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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

サザエさん一家の家風。

2022-02-17 | 本棚並べ
「サザエさんの〈昭和〉」(柏書房)には、
鶴見俊輔の文が2つありました。
ひとつは、鶴見俊輔著「漫画の戦後思想」(1973年)から。
あとのは、「長谷川町子さん追悼」(1992年)の4ページ。
そのどちらにも、『眼は人間のマナコと言ってな』の場面がある。

はい。その四コマ漫画を紹介しておかなきゃ。

はじまりは、 サザエさんが、お父さんに叱られている場面。

第二コマ目、『昔の金言にも、目は人間のまなこなりというこばがある』
      とおとうさんが演説口調で。サザエさんがわらいをおさえて
      『いやだ・・・目は心のまどでしょう』

第三コマ目、つられて、おとうさんが大声でわらいだす。
      『ワッハッハッ。そうかそうか』
      サザエさん・お父さん二人して、体をゆすぶって大わらい。

第四コマ目、かあさんが正座して、おとうさんをしかっている。
      『あなた、もっとちゃんとしつけをなさらなきゃ
       だめじゃありませんか』
       おとうさん『うん』
       おとうさんは、頭をたれ、片方の腕まくりをして
       別の手でその腕をかいている。・・・

鶴見俊輔は、この場面を言葉で引用したあとに

『日常生活の言いまちがいをもとにした単純な漫画だが、
 これが、サザエさんの26年1万回分の作品にくりかえしあらわれてくる
 ・・・
 父親が、娘に言われて、自分の言ったことのおかしさに気がつき、
 いちはやく笑いだしてしまうところに、いかにも、
 サザエさん一家の家風があらわれている。

 このあたりが、戦後民主主義なので、嫌いな人は
 ここのところが嫌いになるのだろう。

 私には・・・この理想をうまずたゆまず、26年くりかえしている 
 長谷川町子に共感をもつ。」(p53~55「サザエさんの〈昭和〉」)

この鶴見さんが指摘する『サザエさん一家の家風』ということで、
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」に、思い浮かぶ箇所がありました。

「私達三人姉妹には同じDNAがあって、それは大勢の人の前で、
 何であれ発表するときには、すごく上がって首尾をまっとう
 できないという弱点である。」(p85)

この次に、詩吟の発表会でのまり子姉のエピソードが紹介されています。

「当日、いざ自分の番が回ってきて壇上に上がり、
 満場の聴衆と向き合った途端にハッと上がってしまった。
 それでも何とか吟じ始めたものの途中で息が切れて
 声がでなくなってしまい、もはやこれまでと思ったか、
 一声『やめたッ』と叫んで退場してしまった。
 ・・『やめたッ』は前例もないのではないだろうか。
 上がり性というのは、どうにもならないところがあり、
 こんなDNAを受け継いだ不運を災難とあきらめる外はない。」

このあとにも、そのDNAの例がくるのですが、そちらはカットして
さらに次の箇所から引用します。

「町子姉に責められ、
『だって、ドキがムネムネしちゃったんだもの』と胸を押さえた。
 ムネがドキドキと言うつもりであったことは、よくわかった。

 まり子姉にはこんな具合に、名詞にしろ形容詞にしろ文章にしろ、
 なぜか逆さにひっくり返して言うクセがあって、
 
 『サザエさん うちあけ話』の中にも、
 中華料理店でフカのヒレのことを『ヒカのフレ』と
 注文したことを町子姉が描いている。

 人を評して、
 『あれは一つむじなの狸よ』とか、
 『皿をくらわば毒まで』などとも言ったりする。

 『サザエさん』の中で、
 『目は人間のまなこなり』と波平さんがサザエにお説教しているが、
 これも、まり子姉の失言を拝借したもので随分漫画のタネを提供して
 貢献している。」(~p87)


はい。『サザエさん一家の家風』ということでは、
私に、引用しておきたい箇所があります。

長谷川家で、一番おとなしそうな三女の洋子さんのこと。
いったい、どのように見られていたのか。案外、ここいらに
長谷川家の家風の輪郭が、はっきりと現れている気がします。

それは、洋子が通う、女学校の教頭先生の見方なのでした。

「『教頭先生もね、長谷川さんは生まれたまま大きくなったような人で
 真っ直ぐな気性のところがいいって、いわば野蛮人のような子だけど、
 そこが美点だから、損なわないでほしいって言ってらしたわ。・・・』
 
 野蛮人と言われて喜ぶ生徒がいるだろうか。
 しかし、問題児を励ましフォローしようとされる
 温情は身にしみてありがたかった。

 この教頭先生は英国で教育を受けられたレディの見本のような方であり、
 厳しさと温かさを併せ持った先生として、かねがね尊敬の念を持ってい
 た。」(~p90「サザエさんの東京物語」)


はい。今回も引用ばかり。
でも、きっといつかこの場面が、あとになって
思い浮かんでくるような気がします。
そういう時に、かぎって、どこにあったのか
探しだせないんだから。とりあえず、引用しておくに限ります。

う~ん。最後は、鶴見俊輔氏による「長谷川町子さん追悼」から
この個所を引用しておくことに。

「・・お父さんは、娘に説教するのに、
 『眼は人間のマナコと言ってな』などとしまりのないことを言う人で
 ・・・父親にしても、やがて登場する夫にしても、
 自分たち以上に生命力のある女に家の指導をゆだねるだけの器量がある。
 そういう男たちは、やがて大量消費の時代にあらわれる
 新しい男性群像の前ぶれとなっている。・・」(p195)

はい。鶴見さんの、追悼文のしめくくりは、というと

「・・経済大国になってゆく日本の中で、長谷川町子は、
『サザエさん』から『いじわるばあさん』に視点を移した。

 めまぐるしい技術革新とファッション交替の中で
 とりのこされる老女の眼から意地悪く現代風俗をとらえる方法は
 ・・・
 地球大の社会の見方をつくりだす。日本の変貌ととりくむ
 作風の変化によって長谷川町子は戦後50年の偉大な漫画家となった。」
  (p197)

さて、『いじわるばあさん』を古本で注文することにします。

 





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視点は読む人の数だけ。

2022-02-16 | 本棚並べ
はい。読まない癖して、つい買ってしまう本。そんな一冊に、
「サザエさんの〈昭和〉」(柏書房・2006年)がありました。
すぐ読めるかと思いながら、そのままになっておりました。
うん。それが読み頃をむかえたようです(笑)。

最初は、サザエさんの両親の名前を知ろうと本棚から
だしてきました。それは1ページ目にありました。
草森紳一の文が、はじまりにあります。そこを引用。

「・・・長谷川町子の『サザエさん』は、私たちの心の裏側に、
一つの風景となってはりついている。珍妙なヘアースタイルの
サザエさんの顔、夫のマスオ、父の磯野浪平、母お舟、弟のカツオ、
妹のワカメの姿が私たちの内側にペッタリ・・・・」(p6)

ちなみに、この本には新聞の切り抜きをはさんでありました。
忘れていたのですが、朝日新聞夕刊1992年7月2日の文化欄の切り抜きで、
鶴見俊輔の「長谷川町子さん追悼」とあります。
はい。以前のものを、この本にはさんでおいた記憶があります。

そのくせ、本自体は読んでいなかった。
この本については、長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」で、
洋子さんが、あとがきで触れられておられました。

「しかし今、改めて『サザエさんの〈昭和〉』を読み返してみて、
視点は読む人の数だけあることを、当たり前のことながら学ばせて
いただいた。・・四コマ漫画の作品だけから町子の深層心理を分析
したり洞察したりされる先生方があり、そういう視点もあるのかと
驚かされたことだった。・・・」(p219)

はい。この機会に「いじわるばあさん」も読んでみたいし、
せめても、「よりぬきサザエさん」も読んでみたくなります。
そういう気にさせる視点が「サザエさんの〈昭和〉」にあるのでした。

