フフフ
本当に久々の投稿で(笑)
急ぎスマホから作成送信!
で中身は
先日、久々のご無沙汰ツーリングで
全くもって
オフを走らず(笑)
東海道R1を西へ走り
愛知県の岡崎市〜名古屋市の中間付近に現存する
織田信長VS今川義元
戦国乱世を切り裂く天下分け目の一騎討ち!
「桶狭間の戦い」
桶狭間古戦場跡公園に行ってみた!
ここは、約400〜500年前の遥か御先祖様方々の時代、
当時、織田信長27歳と今川義元42歳が率いる日本最強の軍団両軍が雌雄を決した伝説の土地だ。
公園のど真ん中にある地元有志の方々の御尽力による渾身の両雄銅像の裏側にある石刻
これだけでも当時の迫力を感じるぜ!
してここから先は御霊前的に何かある方や
最近流行りの(笑)ゆ△り教育とやら何やらに魂込めてる方々は「例=我が子がぁあ〜!何て日頃叫んでる方々対象」
それなりの御覚悟下さい(笑)
まぁ本物の古戦場跡ゆえ閲覧注意をお勧め致す
↓公園の東側にある今川義元首洗いの泉
↓今川義元最期の地「ここでついに打首か!?」
そして何の因果かすぐその側で今川義元が戦前に馬を繋ぎこの地の湧き水を飲んだという場所
「馬繋ぎの木」
このネズの枯木は触ると熱病にかかるという伝承が書いてある
これは何か有名な詩人の方がこの地に刻んだ石刻かな?
こ、これは!?
今川義元軍の重臣(因みにこの時の今川軍先鋒はあの徳川家康らしい)、松井左衛門宗信の血統直系の「松井石根」陸軍大将が占領軍の成功を祈り当時この地に訪れた石刻なのか?
昭和8年あたりは丁度、
満州事変ぐらいの頃か?
「戦わずして平安無し」の人類社会普遍の原理は今だ尚も形を変えてでも息づいている気がする、、
現代社会はこういった軍神の方々の幾多の礎の上に成り立っている事を永久に忘れてはならないと
やっぱり本物を間近に見ると切実に思わざるをえない!
ん?何だコリャ?
この公園に少しばかり癒しを与えてくれたこの面白い木(笑)
地元の方々の御厚意を感じる!
この公園はそんなに大きくないが、
こういう風に当時の合戦様子をジオラマ化して大変分かりやすく
当時の情景が思い浮かぶ様に整備されて大変美しい公園であった!
して入り口看板に付近の各名所の案内有り!
折角なので今回はここからバイクですぐの所にある「長福寺」にも行ってみた!
どうやらここ長福寺は合戦当時
今川義元の茶坊主が今川軍敗北の後、織田軍に捕らえられ
数々の武将の首を検証させられたらしい
非常に感慨深いお寺だ!
して鳥居をくぐり直ぐの所に何と!?
その検証場所が!
もう早くもまじガチ過ぎるぜ!
してまたこの直ぐ横にはガチのガチ場が!
周りは普通の住宅地に心底ガチ過ぎる!
寺の1番奥は墓地になってるみたいで
その入り口横に
桶狭間の地名由来の場所があった!
どうやら桶狭間は豊富な泉により浮かぶ桶がクルクル廻っていたという由来から来てるみたいだ!
お寺本堂は閉まっていたが、こんな掛け書きもあった!
次に織田信長軍の進軍出発点になったと言われる
善照寺砦にも行ってみた!
今は小高い丘の上にある住宅街のど真ん中になってる感じであった
↓モンシェル様タイマー自撮り失敗の図(笑)
その他の幾つかの砦もこんな感じで住宅街に埋もれて目立たない(笑)
砦って雰囲気まるで無し!(笑)
だが本物である事に偽りは無いのである!
織田軍はこういった数々の砦を作りながらジワリジワリと進行して
桶狭間山にて油断している今川義元本陣に対して
一気に奇襲を掛け、その勝利を手中にしたのではないかと感じる!
織田信長自身、若くして既に敵の先手を行く戦術に長けた天才軍師であったのかも知れない!
まあ今回はこんな感じで久々に中身のある良いプチツーリングとなった!
締めに最後一つ、
愛知県の歴史を大きく自分の感覚で感じると
西方はここ桶狭間合戦場から琵琶湖方面にかけて岐阜城〜関ケ原合戦場〜安土城〜彦根城や小谷城!
鈴鹿山系方面は伊賀甲賀や柳生一族の忍びの里があり
北陸方面には加賀百万石が広がり
一方、逆側の東方には岡崎城〜長篠合戦場〜武田信玄の騎馬隊本拠地の山梨県の甲府城やら箱根〜小田原城〜江戸城に続き
考えてみれば真に戦国乱世の激戦区中心地と言っても過言ではない!
桶狭間合戦場公園の両雄像の下に「近世の曙」と石刻してある意味が凄く分かる気がする!
ひょっとすると「愛知県」の名前の由来は
愛知県=愛を知ると書く
してその心は?
「日本の時代を切り開く幾多の戦いにより余りに多くの犠牲が奪われた!
それが故に人々は改めて愛の尊さを知る事に、
そしてやがてこの地にその名を刻んだ!」
はい!モンシェルっちでした!(笑)←早くも古くね?(笑)
たまには近場でも乗ってあげてください。
∠(`・ω・´)