父はまじめで頑張り屋である。父の兄弟は異母兄弟を含めると12人。呉服商の三男である。柏の役場に務める公務員だったが、スポーツ好きが高じて、柏駅前裏通りの猫の額のような土地を譲り受け、運動具店を始めた。それが私が生まれた1947年だと聞いている。
4年に1度のオリンピックのとき、深夜まで雑音の入るラジオに聞き耳を立てて、日本人選手の成績に一喜一憂していた。翌早朝、必ず店頭に日本選手の競技結果を張り出していた。父は趣味も多彩で、店の前に本体の店そのものよりも大きく藤棚を張り出して、毎年5月にはそれが紫色に染まった。
私が小学生の頃は、頻繁に問屋に連れて行かれ、商品の仕入れを手伝わされた。父は問屋の意向を無視して、売れそうな(言いかえると、自分の客が喜びそうな)商品だけを問屋の棚の手前からでも奥からでも引っ張り出す。野球場やキャンプ地などで、当時の問屋のスタッフと遭遇することがある。そのうちの何人もが「谷沢さんのお父さんの注文には、いや~参りました」と笑って話してくれた。
だから、浅草橋や御徒町、上野の問屋街は懐かしい。商品の納入の際、私もオートバイの後部座席に乗せられて各学校を廻ったものだ。野球用品が良く売れる時代が到来すると、ユニフォームのロゴマークのデザインも引き受けて、母と共に一晩中ミシンの音が鳴り止まなかった。無駄のない効率の良い経営は父の性格も反映していたのだろう。
父の一人暮らしは心配でもあったが、父の意志を尊重し、私の妹・恵美子も柏に住んでいるので任せていた。父は自分で食事を作るし、体調が少しでも悪いときは、長年診てもらっている岡田病院に行っていた。岡田病院は地元で長く開業している評判の医院で、かつては故・岡田敏夫先生が谷沢健一後援会の副会長をしてくださった。会長の歯科医の故・榎本赳夫先生と並んで大の野球好きで、地元の応援者を大勢集めて激励してくださった。
6月29日、父はその岡田病院に入院した。5月頃から左足が痺(しび)れると言っては薬を服用していたが、徐々に食欲が減退して、食も細り、身体は痩せ細って消耗していった。懇意でお気に入りの病院といえ個人病院だから、私の妹二人が交代で泊り込んで看病していた。そして、完全看護の病院の受け入れ態勢が整うのを待った。
危篤状態で瞳孔が開いたのが二度、その度に処置が敏速適切で、最悪の危機を回避した。そして、8月8日午前10時、点滴器具を装備したまま、救急車で大病院への移送できた。
私の心の中に様々な思い出が蘇り、様々な想いが去来する日々が続いている。たとえ「車椅子生活」を余儀なくされるとしても、頑固な表情で私を凝視する父に1日も早く戻ってほしいと、切に祈っている。
4年に1度のオリンピックのとき、深夜まで雑音の入るラジオに聞き耳を立てて、日本人選手の成績に一喜一憂していた。翌早朝、必ず店頭に日本選手の競技結果を張り出していた。父は趣味も多彩で、店の前に本体の店そのものよりも大きく藤棚を張り出して、毎年5月にはそれが紫色に染まった。
私が小学生の頃は、頻繁に問屋に連れて行かれ、商品の仕入れを手伝わされた。父は問屋の意向を無視して、売れそうな(言いかえると、自分の客が喜びそうな)商品だけを問屋の棚の手前からでも奥からでも引っ張り出す。野球場やキャンプ地などで、当時の問屋のスタッフと遭遇することがある。そのうちの何人もが「谷沢さんのお父さんの注文には、いや~参りました」と笑って話してくれた。
だから、浅草橋や御徒町、上野の問屋街は懐かしい。商品の納入の際、私もオートバイの後部座席に乗せられて各学校を廻ったものだ。野球用品が良く売れる時代が到来すると、ユニフォームのロゴマークのデザインも引き受けて、母と共に一晩中ミシンの音が鳴り止まなかった。無駄のない効率の良い経営は父の性格も反映していたのだろう。
父の一人暮らしは心配でもあったが、父の意志を尊重し、私の妹・恵美子も柏に住んでいるので任せていた。父は自分で食事を作るし、体調が少しでも悪いときは、長年診てもらっている岡田病院に行っていた。岡田病院は地元で長く開業している評判の医院で、かつては故・岡田敏夫先生が谷沢健一後援会の副会長をしてくださった。会長の歯科医の故・榎本赳夫先生と並んで大の野球好きで、地元の応援者を大勢集めて激励してくださった。
6月29日、父はその岡田病院に入院した。5月頃から左足が痺(しび)れると言っては薬を服用していたが、徐々に食欲が減退して、食も細り、身体は痩せ細って消耗していった。懇意でお気に入りの病院といえ個人病院だから、私の妹二人が交代で泊り込んで看病していた。そして、完全看護の病院の受け入れ態勢が整うのを待った。
危篤状態で瞳孔が開いたのが二度、その度に処置が敏速適切で、最悪の危機を回避した。そして、8月8日午前10時、点滴器具を装備したまま、救急車で大病院への移送できた。
私の心の中に様々な思い出が蘇り、様々な想いが去来する日々が続いている。たとえ「車椅子生活」を余儀なくされるとしても、頑固な表情で私を凝視する父に1日も早く戻ってほしいと、切に祈っている。