ひょっとしたら、長谷川洋子さんの本は
「サザエさんの〈昭和〉」が、ニガリで豆腐がかたまるように
作用して、まとまったのかもしれないなあ。そんなのことを
つい思い浮かべてしまうような箇所が要所要所にあります。

おそらく、洋子さんの無数にある三姉妹とお母さんの思い出は、
このニガリがなければ、まとめられなかったかもしれないなあ。
そう思える本として「サザエさんの〈昭和〉」があります。

さいごには、鶴見俊輔氏の言葉を一箇所引用。

「 家庭の日常の雑事の中に生きがいがあるという
  サザエさんの哲学が、・・よく生かされている。 」(p67)



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サザエさんの両親。

2022-02-15 | 本棚並べ
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(2008年)。その
帯には、『町子姉は頭がよくて、悪ガキで、甘えん坊でした。』とあり、
小さく、『ワンマン母さんと串だんご三姉妹の昭和物語』とありました。

四コマ漫画でのお母さん『お舟』は、ひかえめに描かれていますが、
それでは、じっさいの長谷川町子さんの母親はどんな方だったのか、
それが、長谷川洋子さんの、この本を読めば出会えます。


筑紫女学園を出たばかりの姉(鞠子)とあるので、
てっきり福岡出身のご両親と思たのはあさはかで、

『父も母も鹿児島出身であった。』(p172)
『母の兄は鹿児島から上京し・・』(p35)

そして、『父は肺炎をこじらせて余病を併発し・・・
亡くなった。・・・・52歳の働き盛りで、仕事も順調だったし、
家も新築し、これからというときだった・・』(p30)

父親が亡くなり、一家揃って東京へ出るのですが、
また、戦争中の疎開で、福岡へともどってきます。

『そこには父が建てた家があり・・・
福岡は九州一の大都会だから決して安全な場所とはいえないし、
疎開先には適さないが、父の思い出が残る家に帰る嬉しさが
先にたって荷造りの手も捗(はかど)った。町子姉は
〈 マイ・スイート・ホーム 〉などと、口ずさんでいた。』(p55)

この福岡の地で、サザエさんは誕生します。

『・・姉は主人公の名前を〈 サザエさん 〉と決め、
家族の名も、すべて海にちなんだものから選んだ。
毎日、海岸に散歩に出ては砂浜に座って、
思いつく限りの名をいくつも砂の上に書いたり消したりしていた。
後に朝日新聞の全国版で読まれるようになるとは夢にも思わず、
ごく気楽に執筆を始めたのだった。』(p62)


疎開するまえ、東京へ出て来た際の暮らしぶりが
『サザエさんうちあけ話』のはじめの方にあります。
そこの波は平らかではなく、荒波として描かれます。

そのなかに、荒波に船出した長谷川一家の舟のカットがあります。
〇の中に長と印のある船「長谷川丸」が荒波にのまれているのに、
お母さんは聖書をひらき船の舳先で座って平然としている絵です。
その下に書かれている、長谷川町子さんの文があります。
はい。ここも引用しておかなきゃ。

「母は一切こういう思いわずらいを致しません。
神様日の丸だから安心しきっています。・・・
あんまり信用しているので、批判も疑問もあるけれど、
右にならえで、単細胞の親子は、陽気に、くったくなく
暮らしました。」
 ( 姉妹社はp15~16。朝日文庫ではp17~18 )

『くったくなく暮らしました』なんて、まるで昔話でも
読んでる気分になります。その後も続き引用してみます。

「夕食のあとなど、
おぜんのお茶わんについた米粒の干からびるにまかせ、
二時間でも三時間でも、芸術論、宗教論、服飾だんぎ。
くだって人のウワサへと発展します。
豆、食い食い人の悪口いうを、
荻生徂徠センセイも娯楽の一つにかぞえています。

また姉は、人まねが大変うまく、興(きょう)にのって
実演を始めると皆、笑いころげました。
生前父は良く、小学生の姉に
『こんどは、どこどこのおじさんの歩くマネをしてごらん。』
などとリクエストして手を打って喜んでいたものです。

・・・平和なある日、突然空の預金通帳を母に見せられました。
『さアこれですっかりなくなったよ、どうする?』
アパートの一、二軒は建つ位の貯えを持って上京したはずですから、
姉は手にした絵筆をバッタと落してノケゾリました。
その絵筆、ついに取り上げることなく今日に及びます。・・・」

(注:『サザエさんうちあけ話』なので登場する姉は、長女まり子さん )


はい。長谷川洋子著『サザエさんの東京物語』では、
この個所をとりあげられ、書かれていたかどうかというと、
出版をはじめる場面に、それを彷彿させる文がありました。

「出版を始めるに当たって、やはり名前が必要だということで、
『姉妹社』と名乗ることになった。

母の得意のお説教は毛利元就の『三本の矢』・・・・
三人が心を一つにして邁進すれば、社会に立ち向かうことが必ずできる、
と常にもまして熱弁をふるった。母がいう社会とは・・・
男社会の中で女性がいかに不利かということを身をもって実感した母らしく、
言葉のはしばしにそれが強調された。その影響で、
娘達には男性、即、敵という観念が培われたような気がする。

・・・・・妹が言うのも変だが、まり子姉の油絵は粗いタッチで
未熟ではあったが、将来を期待させるような精神的なものがあって
私は好きだった。それに副業にしていた挿絵も好評で、
雑誌の連載もいくつか依頼されていたのだ。
つまり順風に帆をあげた状態だった。
日頃、『喧嘩なら誰にも負けない』と豪語していたまり子姉が、
ここで唯々諾々(いいだくだく)と従ったのだから、
母親の威力は凄い。もっとも、陰で娘達は悪態をついていたが。」
        ( p66~67「サザエさんの東京物語」 )

はい。『クリスマスの戦い』(p110~)
も引用したくなるのですが、切りがない。

はい。母の『磯野お舟』ということで、
あと一か所だけ、引用させてください。

「聖公会で洗礼を受けてクリスチャンとなった母だが、
どこか物足りないところがあったらしく日曜に限らず
いろいろの集会を巡って歩いていた。
泊りがけで地方の講演会に行くことも度々だった。
姉妹社の経営についてはもはや、全くといっていい程、関心を失っていた。

自分の心の落ち着き所を求めて東奔西走し、
ついに無教会主義にたどりついて、その居場所を見つけた。
内村鑑三先生の提唱される無教会主義は、そのお弟子さん達に
受け継がれて各所で集会がもたれていたが、母が導かれたのは
自由が丘にある今井館だった。当時は矢内原忠雄先生が主宰し
ておられ、毎日曜に聖書講義があった。・・・
町子姉と私は母に叩き起こされて、二度に一度は母のお供をした。」
      ( p77~78「サザエさんの東京物語」 )



戦争で疎開し、福岡にもどりサザエさんは誕生します。
その漫画から、磯野浪平・お舟は、生まれたのでした。

あるいは、四コマ漫画の設定に磯野浪平・お舟が誕生したおかげで、
サザエさんの自由で奔放な活躍の場が生まれた。とも思えてきます。




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『あらぬこと』の『重大なこと』。

2022-02-14 | 本棚並べ
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社)を
読み直し、あれこれと連想がひろがりました。その関連で
本棚からとりだしたのが、梅棹忠夫著「知的生産の技術」。
ひらいた箇所はというと、

『本は二どよむ』と『本は二重によむ』(p110~)でした。
ここには、『本は二重によむ』の箇所を引用。
梅棹さんはこう書いております。

「どれだけ普遍性があるかわからないけれど、
わたしとしては重大なことのようにおもうので、
かきしるすことにする。」(p111)

こうして、梅棹氏が、本に線をいれる箇所に
( この前文では、線をひくことを梅棹氏が書いています )
あきらかな二つの系列があることを述べるのでした。
その二系列というのは、どんなものか、

