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山形県手をつなぐ育成会 日々徒然なること

育成会の事、関係ないことも勝手につぶやきます

◆知的障がい者レクリエーション大会参加申込み締切り日です!

2013年08月28日 | 障害者スポーツ
今年度は9月25日(水)に山形県総合運動公園で行われる
山形県知的障がい者レクリエーション大会の参加申し込みですが、
本日が締切日となっております。


昨年の大会の様子(準備運動)


今日の午後から、運動公園の担当者との打ち合わせがありますので
午後から事務局が留守になります。

申し込みはFAXかメールでお申込みいただきますようお願いしたします。



今年も皆さまのご協力をいただいて、楽しいレクリエーション大会にしたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします(F)


◆平成25年度地区レクリエーションの集い(県スポーツ協会)

2013年08月22日 | 障害者スポーツ
山形県スポーツ協会さんより「平成25年度地区レクリエーションの集い」開催のお知らせが届きました。

この集いは「山形県障がい者スポーツ大会の一環として、
県内4ブロックで開催することとなったものです。

期 日
村山地区 村山総合体育館 平成25年10月 6日(日)

最上地区 新庄市体育館  平成25年10月26日(土)

庄内地区 酒田市平田海洋B&Gセンター体育館
                  平成25年11月 9日(土)

置賜地区 川西町総合運動公園 平成25年11月16日(土)

時 間
受  付: 9:30
開 会 式:10:00
協議開始:10:30
解  散:12:00

※各4会場とも時間については同じです。

内 容
ラダーゲッター・フライングディスク・卓球・バレー・カローリング
(一部、競技に変更が出る場合がございます)


申込み及び連絡先 
山形県障がい者スポーツ協会  担当:川田 翼
TEL/FAX:023-686-4084 E-mail:y-sinsyokyo@orange.plala.or.jp


以上のようになっております。
詳しい案内は、県内各支部育成会へはメールにて資料を送信しております。
参加希望者がおりましたら、各支部育成会ごとに取りまとめのうえ、
直接、県スポーツ協会へお申込みください(F)

◆山形県知的障がい者レクリエーション大会の準備へ突入・・・他

2013年07月29日 | 障害者スポーツ
いよいよ平成25年度山形県知的障がい者レクリエーション大会の準備に入りました。
今年は、9月25日(水)に例年通り、天童市の「山形県総合運動公園サブグラウンド」
で開催されます。


昨年の玉入れのようす


今年度の開催要項と競技役員、協力員のお願いの書類ができ次第、
お送りさせていただきますのでご協力のほど、よろしくお願いいたします。
今後、例年通り競技役員の実行委員会なども開かれる予定です。

※この大会は知的障がい者が対象のレクリエーション大会となっているために
 手をつなぐ育成会が事務局として、大会の段取りを行いますが、
 実際の主催者は山形県となっております。
 どうぞご理解の上、ご協力をお願いいたします。

        


6月30日に第1回目が行われた「知る見るプログラムファシリテーター養成講座」の
第2回目開催についての案内が届きました。


第1回目講座修了後の記念撮影
みなさんとても良い笑顔です


第2回目は8月18日(日)午前10:00~午後15:00まで
場所は、山形市総合福祉センター3F会議室1
(前回の山形市霞城公民館の隣り)
講師:吉川 かおり氏・羽村 龍氏(今回は奈良崎さんはいらっしゃません)

内容:前回の続きになります。
   ファシリテーターとして冊子の使い方
   なども教えていただくことになると思います。



対象者は、原則として第1回目の講座を受講した人となっております。
対象となっている方が利用している事業所にはメールにて案内をお送り
しているはずですので、ご確認をよろしくお願いいたします。

何かわからないことがありましたら、下記へご連絡ください。

連絡先:山形県知的障害者福祉協会事務局
    山形市美畑町4-31
TEL:023-674-8652
    担当:澁谷・八柳

前回参加した皆さんは、「ちょっと疲れたけど、とても楽しかった
  という感想がとても多かったです。今回もまた楽しく勉強しましょう
  山形県手をつなぐ育成会からは、黒木事務局長と古澤がお手伝いに行きます(F)


