アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾九年 其の弐

2017年01月08日 | 近世の歴史の裏側

百々の紋次の墓

伊勢崎市境百々にあるという経蔵寺に、百々の紋次の墓を訪ねてみた。

 忠治に駒札を譲って縄張りを与えた親分として有名である。

 百々に行ってみたが、経蔵寺らしい大きな家は見当たらない。

 何人かの人に、

 「この辺りに経蔵寺というお寺はありませんか」

 「経蔵寺?聞いたことはありませんね。この辺にはお寺なんかありませんよ、お寺なら何カ所か

ありますがね」

 そこで、道路脇のフレームの中で仕事をしているお年寄りに尋ねてみIたら、

 「経蔵寺というお寺は知らないが、この近くに某地ならあるよ。あそこに火の見やぐらの

半鐘が見るだろう。そこを入ったところに墓地があるが、そこに経蔵寺というお寺でもあったんかね」

 教えられた通りに、火の見やぐらの脇を入っていくと墓地があり、本堂はないが門柱に「経蔵寺」

いう文字が刻まれていた。

 紋次の戒名「花輪昶光居士」を頼りに墓石を捜してみると、天保十三年の年号がある紋次の墓が見つかった。

忠治が建てたと伝えられている。

この紋次は、テレビでお馴染になった。木枯らし紋次郎‘のモデルになったともいわれて

さて、紋次と忠治とのかかわりであるが、『赤城録』には、次のように記されている。 

「忠治は十七歳の時に人を殺し、武州川越の親分、大前田の英五郎のところへ逃げ込んだ。

 そして、英五郎のところに一年ほど世話になった。ある日、英五郎は忠治に言った。

『おめえさんほどの才覚がありや、何故いつまでも生まれ故郷を遠く離れてくらす事もあるめぇ』といって、上州の百々村の紋次を紹介した。その三年後に紋次は亡くなった。つづく

                                                                                                                                                        

                       

 



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