山窩と犯罪
大正15年7月30日、池袋の黒川健三方に職人風の覆面男が忍び込み、20円を強奪した。
4年にわたって東京を震撼させた説教強盗の登場である。忍び込んだ家で、縛り上げた家人に戸締まり
しろとか、防犯上の説教をしたことから、当時朝日新聞の記者だった三角寛が「説教強盗」と名づけた。
説教強盗は犯行を重ね、その数は昭和4年には盗みと強姦をあわせて65件に登った。
その鮮やかな手口にキリキリ舞いさせられた捜査陣から「犯人はサンカ」ではないのかと声があがった。
これを聞きつけた三角寛はサンカに興味を持ち、サンカの研究を始める。昭和4年2月24日、説教強盗
妻木松吉は西巣鴨向原の自宅で逮捕された。捕まる時「おさわがせしてすみません」と言った妻木は
サンカではなかった。昔は、事件があると警察はすぐにサンカではないかと疑った。
下谷万年町にサンカが多くいて、潜入している刑事までいたのである。
サンカは、明治以降、近代に入ってからも戸籍を持たずに山で漂泊の生活を続けていた。
そのため、明治以降、近代に入ってからは警察が、まつわる人々であるサンカを怪しみ、
サンカと犯罪を結びつけ、何かあるとすぐに「犯人はサンカ」ではないかと憶測した。現在もそれは、
続いている。グリコ森永事件の当時、一部で「かい人21面相」=サンカ説がささやかれたのである。
その噂(うわさ)の真偽は確かめようもない。また、何から何までサンカでは困ってしまう。しかし、
噂(うわさ)が出る事自体が、サンカの魅力が今も輝いている証拠なのは確実だ。
つづく