2012ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演7回目=最終回

2013年02月03日 | 障害者スポーツ
 ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会(山形国際ホテル6階・平成25年1月27日(日)10時半~12時)を聴いた。
 本講演会の内容の報告である。
 講演タイトル「今を受け入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」その第7回目=最終回

 土田選手(ニックネーム=ワコ)は、高2の時、交通事故で脊髄損傷によって車いす生活になった。

 ワコは、北京パラリンピック(2008年=33歳)の大アクシデントにより大ケガをして選手生命もついえかかった。
 しかし、ここで引退しては後々悔いを残したままで終わってしまうことになる。
 新たな目標を定め、ロンドンパラリンピック(2012年=37歳)に出場したいと思った。
 なんとしても、マラソンで金メダルを取りたかった。
 
 しかし、ロンドンでは思いと違って、結果がついてこなかった。
 マラソン競技はテクニカルなコースに苦労した。
 23キロ地点で競り合っていた相手を避けようとして、転倒してしまった。
 競技役員から棄権しますよねと声をかけられた。
 でも、とっさにやりますと答えた自分があった。
 そして、起き上がったら地鳴りのように沿道からの声援が聞こえてきた。
 その声援の後押しによってゴールすることができた。
 本当に感謝している。
 どうにか2人を抜いて5位入賞することができた。
 走れ切れた安堵感でいっぱいになった。
 目標の金メダルには届かなかったが。

 そして、この気持ちを切らせず、次の目標に向けて始動している。
 競技を極めたいというのが、今の気持ちだ。
 一戦一戦を大事にして、2013年のレースには毎月出場する予定である。
 次は2013年2月の東京マラソン。
 4月にはボストンマラソン、その5日後がロンドンマラソン。
 車いすは体力で勝負するというより、慣性で走る競技である。
 可能な限り走り続けたい。

 しかし、退き際も大事と思っている。
 競技レベルを下げず、世界で戦う体づくりを極めていきたい。

 ワコの好きな言葉で最後をしめくくる。
 「逆境に耐えて咲く花は美しい。」(おわり)
 
 (ケー)

2012ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演6回目

2013年02月02日 | 障害者スポーツ
 ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会(山形国際ホテル6階・平成25年1月27日(日)10時半~12時)を聴いた。
 本講演会の内容の報告である。
 講演タイトル「今を受け入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」その第6回目。

 土田選手(ニックネーム=ワコ)は、高2の時、交通事故で脊髄損傷によって車いす生活になった。

 ワコは、アテネパラリンピック(2004年=29歳)で好成績を上げ、その後結婚し、子どもも授かった。
 本当にうれしいことが続いた。

 次は、北京パラリンピック(2008年=33歳)に向けての挑戦である。

 万全な調整に努力した。
 競技用品も自分に馴染むものを開発した。
 競技用グローブは手型とって自作する。自分の手にしっくりくるものが必需品だ。
 また、競技用車いすの製作にも力を入れてもらった。レーサーと呼ばれる前後輪3輪構成の車いすである。
 幸運なことにメカ製作にかけては世界屈指の技術者が日本にはいる。
 競技用車いすのレーサーは世界中から憧れの的だ。

 そうした万全の体制で臨んだ北京パラリンピックだった。
 金メダルも期待されていた。

 そして、北京での競技初っぱな5000メートルに出場。
 その競技中、大クラッシュに巻きこまれてしまった。
 さらに不運なことに、転倒していた自分の体に後からきた車いすが乗り上げてきたのだ。
 その時、自分の骨がぼきぼき折れるのがわかった。
 もちろん、自分で起き上がることもできなかった。
 4か所骨折である。
 その時は呼吸もできなかった。
 競技場からそのまま病院に運ばれた。
 すぐオペが必要となった。
 ねたまま帰国である。
 マラソンにもエントリーしていたが、出場できなかった。
 北京パラリンピックは悪夢としかいいようがなかった。
 不完全燃焼で、北京大会は終わってしまった。

