自動二輪レブルとのお別れ

2019年04月30日 | Weblog

 
 ホンダ・レブル250CCの愛車とお別れした。
1993年、わたしが54才で出会い80才を迎えた今日まで26年間、ながいつき合いであったというより、一心同体の時間を過ごした。
わたしが普通免許を取得したのは、わらび座に在籍していた30代半ばのことだ。
普通免許では、50CCの原付バイクには乗れる。
わらび座の公演予定地に入ると、ねぐらとバイクを現地の人に世話してもらい、お借りしたバイクに乗り営業に励んだ。
場合によっては、自動車を借りることもあったが、小回りのきくバイクが便利であった。
原付バイクの制限速度は30キロである。でも風を切っての走行は爽やかで、自動車にはない魅力がある。
「原付ではなく、もっと大きな『自動二輪』に乗りたいなぁ…」、そして高速道を疾駆したいという夢が育まれていく。

 わらび座を出て会社勤めを始めてほぼ10年が経ち、会社での営業車で都内を走りまわっていた。
渋滞に巻きこまれることはしょっちゅうで、その脇をバイクがスイスイ通り抜けていく。そのスイスイを眺めやりながら、「自動二輪に乗りたいなぁ」との夢止み難し、経済的な余裕もいくぶんできたので、54才の春先から教習所に通いはじめた。
「自動二輪・中型」(400CCまで)講習を受けるのは、ほとんど全てが20代前半の若ものたちである。
おっさんはわたしだけなのだ。指導教官は「あなたは、小型(250CCまで)にしなさい」と、執拗にすすめる。
わたしは「いや、中型でいきます」と、頑張りとおす。
教官は「では最初の課題に挑戦して…」と、400CCのバイクを横たえて「これを起こせますか」と見守る。
わたしは一発で引き起こしたものだから「小型にしなさい」とは云わなくなった。

 無事に自動二輪中型免許を取得し、ホンダ・レブルを手に入れた。
レブルを出迎えた頃、バイク販売店で企画するツーリングがときたまあり、高速道を若い人たちに混じってかなり遠くまで出かけたものだ。
妻を後ろに乗せ泊まりがけの旅行にも行った。何回でも行きたかったが、妻は一回こっきりで「もう止めた」…と音をあげてしまった。
なぜかと云うと、食材などを詰め込んだ重いリュックは、後部座席の妻が背負うしかない。それが重くて仰け反るし、おまけにわたしが往々にして道を間違える。そんなこんなで「バイクに同乗するのはいや」とのたまうのだ。
「後部座席に女の子を乗せて風を切って疾走する」、というわたしの夢は、はかなくも一回こっきりで終わりをつげた。

 当時わが家には自動車はなかった。
レブルが来る前は、もっぱら自転車が活躍した。
レブルが来てからは、和太鼓の練習には太鼓を背に負い、週に3回引き受けている新聞配達も、専らレブルが頼りになったのだ。
そんなこんなで、お別れする前日まで生涯現役を貫き、7万キロをこえても軽快なエンジン音は変わらなかった。
バイク販売店でも、その後世話になった修理屋でも、「いいエンジンにあたったね」とお褒めの言葉をもらう。


 週に3回の新聞配達はいまでもやっており、雨の日には軽自動車で出かけるが、ほとんどはレブルの出番になる。
これからもいつまでもレブルと共にと思っていたのだが、別れる決心をせざるを得なくなった。
レブルはわが家の庭の駐車スペースに収め、軽自動車は「月極駐車場」を借りていた。
80才をむかえわたしは、介護職員として都内のディサービスに勤めている。
朝と夕に利用者さんを車で送迎し、昼間はゲームやお話し相手としてお年寄りの面倒をみているのだ。
施設には「80才になっての車での送迎は、もしなんらかの事故があれば施設に迷惑をかけるので、わたしの誕生月まえには身を退きたい」と申し入れてある。
少ない年金なので、週に2回のバイト料は生活に余裕を与えてくれたが、それがなくなるとかなり金銭事情は切迫するのだ。
扶養家族としての猫4匹の食糧費は今の水準を維持したいし、「どこかに倹約するところはないか」と、妻と共にいろいろ探った。
軽自動車は車検など維持費がかかり切り捨てたいのだが、足腰の痛みがこのところ強くなってきた妻の通院には必要である。
車を家の駐車スペースに納めれば月々の「駐車料」が浮く。するとレブルの置き場所がない。


 朗が来た折、そんな話をしたら「それならレブルを貰おうか」となった。
このレブルは、サドルや後部座席、その他こまごました所を朗が修理・補強をしてくれていた縁もある。
わたしも分身みたいに大事なレブルが、自動2輪に詳しい朗のもとに引き取られ、余生を長野で過ごせることに大きな安心を得、安堵している次第なのだ。