①『だいじなところ』は、著者のかんがえがはっきりあらわれる箇所。
②『おもしろいところ』は、『わたしにとって』のおもしろさである 。

はい。このあとは引用してゆきます。

「すると、わたしは本をよむのに、じつは二重の文脈でよんでいる
ことになる。ひとつは著者の構成した文脈によってであり、・・・
・・・・このことは、よくいわれるような、
『本は批判的によめ』ということとはちがうとおもう。
批判どころか、
第一の文脈においてはまったく追随して、ただ感心してよんでいるのである。
第二の文脈があらわれてくるというのは、わたしが、著者とはまったく別の、
『あらぬこと』をかんがえながらよんでいるということの証拠である。

触発や連想ということもある。それも、
著者にはおもいもよらぬところに飛火するものだ。
この第二の文脈のほうは、だから・・・シリメツレツなものといってよい。
とにかく著者の思想とは別のものなのである。

・・・・・わたしの場合をいうと・・
かきぬきやらをするのは全部第二の文脈においてなのである。・・・」

つぎには、こう書かれてゆくのでした。

「『わたしの文脈』のほうは、シリメツレツであって、
 しかも、瞬間的なひらめきである。これは、すかさず
 キャッチして、しっかり定着しておかなければならない。・・・

 この種の着想・連想は、一種の電光みたなものであるから、
 傍線だけでは、あとからみて、なぜ線をひいたのか、
 そのとき何をかんがえたのか、わからなくなってしまうこともある・・

 本の著者に対して、ややすまないような気もするが、
 こういうやりかたは、いわば本をダシにして、
 自分のかってなかんがえを開発し、そだててゆく
 というやりかたである。・・・・
 著者との関係でいえば、追随的読書あるいは批判的読書に対して、
 これは創造的読書とよんではいけないだろうか。」(~p115)


え~と。この引用はまったく追随的読書なのでしょうが、
まるでこの個所を新しく発見したかのように読みました。
『あらぬこと』に創造的というラベルを貼られたような、
うれしい気分にさせてくれる一節を読めた気がしました。

 





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一生に。遭えるか遭えんか。

2022-02-13 | 地震
だいぶ前に、古本で買ってあった
笠井一子『京の大工棟梁と七人の職人衆』(草思社・1999年)。
はい。帯付きでカバーもきれいで200円でした。

やっと、読み頃をむかえた感じです。
はじまりが、中村外二(なかむらそとじ)さん。
中村さん(1906年~1997年)は、数寄屋大工。
はい。この中村さんの箇所をパラパラとめくってみました。
はじめに、仕事場で墨付けをする中村さんの写真。
それに経歴があり、その下には、小さい字で、
「自己紹介のときは相手や場所を選ばず『大工の中村です』」。

この中村さんへのインタビューとなっております。
はじまりは『はい、大工の中村です。・・・・・』
これから引用したいのは、台風と大工のことです。

「・・わたしは、もうすぐ90やからね、
この間、米寿の祝いをしてもろたんですわ。
いや、そらもう、大工の人生、七、八十年のうちには
いろんなことがありますよ。今でも笑えませんでぇ・・・」
(p13)

こうして、台風のことを語るのですが、その後に
弟子を怒って、叱るのに、こう指摘するのでした。

「そんなもんね、人の一生にいっぺん遭えるか遭えんかわからん
台風でしょう。そんないい経験はまたとないことですよ。
そうそう、そうや、千載一遇の経験でしょう。」

それでは明治39年生れの中村さんは、
どのような台風に遭遇したのか。

「室戸(むろと)台風ていう関西を襲ったひどい台風があったんですよ。
戦争よりずと前やった。( 昭和9年9月21日、四国、関西を襲い、
 校舎の倒壊が多く、教員・児童の死者が694人にのぼる )。

西陣小学校なんか何十人もいっぺんに死んだんですよ。
先生が体育館へみんな集めたら、そこだけバサッとつぶれよった。

とくに京都はひどかった。そのとき、わたしは、
太閤さんのお土居(どい・土の防壁)のてっぺんに
二階建の建前(たてまえ)をしとったんですよ。
下からの強い風がお土居にぶつかるんです。高いからねぇ、
上に何もあらへんのやから。そのときにこの建物がつぶれたら、
わしはもうこれで一生、大工は終わりやなと思うた。

ぐるりに下小屋(作業場)とか仮設の事務所とか建ってますわな。
それがみんな吹っ飛んでしもたんやから、
お土居の下のほうの建物なんか、いっぱい倒壊しとったからね、
・・それでも、わしがやっとった住宅だけはどうもなかった。
屋根の瓦はパーッと飛んでしもたけど、壁はついとったし・・・

現場にですか。ああ、おった、おった。
若い時分やから朝から晩まで詰めとった。
いや、離れられませんでぇ。・・・・・

もし、これがつぶれたら中村は台なしやと思うて
気が気でないもん。そばに竹藪がちょっとありましてね、
そこに潜んでジーッと見とるよりしょうがないや。

そら大変ですよ。怖うてしがみついとる。
何が飛んでくるかわからんから。・・・・・・・・

それでもまあ、建前していた住宅だけはなんとか残った。
それだけ構造がちゃんとしとったからね。
仕口(しくち)が丈夫にしてあるってことです。
仕口というのは木と木の接合部分です。

木をなるべく傷めんように、一本の木のようにするために、
できるだけ深く強くからめたいんや。
わしは雪国の富山のやり方でやっとったから、そら、ビクともせんもの。

まだ、京都へ来たばかりのころですよ。
やっぱりね、実際にそういう経験がないと、
いくら言うてもなかなかわからんのや。

そんな大きな台風みたいなもん、一生にいっぺん、
あるかないかやから。そやで、そういう経験は大切なことですよ。」
 (p15~16)


はい。こういう引用をしちゃうのは、どうしてか?
『一生にいっぺん、あるかないかやから』を
小説やドラマなら何回も見直すことができるのでした。

幸田露伴著『五重塔』の、クライマックスは
人物の葛藤のあとで天災・大嵐の場面でした。

『其の三十一』から、それははじまっておりました。
塔が出来上がります。

「いで落成の式あらば我偈(げ)を作らむ文を作らむ、
我歌をよみ詩を作(な)して頌(しょう)せむ讃せむ
詠ぜむ記せむと、各々互に語り合ひしは欲のみならぬ
人間の情の、やさしくもまた殊勝なるに引替へ、

測り難きは天の心・・・・
夜半の鐘の音の曇って平日(つね)には似つかず
耳にきたなく聞こえしがそもそも、
漸々(ぜんぜん)あやしき風吹き出(いだ)して・・・
雨戸のがたつく響き烈しくなりまさり、
闇に揉まるる松柏(しょうはく)の梢(こずえ)に
天魔の号(さけ)びものすごく・・・・・」
( 岩波文庫「五重塔」P103~104)

こうして小説『五重塔』は最終の
嵐の描写へ、すすんでおりました。





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昭和25年と、大工の棟梁。

2022-02-12 | 本棚並べ
『袖すり合うも、他生の本の読み齧り』とか。
『井の中の蛙の、井の中の本棚』とか。
昨日は、自分なりの言葉遊びを思い浮かべました。

以下には、昭和25年頃の、大工さん。
そうして、思い浮かぶ2冊からの引用。

谷沢永一著「回想 開高健」の第一章のはじまりは、
「昭和25年、1月・・」でした。

廊下の椅子で本を読んでる谷沢さんの、その頭の上から
『タニザワさんですかっ、ぼくカイコウですっ』
と大音声が降ってくる場面からはじまっておりました。

こうして、開高健が谷沢永一の家にくるようになります。
その家について、数ページあとに書かれてありました。

「大阪市阿倍野区昭和町・・・・
 八軒長屋のひとつ、二間小間中(にけんこまなか)、
 大阪でもっとも標準的な庶民向きの借家を、
 終戦ただちに探しだして、父がベニヤ板の小売商をはじめた。