 そして、2か月間入院。
 それだけでなく、会社より解雇といった現実も突きつけられた。
 主人はコーチ、ワコは選手の身分だったが、その後ろ盾が完全に失うことになった。

 そうした失意のどん底で、次にむけての気持ちが動かない。
 病室の窓からホスピスが見える。
 死に向き合った人たちがいる。昨日まで明るくふるまっていた人が亡くなっていく。
 死を覚悟するとなんでもできるんじゃないかと思ったりする。
 また、主治医から病室の移動が告げられる。
 それが、産科の隣の病室だった。新しい命が誕生するところ。
 そんなことにも勇気づけられ、就活を始めた。
 いろんな人とのコミュニケーションが自分を後押ししてくれた。

 ロンドンパラリンピック(2012年=37歳)に向けて、目標を定める。
 マラソンで金メダルとりたい。
 世界で活躍できる女子選手を増やしたい。

 新たな挑戦を始めた。
 
 (ケー)=次に続く

2012ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演5回目

2013年02月01日 | 障害者スポーツ
 ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会(山形国際ホテル6階・平成25年1月27日(日)10時半~12時)を聴いた。
 本講演会の内容の報告である。
 講演タイトル「今を受け入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」その第5回目。

 土田選手(ニックネーム=ワコ)は、高2の時、交通事故で脊髄損傷によって車いす生活になった。

 ワコは、アテネパラリンピック(2004年=29歳)で、夏・冬パラリンピックの競技種目として、日本人初となる金メダルをとることができた。
 夢に描いていた目標を見事達成した。

 そんな喜びと共に、さらにプライベートでもうれしいできごとがあった。
 一緒に苦楽を共にしてきたコーチとの結婚(2005年)である。
 ワコは、今まで結婚できるとは考えてもいなかった。
 それが身近な人との結婚ということで実現することができた。
 その喜びは、何にも代え難いものであった。

 さらに、子どもが授かる(2006年)という、幸運にも恵まれた。
 ただ、出産となると脊髄障害であれば、ほとんど帝王切開となる。
 ワコはできれば自然分娩で生みたいと思った。
 それを理解してくれる若い産科医にも巡り会うことができた。
 妊娠初期の5ヶ月間は、体を動かさないようにといった指導がなされることが多い。
 妊娠中は糖尿病といった心配も懸念された。
 でも、ワコは水中運動を出産1日前まで続けた。
 産気づいてからも大変だった。生まれるまで8時間を要した。
 最後まで自然分娩にこだわった。赤ちゃんには産道をとおって生まれてきてほしかった。
 分娩室の掛け軸の文字「生きる」に励まされ、元気な赤ちゃんを産むことができた。

 そして、子を育てることの大変さをしみじみ味わってきている。
 子育てにはイレギュラーなことが多い。
 その解決には、保育ママと知り合い、たくさん助けてもらった。
 いい方たちとの出会いがあった。

 さらに、北京パラリンピック(2008年)に向けて、次への挑戦を始めた。
 
 (ケー)=次に続く

2012ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演4回目

2013年01月31日 | 障害者スポーツ
 ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会(山形国際ホテル6階・平成25年1月27日(日)10時半~12時)を聴いた。
 本講演会の内容の報告である。
 講演タイトル「今を受け入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」その第4回目。

 土田選手(ニックネーム=ワコ)は、高2の時、交通事故で脊髄損傷によって車いす生活になった。

 ワコは、リレハンメル冬季パラリンピック(1994年=19歳)アイススレッジ日本代表選手として初出場。惨敗だった。
 しかし、4年後、日本で開催された長野冬季パラリンピック(1998年=23歳)アイススレッジ競技4種目に出場。
 アイススレッジ100メートル 銀メダル
   同    500メートル 銀メダル
        1000メートル 金メダル
        1500メートル 金メダル(世界記録樹立)
長野では輝かしい成績を残すことができた。

