『大いなる幻影』(ジャン・ルノワール監督、1937年)をまた観る。
時は、第一次世界大戦のさなか。
フランスのマレシャル中尉とボアルデュー大尉が乗る敵情偵察の飛行機は、ドイツ軍に撃ち落とされてしまう。
ドイツ貴族である隊長のラウフェンシュタイン大尉は、敬意を表して捕虜になった将校の二人を丁重に扱い、食事に招く。
捕虜のマレシャルとボアルデューの収容所先には、裕福なユダヤ人で、いろいろな慰問物資が送られてくるロザンタール中尉のような人物もいる。
そして、捕虜仲間たちの部屋では、トンネルを掘って脱走する計画が着々と進められていた。
しかし皮肉なことに、トンネルが成功する間際になって、彼らはスイス国境に近い古城の収容所に移転されてしまう。
その収容所でマレシャルたちを迎えた所長は、偶然にも、負傷痕跡の残るラウフェンシュタイン大尉だった・・・
ジャン・ルノワールの代表作と言えば、当然この作品だとなる周知の映画。
ドイツ軍のラウフェンシュタイン大尉の、フランス軍のボアルデュー大尉への貴族同士としての対応。
第一次世界大戦の時代が、まだ、悲惨などん底に陥っていなかった状況なのか、それともルノワールの思い描く世界感なのかはよくわからないが、
敵対する相手に一目置く紳士的な態度が目にひく。
だから、マレシャルとロザンタールを脱獄させるために、ボアルデューが囮になり犠牲となる場面の、相手方ラウフェンシュタインに銃を引かせる瞬間が痛々しい。
この映画で疑問に思うのは、前半のトンネル堀りの意義はこの作品自体にどのような意味があるのかと、ふと思うこと。
しかし後半の、マレシャルとロザンタールが、ドイツ軍から逃げおおせるために疲労困憊しながらスイスに向かう場面になると、俄然目が離せなくなる。
人里離れた、わびしげな山の一軒家。
そこの、子持ちで戦争未亡人のエルザに見つかるマレシャルとロザンタールのふたり。
つかの間の、この生活の侘しさにいたたまれないエルザと恋に落ちるマレシャル。
しかし、ふたりは敵対する国籍の人間である。
そのことを十分に分りあっている二人。
この作品の戦争状況は、今からすればまだ紳士的であったとしても、人間はなぜ戦争をするのかということ。
その無意味な愚かな行為から、何を学ぼうとしているかということ。
ジャン・ルノワールは、悲惨な戦闘行為を描かずに静かに反戦を訴える。
そして我々は、マレシャルとエルザが、近い将来に再び会えて、生の喜びを分かち合える日を祈りたい。
そのように思う、感動の作品である。
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