アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 番外編

2015年12月27日 | 近世の歴史の裏側

国定忠治の墓が、旧佐波郡東村の東国定の養寿寺にあることは多くの人が知っているが、伊勢崎市曲輪町の善応寺に忠治の墓のあることは あまり知られていない。善応寺の忠治の墓は、忠治の妾だった五目牛のお徳か建てられたものであり、お徳自身が忠治が磔なった時に、手を回して磔になった折りに、

遺体の一部だという腕を一本手に入れて、これを桐の箱に大切に保管した 

なにしろ忠治は天下の大法を犯した大罪人ということで、関係者一同は、

召しとられたり追捕の手をのがれて隠れたりしたのか実情なのだ、

お徳自身も忠治と一緒に召しとられて田部井「ためがい」村のお町と共に

江戸送りとなり、押し込めという刑を課されている。 

判決文では刑の期限を明記していないので不明であるが、比較的軽い処罰であり恐らく三ヵ月から六ヵ月程度の間、村預けのような名目で謹慎をせられたものだと考えられる これらの処刑が発効した時点も不明であるが、

恐らく一件落着の形になるのは 忠治や打ち首の刑に処された西野目宇右衛門などの処刑と同時であったものと考えられるので、

忠治処刑の嘉永三年十二月二十一日の頃は、お町もお徳も押し込めという刑で謹慎中だった筈である。したがって五目牛のお徳が、忠治の腕と称するものを、手に入れたのは忠治処刑から恐らく半年なり一年たった頃である。

この忠治の腕をお徳は大切に保管して 恐らく朝晩線香ぐらいはあげていたに違いない、当時の常識としては普通ならば、一年忌か三年忌遅れても七回忌ぐらいの時に 常人ならは墓碑か建てられるのだが、忠治の出生地の国定でも、弟の友蔵が兄の連類となるのかこわくて身を隠して一時期所在不明となっていたほどなのだから忠治の墓を営むことなどはとうてい不可能だった。

お徳という女性は 男まきりの気性を気に入られて忠治の妾となつたという女性だけに、なんとしてでも忠治の墓碑を建てたかったのに違いない。

忠治の墓か国定では建ちそうもないと解ると自分で建てることを決意した。

しかし仮にも忠治の墓を自分の住む五目牛に建てたのでは、国定の関係者たちへの面当てにもならない、五目牛のお徳は本姓菊池という家の千代松の後家であるから、菊池の家の寺は梅光院という伊勢崎の天台宗の寺、善応寺の末寺だった、そこでお徳は本寺である。善応寺の住職に頼み込んで、桐箱入りの腕に祠堂金という名目で金五両を添えて善応寺の参道か伊勢崎からの大胡街道に交差する辻の所へ 念仏百万遍供養の塔を建てる許可を得た、

善応寺の住職にしても、五両の祠堂金は濡れ手にアワのようなウマイ話だし、

まして寺地といっても街道との辻とあれば寺内に建てるのとは違い壇徒からも苦情は出ない、国定忠治という名さえを、刻まないということで、忠治の法名も

「遊道花楽居士」と、いうしゃれた名をつけてた。 だから善心寺の墓碑は 現在背面になっている「念仏百万遍共養」と刻んだ方が建立「こんりゅう」当時は正面であり、

側面には「寛永三年十二月二十一日 長岡志にという文字、別の側面に念仏賛仰の偈(げ)だけを刻んだけのものだった。ところが供養塔が立つと、誰の口からとなく忠治の墓だと言う噂が立ち、ついには「忠治大明神」という幟まで立てる者か出て連日香花の絶え間が無かった、これがいつのまにか伊勢崎藩の役人の耳にも入り瀋の方でも捨てておけずに、善応寺へ内々で取り片づけ方を通達した、住職も藩からとあっては、いたし方無いと、お徳に取り片づけ方を申し出て、やもなくこの墓はお徳の住む屋敷へ引き取られていった。

その後二十年程の間に幕府か倒れ明治の新政府か出来、忠治の墓もおおいばりで建てる様になって、明治十二年に忠治の三十三回忌ということで、

養寿寺には弟友蔵の手で忠治と正妻お鶴の墓か建ち、墓誌銘も旧伊勢崎藩儒学の新井雀里翁の撰文で文を刻んだ。そうして国定の養寿寺の方は忠治の菩提寺ということで、賽銭もあがるし、 さらに大正期に入って行友季風原作の新国劇の国定忠治の大当たりなどの影響で、すつかり有名になった、これを聞いて伊勢崎の善応寺でも元の墓を、お徳の家へ問合せて再び寺内に運び返したのが、現在同寺にある墓碑なのである。

ちなみに忠治の腕は戦災で、焼失したが、美原文二(美原 恒 医学博士の父)医師と渡辺敦(郷土史研究家)先生の実見では人間の骨ではなく獣の骨だったという。 



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