山形県手をつなぐ育成会 日々徒然なること

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2012ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演6回目

2013年02月02日 | 障害者スポーツ
 ロンドンパラリンピック日本代表 土田和歌子選手講演会(山形国際ホテル6階・平成25年1月27日(日)10時半~12時)を聴いた。
 本講演会の内容の報告である。
 講演タイトル「今を受け入れ、今を越える~出会い、そして挑戦~」その第6回目。

 土田選手(ニックネーム=ワコ)は、高2の時、交通事故で脊髄損傷によって車いす生活になった。

 ワコは、アテネパラリンピック(2004年=29歳)で好成績を上げ、その後結婚し、子どもも授かった。
 本当にうれしいことが続いた。

 次は、北京パラリンピック(2008年=33歳)に向けての挑戦である。

 万全な調整に努力した。
 競技用品も自分に馴染むものを開発した。
 競技用グローブは手型とって自作する。自分の手にしっくりくるものが必需品だ。
 また、競技用車いすの製作にも力を入れてもらった。レーサーと呼ばれる前後輪3輪構成の車いすである。
 幸運なことにメカ製作にかけては世界屈指の技術者が日本にはいる。
 競技用車いすのレーサーは世界中から憧れの的だ。

 そうした万全の体制で臨んだ北京パラリンピックだった。
 金メダルも期待されていた。

 そして、北京での競技初っぱな5000メートルに出場。
 その競技中、大クラッシュに巻きこまれてしまった。
 さらに不運なことに、転倒していた自分の体に後からきた車いすが乗り上げてきたのだ。
 その時、自分の骨がぼきぼき折れるのがわかった。
 もちろん、自分で起き上がることもできなかった。
 4か所骨折である。
 その時は呼吸もできなかった。
 競技場からそのまま病院に運ばれた。
 すぐオペが必要となった。
 ねたまま帰国である。
 マラソンにもエントリーしていたが、出場できなかった。
 北京パラリンピックは悪夢としかいいようがなかった。
 不完全燃焼で、北京大会は終わってしまった。

 そして、2か月間入院。
 それだけでなく、会社より解雇といった現実も突きつけられた。
 主人はコーチ、ワコは選手の身分だったが、その後ろ盾が完全に失うことになった。

 そうした失意のどん底で、次にむけての気持ちが動かない。
 病室の窓からホスピスが見える。
 死に向き合った人たちがいる。昨日まで明るくふるまっていた人が亡くなっていく。
 死を覚悟するとなんでもできるんじゃないかと思ったりする。
 また、主治医から病室の移動が告げられる。
 それが、産科の隣の病室だった。新しい命が誕生するところ。
 そんなことにも勇気づけられ、就活を始めた。
 いろんな人とのコミュニケーションが自分を後押ししてくれた。

 ロンドンパラリンピック(2012年=37歳)に向けて、目標を定める。
 マラソンで金メダルとりたい。
 世界で活躍できる女子選手を増やしたい。

 新たな挑戦を始めた。
 
 (ケー)=次に続く
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