谷沢健一のニューアマチュアリズム

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群馬遠征(その2)

2007-05-08 | YBC前進
 グランドに到着すると、既にオール高崎対新潟コンマーシャルの試合が行われていた。
 センター後方の山並みは北関東の平野を支えているように目に映った。三木氏がやや沈んだ声で言う「谷沢さん、あの方向が御巣鷹山ですよ。私の高校時代でした。このグランドにヘリの基地もできましてね。遺体の運搬もこの目で見ました」すごい惨状だったそうだ。22年前のJAL123便の墜落事故である。犠牲者520人のうち、五体揃っていた遺体は約200人にすぎなかったというのだから・・・私は自然と手を合わせずにはおれなかった。(YBCにもJALの関係者は複数いる)
 オール高崎野球倶楽部の前身は企業チーム(高崎鉄道管理局)で、当時はグランドも完備されていたそうだ。しかし、今はそれにはほど遠いという。それでも、廃校になった藤岡高校(三木副部長の母校)の教室棟は寂静としていたが、グランドにはチームの熱い思いが随所に込められていた。やはりホームグランドである。
 例えば、ネット裏には葦簀(よしず)屋根で日除けをした観客席や(試合途中に突風で葦簀がめくり上がったりしたが)藤岡寮と呼べそうな合宿可能な施設も活用されていた。グランド施設が県から市へ移管された時に、オール高崎チームの優先使用が認められ、管理も任されているようだ。(行政当局の理解度と実行力の高さが羨ましい)
 宿泊は三木氏が車で先導してくれて、30分程行った「甘楽町ふるさと館」の国民宿舎(東京都北区との提携施設)。森の中にテニスコートやゴルフ場や軟式野球場が広がり、ツツジの花壇や新緑が疲れを癒してくれた。フロントの方々にも懇切に対応していただいた(私は3日の試合後に藤岡から東京お台場に行き、TVの仕事を終えて、深夜2時に再び宿舎に戻ったのだが、特別のご好意で鍵を開けていただいたのである)。
 試合は1勝1敗だった。まだまだ未熟さが露呈されているが、昨年以上に多く実施してきた遠征や試合によって、今月18日から始まる公式戦へ向けて、選手たちに一体感と団結力が培われてきたのが感じられた。

群馬遠征(その1)

2007-05-08 | YBC前進
 ゴールデンウイークの5月3日と4日、群馬藤岡に遠征した。
 4月上旬にオール高崎の三木(みつぎ)副部長に打診したところ、2試合を組んでいただけた。わざわざ新潟コンマーシャルを招いてくださったのは嬉しかった。
 遠征の細かい作業は、上村コーチ兼主務に任せた。そのつど報告があったが、三木氏との計画立案はスムーズに行われた。最大の難問は約30名のスタッフ・選手の交通手段である。なにしろ連休中なので、バスによる移動は大渋滞に巻き込まれないかという懸念があった。
 この杞憂はすぐに解決した。それは私が遠征を思いついた時に、すぐに加藤副部長がカミ村(YBCには「上村」がウエ村とカミ村がいる。で、このブログでは申し訳ないがコーチは上村、選手はカミ村と書き分けている)選手に連絡して、「2日間、YBCのために奉仕できないか」と依頼していた。
 カミ村君はYBC創設パーティの際、「背番号決定戦」で53番をGETできなかった。赤星選手のファンだったが、川崎選手(ソフトバンク)の52番でガマンすることになった経緯もある。俊足の選手である。彼は、長距離トラックのドライバーで、10年以上の運転歴を誇っている。全国を駆け巡る長時間勤務の合間を縫って、走力を維持している。
 そのカミ村君が大活躍してくれた。試合に代走で出場しただけでなく、小型バスと荷物車を格安で確保してくれた。勿論、往復の運転も務めてくれた。柏駅前をスタートして、高速道路を避け、いわゆる下道(したみち=一般道)だけを走破して、悠々と予定時間よりも早く群馬県藤岡市に到着してしまった。これには、ハンドル捌(さば)きに自信のあるマイカー族の選手の面々も驚嘆の声をあげていた。