 また、転機が訪れた。
 冬季から夏季競技へ転向することになった。
 陸上競技のすばらしい指導者との出会いがあった。
 さらに、陸上競技に打ち込んでいる仲間がいた。
 冬季競技の練習環境が限られていて、東京で続けることの難しさがあった。
 そして、一番の問題は、参加選手も少ないといった理由で、アイススレッジの種目がパラリンピックからなくなった。

 シドニーパラリンピック(2000年=25歳)では、陸上種目に出場することを目標に定めた。
 しかし、陸上は選手層が厚く、標準記録が高い。
 関西には強い選手がいた。
 その人たちに混じって練習をすることになった。仕事を終えて、週末に東京から夜行バスで通い続けた。
 その結果、シドニーパラリンピック(2000年=25歳)マラソンで銅メダルをとった。
 当時、43㎏の体重があり、マラソンが終わると39㎏になった。
 これでは世界で戦えないと思った。
 肉体改造が必要だし、練習環境も改善しないとだめだと感じた。
 橋下聖子氏の経営するスポーツマネジメント会社へ世話になることができた。
 そのお陰で、アテネパラリンピック(2004年=29歳)では、念願の金メダル(陸上競技5000メートル)をとることができた。
 日本人では初めて、夏・冬パラリンピックにおける金メダリストとなることができた。
 アテネではマラソン競技銀メダル。
 マラソンで金メダルが欲しかった。
 今度は、北京パラリンピックに向けての練習が始まった。

 それとともに、プライベートの予期せぬ幸せが訪れた。
 
 (ケー)=次に続く

2012ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演3回目

2013年01月30日 | 障害者スポーツ
 ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会(山形国際ホテル6階・平成25年1月27日(日)10時半~12時)を聴いた。
 本講演会の内容の報告である。
 講演タイトル「今を受け入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」その第3回目。

 土田選手(ニックネーム=ワコ)は、高2の時、交通事故で脊髄損傷によって車いす生活になった。

 ワコは、わずか3か月間のトレーニングで、リレハンメル冬季パラリンピック(1994年)アイススレッジ日本代表選手として出場。
 しかし、思うような結果が出せなかった。他国の選手とは比べようのない力の差を見せつけられた。そこであきらめないのが、ワコである。  
 生来の負けず嫌いがむらむらとわき起こった。
 
 次は、長野冬季パラリンピック(1998年)への挑戦が始まった。
 今までは自己流でやっていた練習だった。
 今度は、国の強化選手として選ばれた。トレーナーが導入され、栄養指導も行われるようになった。強化体制が整えられた。
 海外遠征も行えるようになった。
 本来、氷上でやるアイススレッジを積雪の中、屋外で練習しなくてはならないこともあった。アイススレッジの練習はストックでアイスリンクの氷を割ってしまう。
 アイスリンクを整備する側にとって、スピードスケートなどは傷一つない状態を造る必要がある。アイススレッジとは真逆の対応である。そうしたことで、アイスリンクを利用するにしても遠慮しがちな練習とならざるを得なかった。
 ノルウェーにも遠征して練習を積んだが、福祉が進んでいるとはいえ、不便な生活を強いられることも多かった。
 その当時、東京都の職員として練習に打ち込むことができた。
 
 そして、長野冬季パラリンピック・アイススレッジ競技4種目に出場。
 金メダル2個、銀メダル2個獲得することができた。
 山形県出身の奥山京子選手は、共に競い合った戦友と言ってもいい。
 
(ケー)=次に続く

2012ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演2回目

2013年01月29日 | 障害者スポーツ
 ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会(山形国際ホテル6階・平成25年1月27日(日)10時半~12時)を聴いた。
 本講演会の内容の報告である。
 講演タイトル「今を受け入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」その第2回目。