 当時は必ず長屋の裏、格好だけの堀の奥に、
 幅半間(はんげん)の汲み取り道があり、堀の内側は、
 朝顔でも植えるように、ほんの僅かながら空地となっている。
 
 父は30歳すぎまで大工の若棟梁だったから、
 設計普請はお手のもの、それに生来の工夫好きであるから、
 このありがたい空間を見たら、もうじっとしてはおれない。
 裏の堀の上の、まあ言うなら二階、幅はこの家のほぼ間口
 いっぱい・・・約四畳分の小部屋を、自分ひとりでたちまち
 作りあげた。ここへ長男の私を押しこむと、弟および妹の
 勉強部屋にも、なんとかゆとりが生じるのである。・・・」

はい。谷沢永一氏の父親は、若い時に大工の若棟梁をしていた
ということがわかります。

ちなみに、昭和25年に、山本夏彦は工作社を立ち上げておりました。
山本夏彦著「『室内』40年」(文芸春秋)にあります。
こちらは、質問に答える形の一冊。
そのはじめの方に、

「・・工作社は昭和25年から『個人』としてあった。
 市ヶ谷ビル二階にあった、そこで単行本と店舗や住宅の
 設計図集を出していた。昭和25年はまだ焼けあとの時代です。
 ヤミ屋が絶頂からくだりかけた時代です。」(p12)

はい。ここは長く引用してゆきます。

「昭和30年代までは、家は昔ながらの作り方で建てていました。
戦前からの大工の棟梁(かしら)がまだ健在で、
うなぎ屋はうなぎ屋、ソバ屋はソバ屋、銭湯は銭湯の形が
決まっていたからその通り建てた。工夫するといっても
便所を水洗にする程度で、ただ便所にタイルを貼ったりするから、
木に竹をつぐみたいでした。・・・・

雑誌を創刊する前は小住宅図集、家具の設計図集なんかを出していた。
まだテレビがない時代だから、もっぱら新聞広告をしてね。
それが大変、今のテレビと同じでたちまち反響がある。
新聞広告の反響のピークは一週間です。・・・・

千通を超す内容見本の請求がある。八割はその月のうちに買ってくれる。
だって小住宅・家具・建具の設計図集なんかひやかしたってしょうがない。

それが三、四年間に8万人になった。ただの8万人じゃない、
郵便局に行って、振替用紙で送金する労を惜しまない8万人です。
住所氏名職業が明記してある。
当時は家具や建築の職人は本屋へ行く習慣がなかった。
だから直接買いにくる。ちょっとした行列ができた。
遠い人は送金してくる。

昭和29年までにその名簿の清書が完備したから、
『木工界』の創刊を思いついた。
調べたらこの世界には雑誌がない、
あってもそれは『業界誌』だ。業界誌は自分は一つも
広告しないで、広告を奪うだけの存在です。・・・・」(p14~15)

最後にあと少し引用しておわります。

「・・家はどんどん建ちつつある。
 建築費にくらべれば設計図集なんてタダみたいなものです。
 買わなきゃソンです。そうして集まった読者が8万人、
 それに向けて『木工界』を創刊したんです。」(p16)

うん。ここで終わるのは惜しいので、
さらに引用をつづけることに。

「昭和30年代から木工機械が出てきた。・・・・
 その木工機械の広告が『木工界』に出た。
 他に広告するところがないから全部出た。
 全部出ると出てないメーカーはもぐりになる。
 だから一流から末流まで出た。

 ・・・メーカーばかりじゃない販売店も大広告した。
 ・・・でもね木工機械は一度買った最後こわれない。
 全国に普及したらたちまち売れなくなりました。

 次に新建材が出てきた。
 デコラ、ホモゲンホルツ、プラスチック、スチール、ブロック。
 『木工界』というタイトルじゃつつみきれなくなって、『室内』に
 改めた。76号、昭和36年4月号からでした。

 話は前後するけれど創刊早々の昭和30年の12月号に
 『仕入の手引』を別冊付録にしてつけました。
 『木工界』のおまけです。タダです。
 小は鋸や鉋、ノミ、大工道具全部。接着剤。大は木工機械。
 それがズラリと勢ぞろいしている。広告料とればいいのに
 一銭もとらない。タダで別冊付録にしたのです。」(p18)

はい。引用が長くなりました。今回はここまで。


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それじゃ、これから。

2022-02-11 | 本棚並べ
岩波現代文庫に「増補 幸田文対話(下)」。
そこに、西岡常一との対談「檜が語りかける」があります。

うん。読んで、これをどう紹介しようと思っていたら、
中学校の国語教科書にあった木下順三の『夕鶴』が思い浮かびました。

はい。手元にないので、ちょっとうる覚えなんですが、
たしか、つうが、与ひょうの言葉に
『何を喋っているの』とか『聞こえない』とか
いう場面があったような気がします。

なんだろうなあ。幸田文・西岡常一の対談は、
おとぎ話を読んだような。そんな気分にさせてくれるのでした。

西岡氏が
『ボツボツ頭のはげかかるころとなって、
 おじいさんの意図が、ようやくわかったわけです』(p250)

幸田文は
『・・あたしは六十を過ぎてから樹木に心をよせはじめたんです
・・・六十歳になって、娘も結婚し、孫もでき、さて老後へと
一段落したときに、もう一ぺん芽を吹いて、それじゃ、これから
少し木を見てみようかっていうことになったんです。
 ・・・・
一度土におろした種って、相当いのち強く生きていて、
いつか芽になるものなんですね。
それでまあ、ぼつぼつと見始めたところへ、
法輪寺の塔建築があったわけです。それで・・・」(p252~253)

このあとに、檜のくせの話がつづくのですが、
そして重要なのですが、ここでははぶきます。
法輪寺の塔の起工式というのが語られていました。

西岡】 大事ですな。われわれが起工式に祝詞をあげますけども、
これは天地自然を皆、神様と考えて、火の神、山の神、水の神
というものを皆拝んで、ヒノキとして生まれたこの木を
お堂の柱として生まれかわらせていただく、
木の命をお堂の命として賜りたい、そういうことを願うんです。
それが式なんです。
このごろは形だけになってしまいましたけれども、
本来はそうなんです。
  ・・・・・

ええ、法隆寺の大修理は終わりましたけれども、
軸部の木は六割までは残っています。
軒先の風雨にさらされるところはかえましたけれども、
軸部のはりとか、けたとかいう大事なものは全部残っています。
これから千年ぐらいは大丈夫やと思いますな。・・・・


はい。こうして引用していると、
むかし話というよりは、神話に近づいてゆくような
そんな気分に導かれてゆきます。
ここは、引用しておきたいと思ったのは掃除の箇所でした。

幸田】 そうですね。起工式って、さっきおっしゃったけど、
式後、最初の作業が、掃除から始まったのはほんとびっくりしました。
・・塔工事の最初の仕事につながるとは・・・

モウモウと土埃がたって、掃除しましたね。
あたし茫然として見てたら、お寺さんが、
あなたも記念にやってくださいって。
でも、いかんとも驚いて見てたんですわ。

西岡】 まず掃除。神様が降りてくるのやから・・・。

幸田】 それでまた明治の教育ですけど、掃除っていうのは、
きれいにするというより、不潔神を払うことだというんですね。
祖母からも父からも、そう教えられました。  (p262~263)


はい。噛みしめれば味わいがひろがって、
60歳を過ぎた方にお薦めしたいおとぎ話。
夢のような、対談だなあと思えてきます。


最後に、幸田文の年譜を引用しておくことに。

1963年(昭和38年)59歳
   ・・・7月、新潟県松之山の地すべりをニュース番組で
   見て現地に入る。小説化をめざしたが、規模の大きさに
   圧倒され断念。

1965年(昭和40年)61歳
   ・・・7月、三重塔再建をめざしていた斑鳩法輪寺を訪れる。

1971年(昭和46年)67歳
   1月、『学鐙』に『木』を204回連載(昭和59年まで)
   8月、『中央公論』に『法輪寺の塔』を発表。
   この年、各所で法輪寺に関する講演を行う。

