グランドに到着すると、既にオール高崎対新潟コンマーシャルの試合が行われていた。
センター後方の山並みは北関東の平野を支えているように目に映った。三木氏がやや沈んだ声で言う「谷沢さん、あの方向が御巣鷹山ですよ。私の高校時代でした。このグランドにヘリの基地もできましてね。遺体の運搬もこの目で見ました」すごい惨状だったそうだ。22年前のJAL123便の墜落事故である。犠牲者520人のうち、五体揃っていた遺体は約200人にすぎなかったというのだから・・・私は自然と手を合わせずにはおれなかった。(YBCにもJALの関係者は複数いる)
オール高崎野球倶楽部の前身は企業チーム(高崎鉄道管理局)で、当時はグランドも完備されていたそうだ。しかし、今はそれにはほど遠いという。それでも、廃校になった藤岡高校(三木副部長の母校)の教室棟は寂静としていたが、グランドにはチームの熱い思いが随所に込められていた。やはりホームグランドである。
例えば、ネット裏には葦簀(よしず)屋根で日除けをした観客席や(試合途中に突風で葦簀がめくり上がったりしたが)藤岡寮と呼べそうな合宿可能な施設も活用されていた。グランド施設が県から市へ移管された時に、オール高崎チームの優先使用が認められ、管理も任されているようだ。(行政当局の理解度と実行力の高さが羨ましい)
宿泊は三木氏が車で先導してくれて、30分程行った「甘楽町ふるさと館」の国民宿舎(東京都北区との提携施設)。森の中にテニスコートやゴルフ場や軟式野球場が広がり、ツツジの花壇や新緑が疲れを癒してくれた。フロントの方々にも懇切に対応していただいた(私は3日の試合後に藤岡から東京お台場に行き、TVの仕事を終えて、深夜2時に再び宿舎に戻ったのだが、特別のご好意で鍵を開けていただいたのである)。
試合は1勝1敗だった。まだまだ未熟さが露呈されているが、昨年以上に多く実施してきた遠征や試合によって、今月18日から始まる公式戦へ向けて、選手たちに一体感と団結力が培われてきたのが感じられた。
センター後方の山並みは北関東の平野を支えているように目に映った。三木氏がやや沈んだ声で言う「谷沢さん、あの方向が御巣鷹山ですよ。私の高校時代でした。このグランドにヘリの基地もできましてね。遺体の運搬もこの目で見ました」すごい惨状だったそうだ。22年前のJAL123便の墜落事故である。犠牲者520人のうち、五体揃っていた遺体は約200人にすぎなかったというのだから・・・私は自然と手を合わせずにはおれなかった。(YBCにもJALの関係者は複数いる)
オール高崎野球倶楽部の前身は企業チーム(高崎鉄道管理局)で、当時はグランドも完備されていたそうだ。しかし、今はそれにはほど遠いという。それでも、廃校になった藤岡高校(三木副部長の母校)の教室棟は寂静としていたが、グランドにはチームの熱い思いが随所に込められていた。やはりホームグランドである。
例えば、ネット裏には葦簀(よしず)屋根で日除けをした観客席や(試合途中に突風で葦簀がめくり上がったりしたが)藤岡寮と呼べそうな合宿可能な施設も活用されていた。グランド施設が県から市へ移管された時に、オール高崎チームの優先使用が認められ、管理も任されているようだ。(行政当局の理解度と実行力の高さが羨ましい)
宿泊は三木氏が車で先導してくれて、30分程行った「甘楽町ふるさと館」の国民宿舎(東京都北区との提携施設)。森の中にテニスコートやゴルフ場や軟式野球場が広がり、ツツジの花壇や新緑が疲れを癒してくれた。フロントの方々にも懇切に対応していただいた(私は3日の試合後に藤岡から東京お台場に行き、TVの仕事を終えて、深夜2時に再び宿舎に戻ったのだが、特別のご好意で鍵を開けていただいたのである)。
試合は1勝1敗だった。まだまだ未熟さが露呈されているが、昨年以上に多く実施してきた遠征や試合によって、今月18日から始まる公式戦へ向けて、選手たちに一体感と団結力が培われてきたのが感じられた。