 土田選手(ニックネーム=ワコ)は、高2の時、交通事故で脊髄損傷によって車いす生活になった。

 ワコが車いすに初めて乗った。そのとき、まっすぐ進めなかった。
 利き腕とは反対の方向に自然と曲がってしまう。左右バランス良く操作できない。
 どうしても、利き腕の力が強く働くため利き腕の反対方向に曲がってしまう。まっすぐ進むことさえ難しい。
 車いすを操作するにも車いすの訓練が必要なことがわかった。

 リハビリを兼ねて車いすバスケをやってみた。
 小学生時代、ミニバスケに打ち込んでいた。バスケットだと経験があり、すぐできるのでないかと考えた。
 実際やってみると健常だった時とは勝手が違う。
 車いすより先に体が勝手に動く。
 車いすから落っこちることもしょっちゅう。
 車いすバスケの難しさを知った。

 また、高校に復学して高校卒業を目標にした。
 実際の年齢より1学年下に編入することができた。
 通学しながらスポーツを始める。そこで、陸上、バスケ、水泳といろいろやってみた。

 運命的な出会いをすることになる。
 ノールウェイのトールクレッペ講師からアイススレッジを教えてもらった。
 アイススレッジは、ソリの上に乗ってストックを使って上半身の力だけ使って競う競技。
 アイススレッジは日本に歴史がない。
 乗ったらとても楽しい。
 トールクレッペはあなたは若いし、素質があるから、リレハンメル冬季パラリンピック(1994年)に出てみないかと誘われた。
 選手人口も少ない。競技レベルもまだまだ。
 そうしたこともあって、19歳の時、考えることもなく参加を決意した。
 アイススレッジを体験して、わずか3か月後に冬季パラリンピックに出場することになった。
 しかし、甘いものでなかった。
 結局、ころんで成績も散々な結果に終わった。
 他の選手たちの鍛え方が違う。筋力不足、競技力だって不十分ということを目の当たりにすることになった。
 他の選手とのレベルは歴然としていた。 
 生来の負けず嫌いがむらむらとわき起こった。

(ケー)=次に続く

2012ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会

2013年01月28日 | 障害者スポーツ
 「障害者白書」(平成24年概要版)をずっと紹介してきて、昨日(平成25年1月27日(日))で50回を数えた。

 ところで、昨日、ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会(山形国際ホテル6階・平成25年1月27日(日)10時半~12時)を聴いた。
 それで、「障害者白書」の紹介を中断して、本講演会の内容を数回に分けて紹介したい。その第1回目。

 土田選手の話は、今までの辛さや苦労を跳ね返す、体からあふれ出る前向きさに脱帽だった。

 その一端を本ブログでどの程度伝えられるか。

 さて、本題。
 講演のタイトルは、「今を受け入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」

 障がい者スポーツを応援してほしいというのが第一声だった。
 ニックネームは「ワコ」。世界中の選手仲間からそう呼ばれて慕われている。
 ガッツある生き方にみんな共感してしまう。

 誕生日は昭和49年。東京都清瀬市出身。
 医療機関が多い場所。小学校の隣が病院で常にアルコールのにおいがしていた記憶がある。
 父は、高1の時、病気で寝込む。父から厳しく育てられた。今ではそれに感謝している。着物の職人で頑固一徹。何人もの人を雇っていた。

 小学校では地域にあったクラブチームのミニバスケに所属。
 もっとうまくなりたい、強くなりたいと一生懸命取り組んだ。
 中学校の思春期には、生意気盛りで、少々反抗期を過ごした。
 高校に進学。
 バイトで体を動かすことが好きだった。トイレ掃除など率先してやった。
 ところが、高2で交通事故に遭い、脊髄損傷。
 車いす生活になった。
 山梨の病院に運ばれて入院。でもうちに近い東村山病院に転院。
 そこで、患者がカラフルな車いすに乗って動きまわる人たちをみた。
 あんな風にアクティブに動くことができることがわかった。
 そうした環境などもあって、障がいを受け入れるきっかけとなった。
 さらに、リハビリの一貫としてスポーツを勧められた。
 残存機能を伸ばすということで、筋トレにも取り組むようになった。
 負けず嫌いだったので、リハビリにも精出した。
 しかし、リハビリは厳しくつらいものがあった。逃げだしたいと思ったことも何度かあった。
 9ヵ月入院した。