1974年(昭和49年)70歳
   11月10日、法輪寺三重塔上棟式に列席。

1976年(昭和51年)72歳
   11月、『婦人之友』に『崩れ』を連載(翌年12月完結)。

1977年(昭和52年)73歳
   1月、西岡常一との対談『檜が語りかける』

1988年(昭和63年)84歳
   5月、脳溢血で倒れ、自宅で療養。
1990年(平成2年)86歳
   10月29日、心筋梗塞の発作を起こし、
     31日午前3時40分、心不全のため死去。

1991年(平成3年)没後1年
   10月、講談社より『崩れ』が刊行され、
      幸田文ブームが起こる。

  ( 「KAWADE夢ムック 幸田文没後10年」の年譜より )

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サザエさん東京物語。

2022-02-10 | 本棚並べ
三姉妹の三番目が長谷川洋子さん。
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社・2008年)が
出た時に買いました。もう内容はすっかり忘れてる。

昨年木材から作った本棚におさまっていた『サザエさんうちあけ話』
と並べて『サザエさんの東京物語』がありました。
はい。それで手にとりました。
ところどころ引用してゆきます。
戦中に福岡へ疎開している時のこと。

「博多の中心部が集中的に空爆されたとき、
  『女子は出社に及ばない』
とかねがね新聞社から通達があったにもかかわらず、姉は、
  『これが記者魂というものよ』
と張り切って西新町から天神まで歩いて出社した。

途中、黒焦げの遺体がいくつも、そこここに放置され、
線路は曲がり、電線はぶら下がり、焼け落ちた家々は
くすぶってまだ煙を上げていたと、
身振り手振りで話して聞かせる。

 『もう、やめてよ』
と言いながら、怖いもの見たさの心理で、
みんな耳をそばだてて聞き、話は一段と誇張されていった。

町子姉は話の面白い人で、そのなかに尾鰭(おひれ)やデマも入り、
また始まったと思いつつ家族は引き入れられて、大抵聞き手に回った。

それも家の中だけの話で、一旦外に出ると甚(はなは)だ無口で
ほとんど口を開かず、人見知りが強いのは相変わらずだった。」
 (p60)

この最後の二行が気になるところですが、
それはあとにして、家の中の町子さんはというと、

「町子姉は家の中では『お山の大将』で傍若無人、
声も主張も人一倍大きかった。
『一人で五人分くらい騒々しい』と、
まり子姉は時々、耳をふさぐようにして評していたくらいだ。

我が家の中だけが彼女にとって本当に居心地のいい世界だったから、
喜怒哀楽はすべて家族の中で発散していた。・・・」(p12)

本の最初の方に、東京へ出て来てからのことがあります。

「父は町子姉が女学校二年の春、亡くなった・・・

町子姉の幼い頃のことに関しては、学校から帰ると
カバンを放り出して夕方まで外を走り回っていた姿しか記憶にない
 ・・・・・・・
福岡から東京に移って環境が一変したとき、
感じやすい年頃でもあってのことだろう、
カルチャーショックは想像以上に大きかったようだ。
家庭の中が一番安心できる場所になった。

仕事を始めてからも人付き合いが苦手で、
出版社や新聞社の方達にも会わず、大抵まり子姉が交渉に当たっていた。
パーティーや会合にもほとんど出席しないので、
友人、知人も極端に少なかった。」(p10~11)

加藤芳郎氏が晩年の日本漫画家協会・文部大臣賞を
長谷川町子が受賞した際の場面を書いているのを
引用されております。

「町子さんはパーティー嫌いだから、ご本人の出席は
ほとんどの会員は期待していなかったのだが、当日、
パーッと花が咲いたように脚光を浴びて会場に現れた。
多くの出席者や漫画家達は『動く長谷川町子を初めてみた』
と、どよめいたのであった。」(p11)

はい『東京ショック』という箇所も印象深い(p35~39)
のですが、長くなるのでここまでにして

うん。最後に、ここは引用しておかなければという箇所。

「町子姉は、翌昭和21年4月から夕刊フクニチに連載を始めた。
愛読していた志賀直哉氏の『赤西蠣太(あかにしかきた)』に
登場する御殿女中が〈 小江(さざえ)〉という名前であったことと、

私達の住まいが海岸の側にあったことから、
姉は主人公の名前を『サザエさん』と決め、
家族の名も、すべて海にちなんだものから選んだ。

毎日、海岸に散歩に出ては砂浜に座って、
思いつく限りの名をいくつも砂の上に書いたり消したりしていた。

後に朝日新聞の全国版で読まれるようになるとは夢にも思わず、
ごく気楽に執筆を始めたのだった。  」(p62)


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サザエさん。大工さん。

2022-02-09 | 本棚並べ
幸田露伴の『五重塔』を読んだあと、
いろいろなことが呼び覚まされます。

ここは、楽しい連想から。
長谷川町子著「サザエさんうちあけ話」を
本棚からとりだす。その最初の方に大工さんが登場します。

「母は教育ママかといいますと、
ちょっとばかり毛色が変わっていて、
家の改造で大工さんと植木屋さんがはいった時のこと、
お茶のみ話から、二人ともまだ、
京都を見たことがないと知ると、
『費用は、わたしが出す。連れていってあげましょう』と、
たちまち相談がまとまりました。

国宝級の建物、名庭園を見ずして、
なんでひとかどの腕になれようか、
というのがその理由です。

娘どもの、白い視線をしりめに、
引率していきました。

『八つ橋』をおみやげに帰ってきた、二人が言うには、
『京都は、何といってもご婦人が一番よかった』そうです。

わが子、他人の区別なく、才能を引き出すことに、
快感を覚えるタチなのですね。」

それから、老朽家屋の修繕にきてくれる大工さんに、
まじってお茶どきに、犬のジローが車座の輪にはいった
話もありました。

箱根の別荘の火事には、

「近くのトビさんや、大工さんが
いせいよくかけつけてハコネに
ついていってくれました。」

その次には、こんな箇所も、

「ふだん母はわが子より、
職人さんをかわいがるのです。
トビの親方など
『どーも、ここんとこ、体の調子がわるくて・・・』
母『このおクスリお飲みなさい。あたしもよーく効いたから』

三女『アレは更年期しょうがいのクスリなのよ』
長女『あきれた!』
町子『バカなものすすめて』

ところが、親方は、ニコニコ顔で、
『よく効きますネ。すっかり全快しました!』

三姉妹が見つめる箇所には
『外見上、特に女性化したようすも見えず、
 三人ともホッとしました。』

そういえば、うちあけ話にも『家』にまつわる
箇所はいろいろと出てきておりまた。
印象深いのは、ここらでしょうか。

『今回ばかりは劇画でいきましょう!迫力がでません』
とある⑧回目でした。
福岡に疎開していた頃のこと
焼夷弾が落ちても、男性が
『火はたたき消してあげましたよ』という
そのつぎでした。

『せっかく助かった、この辺一帯のウチは、
まびき疎開といって延焼をふせぐため、
引き倒されることになりました』

『あしたから『まびき』です。
お隣りでは、くやしまぎれに座敷をメッタ打ちしました。』
とあり、おやじさんが
床柱や障子を、斧をふりまわして、ドスッ・ガツッと‥。
他人の手で家を壊されるくらいなら、いっそ自分の手で、
そんな思いをこめて、柱も傷だらけで、障子もバラバラ。

その次のページは
『よく日が終戦です。・・・』とあり、
床の間の前で、涙ぐむおじさんが描かれておりました。

はい。大工さんと、サザエさん。
もうカバーもなく、背から表紙にかけて茶色くなった
姉妹社の『サザエさん うちあけ話』を
ひさしぶりに取り出してきたのでした。
ちなみに、この本。文庫にもなっております。

