やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【中学歴史教科書8社を比べる】212 ⒅ 日朝関係(戦後)の描き方 31 <ⅵ 現在の課題3/3:在日朝鮮人 まとめと考察-2->

2017年06月15日 | 中学歴史教科書8社を比べる(h28-令和2年度使用)

【調査1】終戦の在日朝鮮人の滞在理由はなにか?

 

教育出版のみ言及・・・①生活苦のために日本に移住 ②朝鮮内で制限されていた高等教育を受けるため ③戦時中の動員

 

ウィキペディアによる調査結果

ⅰ 「朝鮮南部は人口密度が高い上に李氏朝鮮時代から生活水準が低かったため、生活水準の高い日本内地を目指した。」

ⅱ 「日本における資本主義の発展によって、第一次世界大戦による好況下、労働力需要が高まったこと、人件費の高騰を抑え、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本への移住を促進した。」

ⅲ 上記日本滞在者が家族を呼び寄せて定住した。

ⅳ 「労務動員」 
 ※1939~1944年 / 約70万人が渡日 /強制的

ⅴ 「国民徴用令による徴用」=「軍務動員」 
 ※1944年9月 ~翌年の8月(終戦)までのほぼ1年間 / 約24万~36万人が渡日 / 強制(徴兵と同じ)

 

考察

・教育出版の①はⅰ~ⅲに該当、③はⅳ・ⅴに該当する。

・②の「朝鮮内で制限されていた」について

 この表現では「制限」の内容(意味)がまったく分からない。しかも、「制限」という単語は「自由」の反対の意味であり、マイナスイメージが付着しているため、中学生が誤解する可能生がとても高い。

 例えば、《朝鮮には併合前に大学(=高等教育の学校)があった(←誤解。大学は、日本が併合後に1校作っただけ)。しかし、国内の大学への進学を制限されたために、日本本土の大学に行かねばならなかった。》というような誤解。

※誤解をさけるためには、ただ「高等教育を受けるため」と書けばいい。
 なぜ、わざわざ理解できない(”専門家にしか分からない細かな事情”があるのかもしれないが…)「朝鮮内で制限されていた」をくっつけたのだろう???

 

■評価 「戦前の滞在理由」の描き方 →全社〇 

 ※項目は「現在の課題」なので無記でも可だろう。 教育出版の上記②は微妙だが…

 

~参考資料 1/2~

<ウィキペディア:在日韓国・朝鮮人>より

・「韓国併合(1910:明治43年)以前の在日韓国・朝鮮人」=「在留者数」 

1908年

明治41年

459

1909年

明治42年

790

1910年

明治43年

不明

1911年

明治44年

2527

1912年

大正元年

3171

 ・「韓国併合(日韓併合)以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめ、留学生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた。

 韓国併合以降はその数が急増した。内務省警保局統計は、1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている。一方、「大正9年(1920年)および昭和5年(1930年)の国勢調査(民籍別)」を記載した1938年(昭和13年)発行の年鑑 によれば朝鮮人の民籍は、大正9年(1920年)で40,755人、昭和5年(1930年)で419,009人との記載がある。したがって、この十年で人口増は378,254人ということになる。

 日本政府は日本人が兵役についたために労働力が不足した戦時の数年間を除き、戦前戦後を通じて日本内地への渡航制限などにより朝鮮人の移入抑制策を取ったが、移入を止めることは出来なかった。」

 

・「戦前の在日韓国・朝鮮人移入の背景

 朝鮮人が日本に移入した要因として、以下の社会的変化が挙げられる。

  • 朝鮮南部は人口密度が高い上に李氏朝鮮時代から生活水準が低かったため、生活水準の高い日本内地を目指した。 
    • 朝鮮内における朝鮮人の賃金は、日本における朝鮮人の賃金の約5割から7割に過ぎず、しかも、日本は、朝鮮よりもはるかに雇用機会が高かったため、朝鮮人は日本に渡った。
    • 朝鮮人の賃金よりもさらに低賃金の中国人が1882年以降朝鮮に移民し、次第に朝鮮人と競合するようになり、朝鮮における朝鮮人の失業をもたらした。」
    • ~中略~

