うものであり、同時にあなたの人生の意味を問うものでもある。
1. 72人の派遣
先ずはじめの話は、今日のテキストについてである。論じ始めると長い長い、専門的な聖書解釈の話になるが、今日は結論だけを話す。ルカ福音書には弟子を派遣するという記事が2つある。「12弟子の派遣」(9:1-6)と「72人の派遣」(10:1-12)で、前者は他の福音書にも見られる(マタイ10:1,5-15,マルコ6:7-13)が、後者はルカ福音書だけの記事であり、今日のテキストは「72人の派遣」の話である。
この72人とは、イエスの弟子と言われるすべての人を意味している。すべての人は世界各地に派遣されてそこで生きている。また、生きてきた。その人たちがイエスの元に帰ってきて、次のように報告したという。
「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
つまり全世界に派遣された弟子たちの報告を一言でまとめると、イエスの名前を使うと、悪魔まで屈服したということである。いったいそれはどういうことか。説明しだすと大変だ。今日は一切の説明を省く。要するに弟子たちは「イエスのみ名」の威力に驚いている。何が何だか分からないが、ともかく「イエスのみ名」と唱えたら偉いことが起こったという。因みに、全世界のキリスト者に共通する一つのことは、お祈りするとき、最後におまじないの様に、「イエスのみ名によって」という言葉を必ず付ける。そして、まぁ、それをまともに信じている人もおれば、ただ形式的に唱えている人もいるだろうが、ともかく「イエスのみ名によって」という言葉を付ける。
2.キリスト者とは「派遣された者」
長い話を端折って、結論をいうと、キリスト者とはこの世界に派遣された者である。派遣という場合に使命の内容が問われなければならないが、それも一言で言うと「イエスが生きたように生きる」という使命である。それではあまりにも素っ気なさすぎるので一寸だけ補うと「イエスのみ名」をあっちこっちにばらまく。イエスのみ名によって病気を治したり、イエスのみ名によって貧しい人々を助けたり、イエスのみ名によって神の愛を語るとか、要するにイエスが生きたように生きようと決断したということであろう。それがキリスト者であり、その団体が教会である。
そう決断して、間もなく、それを実行するときが来た。それが使徒言行録の第3章の出来事である。
教会という共同体が生まれて間もなく、ペトロとヨハネがエルサレムの神殿にお参りに出かけた。その頃、キリスト者も普通のユダヤ人たちと同じように日毎に神殿にお参りに行っていたらしい。「美しい門」と呼ばれていた所に来ると、そこに「生まれながら足の不自由な男」が座っていて物乞いをしていた。彼はペトロとヨハネに施しを乞うた。ここで面白いのは二人はこの男をジッと見たという。すると男の方も2人を見つめたという。この男は幼いときから神殿の門前で物乞いをしていたのであろう。かなり有名だったという。いわばベテランの物乞いだ。毎日目の前を歩く人々の足を眺めて過ごしてきた。だから足元を見るだけで、その人物がどういう人物かすぐに見破ることができたであろう。その男が2人を見つめ、2人もこの男を見つめた。この男は物を「貰う」という立場で2人を見つめ、2人は何かを「与える者」として、この男を見つめている。常識的には彼らの間には上下関係がある。上から与える立場、下から受ける立場。そこでペトロは言う「私たちには金も、銀もない」。この言葉によって何がもたらされたのか。実は両者の間の上下関係が崩れ同じ立場に立ったということである。少なくとも、この世の諸関係においては、あなたも私たちも同じレベルにいる。それなら彼らの間にはそれ以上関わる必要なないし、黙って通り過ぎればいい。
ところがペトロとヨハネはこの世に派遣された人間である。派遣された人間としてそこに座っている男の前に立っている。派遣された人間とそこに、つまりこの世に座っている人間、それは与えるべきものを持つ人間と与えられることを待つ人間である。ペトロは言う。「私が持っているものをあげよう」。ペトロは何を持っているというのか。今、この男が欲しいと言っている金と銀はないと言ったところである。確かに金銀は我になし、であるが「持っているものをあげよう」という。男は首を傾げならが次の言葉を待つ。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」。この男に「イエス・キリストの名」がどれだけの値打ちがあると言うんだろう。それなら最小の硬貨、現代の日本なら1円硬貨の方がよほど値打ちがあるというものだ。ところがペトロが彼の手を取って立ち上がらせると、立ち上がった。足やくるぶしがしっかりしてきて、踊り上がって立ち、歩き出した。そんな奇跡は信じられないと言いますか。その奇跡は信じなくてもいい。ただ、イエスのみ名によって、今までの「与える者」と「受けるだけの者」とが同じレベルに立ったということは信じるに値する。この出来事はその後にいろいろと展開する。使徒言行録によると、その男はペトロとヨハネに「付きまとっている」と表現しているが、これは正しくは「ペトロとヨハネを掴んでいる」という意味で、引っ付いていて離れようとしない状況を示している。つまり、関係の一体化、同じ仲間になったということを意味しているのであろう。今までは与える者と受ける者であったが、今や彼も与える者なったということであろう。これにはペトロもヨハネも驚いたことだろう。「イエスのみ名」の威力に驚いた。今までは、この世界において受けるだけの人間、人々から同情され憐れまれて与えられるだけの人間が、与える側の人間になったという奇跡である。