はい。BS では朝ドラの再放送『まー姉ちゃん』が
現在放映中らしいのですが、涙するおじさんの場面は
ドラマに描かれたのかどうか。

うん。それにしても、読み直し、あらたてめて、
印象に残るは、三姉妹の母親の姿でした。

『わが子、他人の区別なく、才能を引き出すことに、
 快感を覚えるタチなのですね。』

『ふだん母はわが子より、職人さんをかわいがるのです』

 という場面。




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五重塔の地鎮祭

2022-02-08 | 本棚並べ
幸田露伴著「五重塔」(ワイド版岩波文庫)を
はじめて読みました。其一から、其三十五まで、
映画の画面展開を読んでいるような歯切れよさ。

黙読にも、活字を目で追うのと、
音読のリズムをもって読むのと、では違うのを
『五重塔』を読み、直接知ることができました。

ここでは、地鎮(じちん)の式が語られている。
其二十三を引用してみることに。

「動きなき下津磐根(しもついわね)の太柱と
式にて唱ふる古歌さへも、何とはなしにつくづく嬉しく、
身を立つる世のためしぞとその下(しも)の句を吟ずるにも
莞爾(にこにこ)しつつ二度(ふたたび)し、

壇に向ふて礼拝恭(つつし)み、
柏手(かしわで)の音清く響かし
一切成就の祓(はらい)を終る・・・」

具体的な箇所には、さまざまな神々への呼びかけがありました。

「・・五宝・・五香、その他五薬五穀まで備へて
大土祖神(おおつちみおやのかみ)埴山彦神(はにやまひこのかみ)
埴山媛神(はにやまひめのかみ)あらゆる鎮護の神々を
祭る地鎮の式もすみ、

地曳土取(じびきつちとり)故障なく、
さて竜伏(いしずえ)はその月の生気の方より右旋(みぎめぐ)り
に次第据ゑ行き五星を祭り、

釿(ちょうな)初めの大礼に・・・・
・・・神までの七神祭りて、その次の
清鉋(きよがんな)の礼も首尾よく済み

・・・四天にかたどる四方の柱
千年万年動(ゆる)ぐなと祈り定る柱立式(はしらだてしき)、
・・・七星を祭りて願ふ永久安護・・・」

「・・・・」に神々の名が連なるのですが、
ここでは、省略させていただきましたので、
詳しくは、幸田露伴「五重塔」で読めます。


はい。五重塔の感想なのですが、
また、機会があるかと思います。
ここには、幸田露伴の略年譜から、
その頃の、様子を引用。

明治25年 26歳・・『五重塔』を発表
     このころから、露伴は少年物を多く書くようになる。
     小説を書く意欲減退。

明治26年 27歳。長編小説『風流微塵蔵』を連載、
     2年後に中断、未完成。

明治27年 28歳。腸チフスにかかり、死にかける。
     文壇を引きたいとの意をもらす。

明治28年 29歳。・・山室幾美子と結婚。

そして、幸田文が誕生するのが、明治37年。
この年、東京座で『五重塔』上演される。

 
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わが国の数多い神社のローカル。

2022-02-07 | 本棚並べ
佐伯彰一氏の指摘に

『わが国の数多い神社のローカル、いわば自然環境と
その簡潔な結構は、やはり宗教的傑作の一つではないだろうか。
おのずと美的秩序があり、浄らかな奥床しさ、厳かさが伝わってくる。
しかも事々しい押しつけがましさ、勿体ぶった威圧感がまるでない。』
 ( p57「神道のこころ」の中の「日本人を支えるもの」から )

はい。『宗教的傑作の一つではないだろうか』とあります。
うん。私の連想は、ここから神社仏閣の大工へいくことに。

世の中に、神社仏閣がなかりせば、日本の文化も淋しからまし。
その建物を作る大工さんのことを思い浮かべてみる。
うん。幸田露伴の『五重塔』が、候補として浮かぶ。
ということで、ここは露伴の『五重塔』。
井波律子・井上章一共編『幸田露伴の世界』(思文閣出版・2009年)
をひらいてみる。目次をさがすと、『五重塔』をテーマにした方が
いらっしゃる。佐伯順子氏でした。

パラパラとめくってみる。佐伯氏の文の「おわりに」から引用。

「一時期、教科書にも採用されていた露伴の『五重塔』は」
とはじまっておりました。そして

「私自身、日本文学の講師として勤めた最初の職場で、
一回生向けの基礎ゼミで『五重塔』を講読し、
その流れるような文体の妙に魅せられました。」(p153)

はい。とりあえず文庫本で『五重塔』を持っております。
未読でしたのですこし読み齧ってみる。
ここに最初の印象を書きつけておきます。

たとえば、法事で坊さんの声にあわせて、経本の文字
を追いながら、読経をする方々にとっては、たやすく
『五重塔』の文体は、スラスラと読みすすめられます。
なんといっても、経典は意味不明でも、五重塔の文は
読みながら内容が浮かぶ、そういう読者層を想定して
書かれたようにも思えてくる文体です。


同じ流れるような文体でも、読経の文とは違って
その情景が手に取るようにわかるのが五重塔です。

さて、佐伯さんの本文紹介を引用してゆきます。

「私利私欲をのり越えて同じ仕事をまっとうしようとする源太や、
職人肌の十兵衛の人物造形も巧みで、名作であるには違いないと
思います。特に暴風雨の場面は、講読すると圧倒的なリズム感で
とても感動的です。」

この佐伯順子氏の、文の題名はというと、
「『五重塔』という『プロジェクトX 』
    前進座『五重塔』と日本の高度成長」とあります。

佐伯氏の「おわりに」にもどって引用してみると

「『プロジェクトX』も、田口トモロオさんのナレーションや、
中島みゆきのテーマ音楽が人気になりましたが、形式は違えど、
耳に訴える感動話という意味では、現代の講談ともいえます。」
 (p153)

題名にある『前進座』と『高度成長』の個所も
本文からすこし引用しておきます。

「前進座の創立は昭和8年に遡りますが、
 梨園の名跡でなければ出世できない伝統歌舞伎を脱出し、
 身分社会的なヒエラルキーを超えて演技力で勝負しよと
 した劇団の挑戦的精神が、『五重塔』の十兵衛に重ねら
 れています。・・・」(p150)

「ただ、経済成長が頭うちになった2000年代の若者たちが、
高度成長期同様の自己実現の意欲や『心意気』を抱いているか
どうかは疑問ですが、同じ2005年の、『五重塔』が
上演600回をこえたことを報じる新聞記事からは、
『この舞台に共感する全国の建築関係者は多く、
 今度の再演でも入場券の販売に協力を申し出ている』と、
全国の建築関係者の方が、2000年代になっても
『五重塔』にシンパシーを抱いていることがわかります。」(p151)

うん。引用ばかりですが、もう少しつづけて終ります。

「高度成長期を過ぎても、どこかで、大きな建築物を建てたり、
モノを作ったりすることによって社会を発展させ、同時に
自己実現もしていくというメンタリティに共感できる人々が残っており、
それがこの舞台を支えて続けているのです。

演劇というものは、入りが悪ければ再演されにくいものですが、
脚色者の方の回想にもあったように、息の長い再演の背景には、
社会風潮との連動と、そこに由来する観客の反応のよさがあるはずです。」
(p151)

うん。遅まきながら、私はこれから
幸田露伴の『五重塔』を文庫で読んでみることにします。


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テキストと装丁。

2022-02-06 | 本棚並べ
「 装丁 田村義也 」が印象に残っていた
「安岡章太郎対談集」全3巻(読売新聞社・1988年)。

はい。だいぶ以前に購入してあった本です。
もちろん、読んでなんかおりませんでした。
たまたま、安岡章太郎著『流離譚』を読み、
それから、興味をもち購入してあったもの。