 ・日本における資本主義の発展によって、第一次世界大戦による好況下、労働力需要が高まったこと、人件費の高騰を抑え、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本への移住を促進した

 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均1.3%の人口増加率を記録し、世界的に見て高い人口増加率が記録されている。

 特に紡績業界は、1891年を最初として、1915年以降は頻繁に、朝鮮人労働者公募を行った。
紡績業界は、低賃金・長時間労働を強いられる下層労働市場であったが、朝鮮人はこのような日本人に卑賎なる稼業として忌避された仕事であっても、日本人より低廉なる賃金と低級なる生活状態のもと、粗衣・粗食に耐えながら、之を忌避せず、厭わず、黙々と従事した為、このような稼業の労働力として必要とされるようになったとも言われる。
一般の日本人に忌避された仕事は、元々、日本の被差別民や社会的マイノリティの仕事であった為、朝鮮人労働者は、それらよりも低廉な労働力として、競合する形で入り込み、その居住地も当初、被差別の中にあった。

  このような貧しくて日本に流れてきた朝鮮人がいる一方で、朝鮮において「京城紡織株式会社」のように戦後まで続く大手の紡績会社を経営して成功した朝鮮人もおり、このような姿は資本主義の萌芽が日韓併合時に朝鮮で生まれたものであるとする研究者もいる。

 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均3.7%の経済成長率を記録し、世界恐慌下にあった海外とは異なり高度成長を遂げている。

 日本政府は、第一次世界大戦終了後、朝鮮人流入に起因する失業率上昇 や、日本内地の犯罪増加に悩まされており、朝鮮人の日本内地への流入を抑制する目的で満洲や朝鮮半島の開発に力を入れた。

 

 朝鮮人労働者の日本への移入は日中戦争および太平洋戦争の勃発により増加の一途をたどった。
 併合当初に移入した朝鮮人は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で、単身者が多くを占める出稼ぎの形態をとっていたが、次第に家族を呼び寄せたり家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住もしくは半永住を志向する人々が増えた。

 1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとする報告もある。

 その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった。このうちの多くが第二次世界大戦終戦前の10年間に渡航したと考えられている 

  • 1934年10月 岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化。
  • 1939年9月 朝鮮総督府の事実上の公認のもと、民間業者による集団的な募集の開始
  • 1942年3月 朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集の開始(細かな地域ごとに人数を割り当て)
  • 19449 日本政府が国民徴用令による徴用

 

 この時期は兵役により減少した日本での労働力を補うため、朝鮮半島からの民間雇用の自由化(1939年)、官斡旋による労務募集(1942年)により在日朝鮮人が急増したが、1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど多くは無かった。

 1974年法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941年 - 1944年の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった。官斡旋等による朝鮮半島での労務募集の実態や日本国内での朝鮮人労働者の待遇・生活については、その人数や規模などを含めて、現在も議論が続いている。また、日本国内での労働に従事した朝鮮人の中には、「タコ部屋労働」のような、自由を奪われた状況に置かれた者も多数あった。」

 

・「日本内地への移入・密航

 朝鮮人の移入は戦前から行われるとともに、多くの密航が行われており、密航者や密航組織の摘発が頻繁に行われていた。1919年4月には朝鮮総督府警務総監令第三号「朝鮮人旅行取締ニ関スル件」により日本への移民が制限されるも、形骸化する。1925年10月にも渡航制限を実施したが、1928年には移民数がさらに増加している。1934年10月に岡田内閣は、朝鮮人の移入によって治安や失業率が悪化したため、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発を行うとともに密航の取り締まりを強化するための「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定した。

 

~次回、【調査1】2/2~ 

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