 (ケー)=次に続く
  

◆今を受け入れ、今を越える(講演会のご案内)

2013年01月16日 | 障害者スポーツ
以前にもこのブログでご紹介しましたが
山形県障がい者スポーツ協会主催で開かれる
ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子さんの
講演会が近付いてきました。



日 時:平成25年1月27日(日)10:00~12:00
会 場:山形国際ホテル6階「スプレンダ―」
参加費:無料(障がい者スポーツに興味のある方はどなたでも)
定 員:60名

申込み・お問合せ:山形県障がい者スポーツ協会
     TEL:023-686-4084      
          担当:川村・池田

申込み締め切り:平成25年1月21日(月)


以上のようになっております。
まだ、定員まで余裕があるようです。

参加申込み書は山形県障がい者スポーツ協会HPからダウンロードできます。

山形県障がい者スポーツ協会クリックをどうぞ

陸上競技車いす5000M・車いすマラソンに出場された
アスリートの貴重なお話を是非お聴きになってみてください(F)



◆土田和歌子選手講演会(ロンドンパラリンピック出場)

2012年12月18日 | 障害者スポーツ
山形県障がい者スポーツ協会からのご案内です。
2012ロンドンパラリンピック出場 土田和歌子選手の
講演会が開かれます。



期日:平成25年1月27日(日)10:30~12:00
   ※受付は10:00からとなります
会場:山形国際ホテル 6階「スプレンダ―」
   〒990-0039 山形市香澄町3丁目4-5
   TEL:023-633-1313 FAX:023-626-3318

お申込みは別紙申込書に記入の上、FAX又は
メールにてお申込み下さいますようお願いします。
なお、メールでお申込みの方は、ホームページより
申込書をダウンロードしてください。

山形県身体障害者福祉協会クリックするとHPへリンクします

演題:「今を受入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」
講師:土田 和歌子氏 ロンドンパラリンピック日本選手団主将
   女子車椅子5000m・女子車椅子マラソン出場
  日本人初の夏冬パラリンピック金メダリスト
      車椅子マラソン世界記録保持者

参加費:無料
対象者:障がい者スポーツに興味・関心がある方
    ≪定員 60名≫

お問合せ:山形県障がい者スポーツ協会 
     担当 池田・川村
    〒990-2231 山形市大字大森385
     TEL&FAX:023-686-4084
     Eメール:y-sinsyokyo@orange.plala.or.jp

障がい者スポーツのトップアスリートのお話が直接聴ける機会です。
障がい者スポーツに関心のある方は是非お申込み下さい。


障害者が幸福を感じながらスポーツを楽しむ

2012年10月21日 | 障害者スポーツ
 障害者スポーツが今後さらに発展するには、どんな課題を解決すべきか?
 それについて述べた研究調査を以下に紹介する。

**************************************************

【引用始め】

http://www.ssf.or.jp/research/proposal/social3_04_01.html

笹川スポーツ財団 研究調査 政策提言

「国民が生涯を通じて、それぞれが望むかたちでスポーツを楽しみ、幸福を感じられる社会の形成」

第3章 提言

障害者スポーツ

障害者が幸福を感じながらスポーツを楽しむ社会の形成

 日本では、障害者がスポーツを楽しむための環境整備について、十分な支援が行えておらず、日常生活の中でスポーツを楽しむ土壌が形成しきれていない実情がある。
 障害の種類が多岐に渡る上、プライバシーの問題もあり、障害者の運動・スポーツ参加状況に関するデータは乏しいが、内閣府「障害者施策総合調査」(2008)によると、40.5%の障害者が何らかのスポーツ・文化芸術活動に参加していると回答し、これらの障害者が参加する主なスポーツ活動として卓球(スポーツ・文化芸術活動参加者の12.6%)、水泳(同12.4%)、陸上競技(同8.6%)などがあげられている。