はい。この3巻本の対談集は、
安岡・司馬遼太郎対談以外は未読でした。
ということから話をはじめます。

装丁が田村義也。表紙カバーと、
めくって、とびらの装丁が、カバーの前後を
別々に小さくしたデザインとなっております。
うん。表紙カバーもそうなんですが、
ひらいて、とびらページを見ると、
なんだか、息をのむようなハッとした感じになる。
はい。この装丁が好みで買ったようなものでした。
そう、今になってみると、思えてくる不思議。


ここから、連想がひろがりました。

本体と、それを包みこむものと、
神社のことが、思い浮かびます。

ここには、チェンバレンとヒュー・コータッツイ卿の
二人に登場していただきます。
まずは、チェンバレンから。

「明治時代の38年間日本に滞在していた英国人
 バジル・ホール・チェンバレンが、『日本事物誌』(1890年)
 のなかで、以下のように記しています。

  神道の社殿は、原始的な日本の小屋を少し精巧にした形である。
  神社は茅葺の屋根で、作りも単純で、内部は空っぽである。

 伊勢神宮についても、こう述べます。

  観光客がわざわざこの神道の宮を訪ねて得るものがあるかといえば、
  大いに疑わしい。檜の白木、茅葺きの屋根、彫刻もなく、絵もなく、
  神像もない。あるのはとてつもない古さだけだ。  」(p89~90)
   ( 錦正社「神道とは何か」の牧野陽子さんの文のはじまり )


つぎは、佐伯彰一著「神道のこころ」にある「日本人を支えるもの」
から引用します。

「わが国の数多い神社のローカル、いわば自然環境とその簡潔な結構は、
やはり宗教的傑作の一つではないだろうか。おのずと美的秩序があり、
浄らかな奥床しさ、厳かさが伝わってくる。
しかも事々しい押しつけがましさ、勿体ぶった威圧感がまるでない。

イギリスのヒュー・コータッツイ卿は、先ごろまで駐日大使をつとめた方で、
日本に関する幾冊かの著書もある知日家文化人だが、初めて日本に来たのは、
戦後間もない1946年だったという。占領英軍の一員として来日した時、
神道については『非常に嫌疑的』で『日本人の起源伝説や皇室の存在が
自明のこととされていることに軽蔑の念すら抱いた』。

神道は、あまりに素朴、原始的で、
『農耕生活に裏打ちされた精霊信仰の時代錯誤のもの』
としか思われなかった。ところが、たまたま最初の駐在地が、
岩国の空軍基地だったせいで、宮島を訪れ、
厳島神社にふれる機会が生じて、一気に考えが変わった。

『神道の美的要素』について『眼開かれた』思いを味わい、
『社とその環境の美と調和は、私に強烈で不変な印象をもたらした』。
それから、翌年、日本海の米子に『移動』して、出雲神社を訪れる
ことになり、いよいよこうした思いを強めたと書いている。」
(p57~58・文庫本はp61~62)


はい。神道と、それを包みこむ社と森と。
それが、私の本と装丁からの連想でした。


持っている、安岡章太郎氏の対談集は、
本棚にある間に背文字が変色してきて、
その分、お気楽に頁をめくれるような、
そんな気がしてきました。読み頃です。


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菩提寺。過去帳。坊主神主。

2022-02-05 | 道しるべ
読んだこともない尾崎一雄というのは、どういう人だろうと、
『日本の古本屋』の本の検索でもって、名前を打ちこむと、
いろいろ出てきました。この検索では当然著作が出てくるなかに、
雑誌とか、たどるのが分かりずらい対談集とかも探せる。

ああ、ここにあると、気づかせてくれる検索です。
「安岡章太郎対談集1・作家と文体」(読売新聞社・1988年)の
最初の安岡氏との対談者が尾崎一雄氏でした。
ちなみに、この本の装丁は田村義也。すっきりしています。
はい。はじめて読んでみました。

すると、江戸時代の菩提寺のことへ話題が展開する箇所がある。
そうだ、江戸時代の菩提寺といえば、
小林秀雄著「本居宣長」の冒頭の箇所が浮かんできます。
ここはおさらい。佐伯彰一氏の文を引用します。

「『本居宣長』の冒頭の一節で、宣長が死の直前に書き残した
自身の葬儀にかかわる遺言を、小林さんは・・解き明かしてゆかれた。

江戸時代のことで、各人の菩提寺がきっちりと規定されていたのだが、
宣長は、やはり自身のために神道の葬儀を、と綿密に式の次第から
お墓の場所、様式まで指定して・・・・

死にまつわる神道的アンビヴァレンスをいち早く見抜き、
把えたのも、じつの所『古事記伝』の著者であったが、
『本居宣長』を書き出すにあたって、まず宣長の墓所を
たずねずにいられなかった小林さん・・・」
(p59~60・佐伯彰一著「神道のこころ」の「日本人を支えるもの」より)

さて、安岡章太郎と尾崎一雄の対談でした。
尾崎一雄氏の家は代々神主の家系としてありました。
それに話題がゆくと、江戸時代の隠れ切支丹に触れる箇所がありました。

尾崎】・・・それは辻善之助という人の『神仏分離史料』という
でっかい本がある。それが切支丹禁制のために、
神主でも菩提寺を持たなくちゃいけないと、
だから死んだら過去帳はお寺にあるんですよ。

うちのも江戸時代の三代将軍以下くらいはお寺にあるんです。
というのは切支丹改めのあれでもって、お寺ですべて戸籍みたいな
ものを作っちゃったわけだ、過去帳を。

それで葬式をする場合も坊主がこれをやる。
神主が神式の自家葬ができないんだよ。
  ・・・・・・・・・・・・・・

それから僕のほうでは、僕の四代前くらいに尾崎山城守というのが
いたんだ。これがこのへんの神主の先頭になって江戸へ行ったんだ。

そして寺社奉行で一年ないし二年くらいの係争事件をやって、
勝って、それで自家葬をこのへん一帯認めさせた。
だから山城さんという名が上がっちゃったわけだ。
だから僕のうちはいまでも山城さんと言われている。

僕の子供の時分、ああ、これが山城さんのお孫さんかよう、
かわいいねと言って、どこかのおばさんが頭をなでてくれる。

山城さんてなんだろうと、うちで聞いたら、
それはこういうことがあって、坊さんと喧嘩して勝ったと、
それが江戸末期ですよ。新政府になってからはもちろん
そういうことは取っ払っちゃったわけです、
廃仏毀釈だから。   (p18~19)

ここで、尾崎一雄さんは著書『坊主神主』のことへ
言及しておりました。

「・・僕が書いたのは、島根県の浜田だったか、
そこの連中が藩主といくら談判してもけりがつかないんで、
とうとうみんなで金を持ち寄って、江戸の寺社奉行へ直訴
しようと企てるんです。
それを実行する直前にやっと当主と嫡男だけは自家葬でよろしいと、
藩主の許可が下りたんでやれやれと。・・」

うん。菩提寺。過去帳。自家葬。隠れ切支丹。それに廃仏毀釈と
神道を読もうするといろいろな言葉がでてくるのでした。



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「ははあこれは面白い」と気がついて。

2022-02-04 | 本棚並べ
新潮文庫・竹山道雄著「ビルマの竪琴」のあとの方に、
竹山道雄の『ビルマの竪琴ができるまで』があります。
そこに印象に残る箇所があるのでした。

「戦中は敗戦については知らされないし、
 戦後も戦争にふれることは一切タブーだし、
 われわれはずいぶん後になるまで、
 戦争についての具体的な事実は知りませんでした。
 実地のことは、さっぱり分かりませんでした。」(p197~198)

「私は戦地から帰った人にあうと、その体験をきかせてもらいました。
根ほり葉ほりたずねました。ところが、意外に思いましたが、
自分の体験をはっきりと再現して話してくれる人は、じつに少いのでした。

たいていの人の話は抽象的で漠然としていました。
すこしつきつめてたずねると、事実はぼんやりとして、
輪郭がぼやけてしまうのでした。自分が生きていた世界の姿を
よく見てはこずに、霧の中を無我夢中で駆けぬけてきた、
というようなふうでした。

