私の思いと技術的覚え書き

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藤沢武夫氏のこと

2008-06-22 | 車と乗り物、販売・整備・板金・保険

 藤沢武夫氏(1910年11月10日-1988年12月30日)のことをご存じでしょうか。本田技研の創業者である本田宗一郎氏はあまりにも有名ですが、藤沢武夫氏のことはあまり聞き語られることは少ないものです。しかし、間違いなく本田技研を世界的な大企業に育て上げた影の立役者は、この藤沢武夫氏なのです。

 本田氏の功績は言わずもがなです。数々の技術的な突破力を保持し、4輪車後発メーカーであった本田技研を創業し、そして世界的な大企業にまで発展させました。しかし、本田氏は確かに技術の天才ではあるが、所詮は職人としての町工場のおやじであって、経営という面で才覚があった訳ではありません。しかし、そんな本田氏を補完したある意味で経営の天才としての藤沢氏が居たからこそ本田技研の成功があったことは間違いないのです。また、本田氏が、企業経営という面に自らの資源を消費することなく、自ら持てる資源の一切を技術分野に集中投入できたことも、逆説として云えるでしょう。

 さて、本田宗一郎氏と藤沢武夫氏の補完関係を表すエピソードについて記してみます。
①本田宗一郎氏は社長でありながら「一度も会社の実印を見た事が無い」と語っていたそうです。
②有名なマン島TTレースへの出場宣言も、藤沢武夫氏の企画立案によるものの様です。
③日本で最初の本格的サーキットである鈴鹿サーキットの設立も、藤沢武夫氏の企画立案によるものの様です。
④藤沢武夫氏は、技術の天才である本田宗一郎氏が去った後でもホンダ経営の興世を意図し、社長や役員の個室を作らせず、集団経営を目指しました。
⑤役員の子弟を入社させない規則を作ったり、社長は技術者とするというホンダカラーの基盤を構築しました。

 最後に、本田宗一郎氏と藤沢武夫氏の引退のエピソードを記します。
 昭和48年夏、本田氏が中国出張中に、本田氏と藤沢氏が退任するとのニュースが流されたといいます。ことの原因は、藤沢氏が辞意を決意し、専務を通じて本田氏にそのことを伝えたといいます。それを聞いた本田氏は、直ちに藤沢氏の意図を了解し、自らの辞意を表明したのだといいます。
 この年10月の株主総会で2人は正式に退任しました。本田氏65歳、藤沢氏61歳。世間ではまだまだ現役で通用する年齢だったことに加え、お互いに息子達を会社に入れずに、後継者は本田技研が町工場時代に大学卒第一号で入社した生え抜きである河島喜好氏45歳だったこともあって、「さわやかなバトンタッチ」とマスコミは賛辞を送ったといいます。
 退任が決まった後のある会合で、本田氏は藤沢氏に言ったそうです。「まあまあだな。」「そうまあまあさ。」と藤沢氏。「幸せだったな」「本当に幸せでした。心からお礼を言います」「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」。これで引退の話は終わったそうです。お二人の信頼関係、友情を表す素晴らしい言葉と感じられます。




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