3.人生の楽園
最後に取り上げる話題は、テレビ番組である。私は1週間のテレビ番組で外出していない限りほとんど毎週土曜日午後6時から「人生の楽園」を見る。番組の冒頭で、いきなり西田敏行さんの特徴ある声が聞こえてくる。「今週は何かいいことありましたか。私ね、思うんですよ。人生には楽園が必要だってね」。それに続いて、テーマ曲に乗って菊池桃子さんの優しい声でその日の内容が紹介される。
この番組のテーマは、「人生には楽園が必要だ」ということで、それまで、むしゃらに働いて来た人たちが、ふと立ち止まって、自分の人生を振り返り、それまでとは全く異なる人生を歩き始めるという内容である。主人公、だいたいは夫婦者が多いが、今までの生活の場から離れて、山や海辺の村など、全く新しい場所に移って、そこに既に住むんでいる人たちの協力を得ながら、「自分の楽園」を築く。
この番組を非常に面白ものにしているのは、そこで築かれる「自分の楽園」は自分たちだけの楽園で終わらないということである。ほとんど場合、まぁ、そういうケースが取り上げられているという訳でしょうが、その「自分の楽園」は新しい地の人たちや、それまでの生活の中で関わった人たちにとっても「楽園」になっているということである。つまり「人生の楽園」の秘密は、それを求めて獲得するだけではなく、その人自身がそれを与える者に変えられるということである。「受ける人生」「与えられる人生」から「与える人生」「分かち合う人生」へと変えられる物語である。これがないと、住まいを変えたり、趣味を生かしたり、自分の好きなように生きても、それは「人生の楽園」にはならない。
台風のため、宗像地方は暴雨です。風はそれ程強くありません。一刻も早く、台風が日本列島から遠ざかってくれることを祈ります。明後日(6月23日)は弟の娘、文屋ハンナが眞鍋隆行君と結婚式を挙げます。式はホテルで行われますが私が司式を致します。おそらく、これが私にとって最後の結婚式の司式になることだと思います。久しぶりに兄弟3人がそれぞれの女房を連れて、同じホテルに泊まることになります。すこし、興奮しています。
天気予報では台風一過、梅雨の間の晴れとのことですが、さぁ、どうなることでしょう。何しろ、「嵐を呼ぶ姪」のことですから。
2013T09(S)
2013年 聖霊降臨後第7主日(特定9) 2013.7.7
説教 派遣された者として生きる ルカ10:1-12、16-20
はじめに
今日は短く3つの話をする。それぞれ関係があるとも言えるが、基本的には無関係である。それは、私が今、ここで生きている意味を問うものであり、同時にあなたの人生の意味を問うものでもある。
1. 72人の派遣
先ずはじめの話は、今日のテキストについてである。論じ始めると長い長い、専門的な聖書解釈の話になるが、今日は結論だけを話す。ルカ福音書には弟子を派遣するという記事が2つある。「12弟子の派遣」(9:1-6)と「72人の派遣」(10:1-12)で、前者は他の福音書にも見られる(マタイ10:1,5-15,マルコ6:7-13)が、後者はルカ福音書だけの記事であり、今日のテキストは「72人の派遣」の話である。
この72人とは、イエスの弟子と言われるすべての人を意味している。すべての人は世界各地に派遣されてそこで生きている。また、生きてきた。その人たちがイエスの元に帰ってきて、次のように報告したという。
「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
つまり全世界に派遣された弟子たちの報告を一言でまとめると、イエスの名前を使うと、悪魔まで屈服したということである。いったいそれはどういうことか。説明しだすと大変だ。今日は一切の説明を省く。要するに弟子たちは「イエスのみ名」の威力に驚いている。何が何だか分からないが、ともかく「イエスのみ名」と唱えたら偉いことが起こったという。因みに、全世界のキリスト者に共通する一つのことは、お祈りするとき、最後におまじないの様に、「イエスのみ名によって」という言葉を必ず付ける。そして、まぁ、それをまともに信じている人もおれば、ただ形式的に唱えている人もいるだろうが、ともかく「イエスのみ名によって」という言葉を付ける。
2.キリスト者とは「派遣された者」
長い話を端折って、結論をいうと、キリスト者とはこの世界に派遣された者である。派遣という場合に使命の内容が問われなければならないが、それも一言で言うと「イエスが生きたように生きる」という使命である。それではあまりにも素っ気なさすぎるので一寸だけ補うと「イエスのみ名」をあっちこっちにばらまく。イエスのみ名によって病気を治したり、イエスのみ名によって貧しい人々を助けたり、イエスのみ名によって神の愛を語るとか、要するにイエスが生きたように生きようと決断したということであろう。それがキリスト者であり、その団体が教会である。