 障害者スポーツにおける根本的な課題は、障害者がスポーツを楽しむ環境の不足である。
 具体的には、障害者にスポーツを教えられる指導者の不足、障害者がスポーツを実施できる施設の不足があげられる。
 世間の目が気になって、スポーツに参加しにくいという社会背景もまた、障害者のスポーツ環境を狭める原因となっている。

 1964年の東京パラリンピックを契機に、障害者のスポーツはリハビリテーションの一環と見られるようになり、病院や障害者施設などでスポーツとして実施されるようになった。
 国際連合は、1981年を「完全参加と平等」をテーマにした「国際障害者年」と指定し、その成果をもとに検討された「障害者に関する世界行動計画」を総会で決議し、計画実現にあたり、「国連・障害者の十年」(1983~1992)を宣言、障害者への課題解決に取り組むようになった。
 国際的にも、競技性の高い障害者スポーツ大会が開催されるようになり、こうした流れの中で、障害者のスポーツは、リハビリテーションの延長という考え方から、日常生活の中で楽しむスポーツ、競技するスポーツへと変わってきた。

 1998年には、厚生省(現・厚生労働省)によって、「障害者スポーツに関する懇親会」が開催され、その報告を受けて、翌年、(財)日本身体障害者スポーツ協会は(財)日本障害者スポーツ協会(Japan Sports Association for the Disabled:JSAD)へと名称を変更し、すべての障害をもつ人の統轄団体となり、同時に、日本パラリンピック委員会が設立された。
 2002年には、(財)日本アンチ・ドーピング機構にも加盟を果たした。

 今後は、スポーツが障害者の生活をより豊かにするという視点に立ち、誰もが気軽に生活の中で楽しむスポーツへと発展していく必要がある。
 また、障害の有無に関わらず、スポーツにおいてのノーマライゼーション(障害者と健常者が区別されることなく、社会全体を共にすることが望ましいという理念)の実現が必須である。

【引用終わり】

**************************************************

 以上、まとめると次のとおりである。

 障害者スポーツの現状がどうなっているか、その把握が必要である。
 しかし、それが十分なされていない。
 それもデータ収集する上で、障害の種類が多岐に渡り、プライバシーの問題などもあって簡単でないからである。
 
 さらに、障害者がスポーツを楽しむ環境の不足があげられる。
 その理由は次のとおり
  ① 障害者にスポーツを教えられる指導者が不足している
  ② 障害者がスポーツを実施できる施設が不足している
  ③ 世間の目が気になって、スポーツに参加しにくい

 そして、障害者のスポーツの理念も、現在大きく様変わりしてきている。
  ① リハビリテーションの延長
  ② 日常生活の中で楽しむスポーツ
  ③ 競技するスポーツ

 上記の②③の新たな要素を加え、障害者スポーツの底辺の拡大を図っていくことが必要である。
 そのことにより、「障害者が幸福を感じながらスポーツを楽しむ共生社会の形成
」に一歩近づくことになる。



山形県知レク大会総括会

2012年10月20日 | 障害者スポーツ
 9月26日(水)「平成24年度山形県障がい者スポーツ大会・知的しょうがい者レクリエーション大会」を、山形県総合運動公園サブグランド(天童市山王1-1)で開催した。

 その運営のあり方について競技役員が集まって、反省会をすべきという声があった。
 以前はやっていたのだが、数年はこうしたことをやる機会がなかった。
 そこで、あらためて競技役員に集まってもらって、「競技役員による総括会議」を行った。
 事前に、参加してくれた各事業所より「良好な点」「問題点」「改善すべき点」について、16項目に関する意見をもらった。
 場所は、山形県総合社会福祉センターで。
 平成24年10月19日(金)14時~16時
 各事業所より多忙なところ14人より参加してもらった。

