アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

高倉健と福島泰蔵の生い立ち、其のⅢ

2013年04月11日 | 近世歴史と映画

 福島泰蔵の青年期は、高倉健とは、時代も異なり

新政府のもとで、苦労の連続で有ったが、上州女性の母の、

厳しくも有、反面時代を先読みした教えで後世に名を残す人物になった。

 

  

慶応2年(1866)5月23日、福島泰七 あさの長男として 群馬県新田郡世良田村字平塚(現在は伊勢崎市境平塚)

日露戦争に従軍。1905年(明治38年)1月28日、黒溝台会戦において戦死

 

世良田村とは

 出生地の世良田村は新田源氏発祥の地。元祖義重より8代目の嫡孫新田義貞の居宅もあった。

大間々扇状地の湧水を利用した一大農業地帯の一角。天神山凝灰岩の良質石材や

銅(足尾銅山:支流の渡良瀬川を経て)を産出。中世東山道(あずま道)が走り

、大船が遡る北限ともいうべき利根川交通の要衝地。世良田新田氏の菩提寺である長楽寺の

門前町宿場町として、市も開かれて

にぎわってきた。そのような土地柄もあり新田氏の荘園が代々継承され発達。

 徳川家康の先祖も新田源氏の出、徳川将軍家の庇護を受けた土地でもある

 豊かさを反映し、文化が進み、教養人も集まる土地柄。

郷土の英傑、新田義貞、高山彦九郎に憧れ、かくなりたしと願った少年時代の風景がここにはある。

 

家業の衰退により泰蔵の人生は、大きく変わった

 家業は利根川の廻船運送業、屋号は『福甚』。屋敷内には倉庫のほか、三の蔵まであり、

荷役衆も常時20名はいたと言う。明治維新となり、廻船業者の増加や鉄道馬車の発達等で衰退していった。

 家族は長男泰蔵の下に妹4名、16歳離れて弟甚八。

 幕末期、新田源氏発祥の地である上野国世良田村平塚の渡し場

(現在の群馬県佐波郡境町字平塚)は、利根川水運の拠点として、

また上州と武州を結ぶ陸路の要衝でもあり、人馬の往来盛んな土地であった。

 この頃、平塚の渡しで船積みされた特に赤銅(あかがね)街道とも呼ばれ、

品目は、足尾銅山から搬び出される銅である。足尾の山から、渡良瀬川沿いに大間々に抜け、

世良田村を経て、平塚村にいたる南への一本道で、この他にも江戸送りされる。

積荷は多く、平塚の渡し場に有った二軒の廻船問屋は繁盛をきわめていた。

「福甚」と「北清」である。

 「福甚」の当主、泰七は家主娘あさの婿養子であり、苗字帯刀を許されていた。

当時、苗字帯刀を許されることは、実に名誉でもあり誇りであったのです。

まげのよく似合う立派な骨格の持ち主であった。

その「福甚」の長男として、慶応二年(一八六六)五月二十三日福島斎蔵は生まれた。

 季節季節には「福甚」の三十坪近くもある土間も、人々の出入りでごった返した。

屋敷内には水害に備えて石垣が築かれ、蔵が立ち、

荷物を集積保管する家屋が、幾棟も連なっていた。蔵は三棟あった。屈強の荷役衆が常に二十人程いた。

伝統の民芸芝居の小道具や人形なども保存され、当主の人柄を思わせた。

福島の幼少期は、明治という新しい時代に即応した教育制度の確立が胎勤しはじめた。

 わが国最初の近代学校制度が制定されたのは、明治五年である。

 

 

 

両親の教導、訓導があればこその器磨き。

 これからの世は学問が必要と考え、学ばせることに熱心。

泰蔵自身が学問の重要性を幼くして理解し勉学に挑む姿は次回以降に記載します。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
人に歴史あり (iina)
2017-02-18 08:12:14
人に歴史ありですネ。

> 太った雀は、寒いので羽毛をたてているのでは?     富士山が素晴らしいですね。
冬の季節にエサは少ないはずなのに、よく太っているのは江の島の観光客のお蔭かなと思ったものの、冬を乗り切るためには
羽毛をたてて空気層を作り頑張っているのでしょうね。

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土地には風土が有ります。 (和佐田克己)
2017-02-24 22:02:30
上州特有の女性の強さと、優しさが、泰蔵の生き方を育てたと思います。
下には優しく、上には強く生きた人生だと思っております。
現在も、泰蔵の墓には花が絶える事が有りませんから
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