そう決断して、間もなく、それを実行するときが来た。それが使徒言行録の第3章の出来事である。
教会という共同体が生まれて間もなく、ペトロとヨハネがエルサレムの神殿にお参りに出かけた。その頃、キリスト者も普通のユダヤ人たちと同じように日毎に神殿にお参りに行っていたらしい。「美しい門」と呼ばれていた所に来ると、そこに「生まれながら足の不自由な男」が座っていて物乞いをしていた。彼はペトロとヨハネに施しを乞うた。ここで面白いのは二人はこの男をジッと見たという。すると男の方も2人を見つめたという。この男は幼いときから神殿の門前で物乞いをしていたのであろう。かなり有名だったという。いわばベテランの物乞いだ。毎日目の前を歩く人々の足を眺めて過ごしてきた。だから足元を見るだけで、その人物がどういう人物かすぐに見破ることができたであろう。その男が2人を見つめ、2人もこの男を見つめた。この男は物を「貰う」という立場で2人を見つめ、2人は何かを「与える者」として、この男を見つめている。常識的には彼らの間には上下関係がある。上から与える立場、下から受ける立場。そこでペトロは言う「私たちには金も、銀もない」。この言葉によって何がもたらされたのか。実は両者の間の上下関係が崩れ同じ立場に立ったということである。少なくとも、この世の諸関係においては、あなたも私たちも同じレベルにいる。それなら彼らの間にはそれ以上関わる必要なないし、黙って通り過ぎればいい。
ところがペトロとヨハネはこの世に派遣された人間である。派遣された人間としてそこに座っている男の前に立っている。派遣された人間とそこに、つまりこの世に座っている人間、それは与えるべきものを持つ人間と与えられることを待つ人間である。ペトロは言う。「私が持っているものをあげよう」。ペトロは何を持っているというのか。今、この男が欲しいと言っている金と銀はないと言ったところである。確かに金銀は我になし、であるが「持っているものをあげよう」という。男は首を傾げならが次の言葉を待つ。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がりなさい」。この男に「イエス・キリストの名」がどれだけの値打ちがあると言うんだろう。それなら最小の硬貨、現代の日本なら1円硬貨の方がよほど値打ちがあるというものだ。ところがペトロが彼の手を取って立ち上がらせると、立ち上がった。足やくるぶしがしっかりしてきて、踊り上がって立ち、歩き出した。そんな奇跡は信じられないと言いますか。その奇跡は信じなくてもいい。ただ、イエスのみ名によって、今までの「与える者」と「受けるだけの者」とが同じレベルに立ったということは信じるに値する。この出来事はその後にいろいろと展開する。使徒言行録によると、その男はペトロとヨハネに「付きまとっている」と表現しているが、これは正しくは「ペトロとヨハネを掴んでいる」という意味で、引っ付いていて離れようとしない状況を示している。つまり、関係の一体化、同じ仲間になったということを意味しているのであろう。今までは与える者と受ける者であったが、今や彼も与える者なったということであろう。これにはペトロもヨハネも驚いたことだろう。「イエスのみ名」の威力に驚いた。今までは、この世界において受けるだけの人間、人々から同情され憐れまれて与えられるだけの人間が、与える側の人間になったという奇跡である。
3.人生の楽園
最後に取り上げる話題は、テレビ番組である。私は1週間のテレビ番組で外出していない限りほとんど毎週土曜日午後6時から「人生の楽園」を見る。番組の冒頭で、いきなり西田敏行さんの特徴ある声が聞こえてくる。「今週は何かいいことありましたか。私ね、思うんですよ。人生には楽園が必要だってね」。それに続いて、テーマ曲に乗って菊池桃子さんの優しい声でその日の内容が紹介される。
この番組のテーマは、「人生には楽園が必要だ」ということで、それまで、むしゃらに働いて来た人たちが、ふと立ち止まって、自分の人生を振り返り、それまでとは全く異なる人生を歩き始めるという内容である。主人公、だいたいは夫婦者が多いが、今までの生活の場から離れて、山や海辺の村など、全く新しい場所に移って、そこに既に住むんでいる人たちの協力を得ながら、「自分の楽園」を築く。
この番組を非常に面白ものにしているのは、そこで築かれる「自分の楽園」は自分たちだけの楽園で終わらないということである。ほとんど場合、まぁ、そういうケースが取り上げられているという訳でしょうが、その「自分の楽園」は新しい地の人たちや、それまでの生活の中で関わった人たちにとっても「楽園」になっているということである。つまり「人生の楽園」の秘密は、それを求めて獲得するだけではなく、その人自身がそれを与える者に変えられるということである。「受ける人生」「与えられる人生」から「与える人生」「分かち合う人生」へと変えられる物語である。これがないと、住まいを変えたり、趣味を生かしたり、自分の好きなように生きても、それは「人生の楽園」にはならない。