フランスでのテロ事件
2015年1月21日(水)
パレチナ自治政府のアッバス議長が朝日新聞のインタヴューに答えています。(1月20日掲載)
(フランスでのテロに関して)「関与するのがパレスチナ人であろうと、イスラエル人であろうと、誰であろうと、テロには反対する。」と明言したとあります。
一方、仏週刊新聞「シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者ムハムドの風刺画を再度掲載したことについては「さらなる憎悪を生み出す。宗教や人々の間の憎悪は望んでいない」とし、更に「表現の自由があるのは知っているが、ムハムドでもキリストでも侮辱はすべきでもない」と述べています。
「侮辱すべきではない」というのは、当然ですが、シャルリーの方は「風刺」と言っている訳ですから、問題解決になりません。
私が尊敬する人物、誰でも良いのですが例えばマルクスを、誰かが侮辱したとして、私の感情が怒りに満ちるかと言うと、その反対で、侮辱した人間に対して憐れみを感じるだけです。
イスラム教義が何たるかは知りませんが、「ムハムドは自分の心身と一体化している存在。預言者を嘲笑されることは、自分を否定されるように感じる。」というのは、余りに飛躍です。イスラム教に限りませんが、宗教から自由になることが求められます。(「自由」とは何かについての説明は「省略」。論理立てて説明できない場合、私が良く使う「手」です。)
今回のテロの根元は宗教にあるかのような議論が一部にありますが、私は、問題の本質は、他のところにあると感じていて、例えば、イスラム世界の方が西洋諸国より経済的に繁栄していたら、このようなテロは怒らなかったのではないか、むしろ逆のテロ(キリスト教信者がイスラムに対して)が起きたのではないかと思うのです。
そして、次も私が良く使う「手」ですが、それは「独断の推測」です。この世の中、そのような対立を望む勢力があるのではないかということです。世の中が不穏になれば喜ぶ勢力とは、端的に言えば、戦争になれば儲けることができる連中であると推測しています。