 来年に向けて、改善点に関する意見が多数出た。
 今回総括会議に出席してくれた人たちには、ぜひ来年の知レク大会に競技役員として活躍してもらうよう座長からの依頼もあった。

 現状では、参加団体も徐々に減少してきている。
 種目が10数年変わっていない。そうしたマンネリ化も影響しているのか。
 また、事業所の支援員も人員的に余裕がなくなって、多くを出せないといった事情もある。
 庄内地区の事業所だと遠くて参加させるのが難しい。
 以前は、前泊して旅行も兼ねて知レク参加を大きな行事の一つとして位置づけたところもあった。事業所にとってそうした余裕がなくなっているのが現状のようだ。
 あと、以前「友愛スポーツ大会」と称していた頃は、成績優秀者が全国大会出場といった選考会的なところがあった。
 今はあくまでもレクリエーション的な要素が強くなっていて、競争的な要素が不十分なため不満足に感じる事業所もある。
 結局、全国障害者スポーツ大会の予選会のみ出場するといった事業所も出てきている。
 本知レク大会への出場は見合わせるということにもなっている。
 こうした問題を克服するには、どこに重点を置くかである。
 本事業は、知的しょうがい者が障がいの程度にかかわることなく、全員参加できるようにしている。
 さらに、県内の事業所が交流できる機会になるようにしている。
 そうなれば、競争的な要素を多少加味しながら、全員が参加できる内容にせざるを得ない。
 レクリエーション的なパン食い競争、風船割り競争も必要となってくる。
 そうしたことを理解してもらった上で、各事業所の参加を促すしかない。
 事業所の利用者にとって、この大会を毎年楽しみにしている人も多いと聞く。

 
 

平成4年山形県で開催された身スポ

2012年10月19日 | 障害者スポーツ
 第12回全国障害者スポーツ大会「ぎふ清流大会」は、平成24年10月13日(土)~15日(月)の3日間にわたって開催された。
 参加者は選手3,203名、役員2,150人、総計5,353人という大規模な大会である。開催場所も岐阜県内7市2町の広範囲にわたる。

 こうした身体障がい・知的障がい・精神障がいの3障がい一体の大会が開催されるようになったのは、宮城大会(平成13年)からである。
 その前までは、「全国身体障害者スポーツ大会」と「全国知的障害者スポーツ大会」に分かれていた。

 山形県は平成4年に第28回全国身体障害者スポーツ大会を開催している。
 身スポという略称で、国民体育大会を開催した後、行われた。
 視覚障がい者の支援をした覚えがある。
 山形盲学校も、開会式の記念式典で演奏を担当していた。
 その準備で生徒たちがメイン会場のスタジアム雨天練習場で待機していた。
 全盲の生徒がそこに立てかけてあったしきりにぶつかり、しきりを倒してしまった。
 それがガラス入りのしきりで、ガッシャンと大きな音が出た。
 秒単位で進行している式典前のピリピリした状況だった。
 あっという間に、私服の警察官に取り囲まれたのには、われわれもビックリ。

 それには伏線があった。
 国民体育大会の開会式で天皇陛下がお言葉を述べているとき、過激派の男が会場に発煙筒を投げつけた。
 その時、皇后陛下が天皇陛下をかばおうとした動作がテレビ画面にも映ったのである。
 そうしたことがあったので、身スポの警備が厳しくなった。

 盲学校の生徒たちを連れて身スポ記念式典演奏の練習に行くと、高校時代同期だった男が式典会場付近を巡回していた。
 警察官になった男で、私服で警備をしていたのである。

 今回の「ぎふ清流大会」でも開会式会場に入る選手・役員は、IDカードは必携。
 ペットボトルの持ち込み禁止。
 荷物検査もあった。
 金属探知機も設置されていた。
 殊の外警備が厳重だった。
 開会式は、天気が良く、日差しが強かった。
 1時間半以上、かんかん照りの中、車いすの身障者とともに長良川競技場のアンツーカーの椅子に座って開会式に参加。
 暑くて暑くて、鼻なんか日焼けでかさかさになった。