『自分の経験を他人につたえることは、
これほどまでにもむつかしいことなのか。
また他人の経験を具体的に知ることは、
これほどまでにもできないことなのか』

と思いました。たいていの場合に、
語られるのは直接の体験ではなくして、
むしろある社会的にできあがった感想でした。
・・・・

自分の判断は何となく自信がもてないが、
社会的に通用している観念の方がたよりになるのです。
つまり、個人と個人とは直接につながるのではなくして、
ジャーナリズムその他によって公(おおや)けの通念となったものが、
個人につたわるのでしょう。社会通念の方が先にあって、
それから個人の判断が生れるのです。

われわれの生活の中では、
個人同士の横のつながりは、
思うよりもはるかに希薄なもののようです。」(p202)

昭和28年に『ビルマの竪琴ができるまで』が書かれたと
最後にカッコしてあります。

『抽象的で漠然として』という言葉から
連想は、『具体的な地図』のことへとひろがります。

つぎは、昭和35年のこと。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)に、
昭和35年の竹山氏の様子が出てきます。

「1960(昭和35)年の9月であった。
前田陽一・・のお宅での定例の面会日、先生から
『竹山先生がモスクワにはいったそうだ』と聞いたとき、
『えっ!』とその場に居合わせた数人は声をあげた。
 ・・・・・・・・・・・・・・
かねてソ連に批判的な人が私人でソ連入りしたとは驚きだった。」
(p374)

はい。このあとに竹山の紀行文『モスコーの地図』を
平川氏は紹介してゆきます。

「外遊客専用の33階建てのウクライナ・ホテルは
あまりに豪華で竹山は気が引けた。そのホテルの一階には
英語やドイツ語の達者なインテリ女性が大勢働いている。

ドイツのナーゲル社が出しているガイド・ブック付録の地図に
ホテルの位置を記入してもらおうとしたが、次々に
『わからない』『あちらに行っておききなさい』と埒があかない。
木で鼻をくくったような人たちで、黙って頭をふるだけである。

竹山は『ははあこれは面白い』と気がついて、
試験のつもりで一人一人とつぎつぎにたずねた。
十四五人にあたってみたが、彼女らは地図を眺めても見当がつかない。」
(p374~375)

うん。もうすこしつづけて引用してしまいます。

「全体主義国家だからといって首都の地図が売店になく、
ナーゲル社版の地図が簡単な略図だからとはいえ、
日本大使館の受付の老人以外は地図上のホテルの所在を
教えることができなかった。

というエピソードは、一部の人には竹山の反ソ宣伝のように
受取られ、いろいろ取り沙汰された。
小林秀雄がなにを思ったか新聞紙上に竹山の悪口を書いた。
社会主義経済論の分野で名をなした野々村一雄は『ソヴェト旅行記』で
『・・・・それを日本に帰ってから一流文芸雑誌に書くということは、
ずいぶんむだな、むだなだけでなく有害なやり方だと思う』
と竹山を非難した。

しかしこれがソ連の実情だと知らせることは大切なことである。
また地図を見慣れない人には見てもわからないものである。
それに地図を公開しないことはソ連以外でもありうることである。

現に私は戦況が次第に不利になりだした昭和19年、
中学の朝礼の時間に『陸地測量部の五万分の一の地図を
自宅に所有する者は必ず提出するように』という回収のお達しに接した。
・・・・・地図は軍事機密である。という発想は
戦中の日本だけでなく戦後のソ連にはまだあったのである。
ちなみにキューバ危機はその2年後の1962(昭和37)年秋に突発した。」
(p375)

このテーマは、かたちをかえながら連綿として、
昭和43年の「『声』欄について」へとつながってゆきます。
こちらは、竹山道雄著「主体としての近代」(講談社学術文庫)
のp195~198にあるので、読もうと思えば、誰にでも読めます。





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虻蜂とらず。

2022-02-03 | 本棚並べ
ふと、思い浮かんだ言葉に、
『虻蜂取らず』というのがありました。
「同時に複数のものをとろうとして、
 一つも手にすることができない」
というような意味のことわざのようで、
「二兎追う者は一兎をも得ず」と同じ意味のようです。
うん。言葉は知っていても、使ったことなかった。

古本で佐伯彰一著「神道のこころ」(日本教文社)。
松阪大学図書館蔵書に、赤いハンコで「除籍済」と
はいっております。

この本のなかで、
尾崎一雄が、取りあげられていて、
私は一度も読んだことがない人ですが、
読んでみたいと思ってしまうのでした。

また、この本のなかに、
8月15日に関連する文がありました。
そこに、こうあります。

「この季節になると、毎年きまって取り出してきて、
その一節を読み上げたり、また一気に読みかえしたり
する本が何冊かある。

『平家物語』や阿川弘之の『雲の墓標』『暗い波濤』、
また柳田国男の『先祖の話』や
アイヴァン・モリスの『失敗の高貴さ』などだが、

『平家』や阿川氏の本はともかく、後の二冊は
少々奇妙な選択といわれるかもしれない。しかし、
死者たちへの敬虔という点で、
これらの書物は不思議なほど相通じている。」


はい。平家物語や阿川弘之や先祖の話。
はなから、長い平家物語は私には無理。
それ以外の本が気になります。
さらに、佐伯氏はつづけます。

「アイヴァン・モリスは、イギリス生まれの日本文学研究家、
数年前イタリアで急死された人だが、少々精力的すぎ、
著作家としてもあれこれと手を出しすぎるきらいがあった。

ところが、彼のこの最後の本は、
不思議なほど語調ににごりがなく、澄み切っている。
『失敗の高貴さ』The Nobility of  Failureは一種の日本史論 
  ・・・・・・・・・・・・

とくに特攻隊を扱った章の出来はすばらしい。
もとより、無条件で特攻隊を讃美している訳ではない。
その実際の成果が、いかに少なく、しばしば無効に近かった
こともはっきりと書きとめているのだが、同時に
特攻に加わった若者たちの手記や手紙にひろく目を通して、
その心情、態度を内側からとらえようと努めているのだ。

平静で、客観的でいて、しかもじつに行きとどいている。
特攻隊の人々に、『敵』に対する憎しみの感情が、
ほとんど全く認められないことに率直におどろき、
彼らのほとんどがむしろ平静に、『よき未来の到来を信じつつ』
死地に赴いたプロセスを、共感をこめて描きとめている。

阿川氏の作品などを別にすると、わが国でも、これほど客観的で
しかも行きとどいた特攻隊論は、めったに見られないように思う。

彼らを偏狭な超国家主義の化け物じみた扱いをしていないのはもちろん、
ひたすら受け身のあわれな犠牲者とも見なしていないのだ。
かつて、まぎれもなく『敵』として戦った相手国の書き手による、
これほどの内的な理解と共感の記述をたどってゆくと、
ぼくはその度に、涙を抑えがたくなってしまう。
これなら、いや、これでこそわが同じ世代の死者たちも救われる、
思わずそんな呟きまで、洩らさずにいられない。 ・・・・」


佐伯彰一氏のこの一冊をひらいてると、
読みたい本が、あれもこれも出てくる。


いままでの私はというと、こういう場面にどうしていたか。
はい。これが私の『虻蜂取らず』というのかもしれません。
あれも読みたい。これも読みたいとの思いが押し寄せると、
それから先は、その押し寄せた波が、スーッと引いてゆく。

ちなみに、アイヴァン・モリスの『失敗の高貴さ』は
翻訳で『高貴なる敗北』と題して古本検索でありました。
あったのですが、その1冊で1万円以上しておりました。

ここは、腰をすえて、柳田国男の『先祖の話』を読みおえて、
阿川弘之の2冊へと、読みすすめるか。
それとも、気になっている尾崎一雄をパラリとでも
ひらきはじめるか。

こんなふうにして、思い迷っていると、
浮かんでくる言葉が、『虻蜂取らず』。





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