和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

水田三喜男と田中角栄・福田赳夫

2024-05-03 | 道しるべ
水田三喜男著「蕗のとう 私の履歴書」(日本経済新聞社・昭和46年)
をせっかくひらいたので、気になる箇所を引用。

第二次池田内閣を語った箇所でした。

「日本経済の中には高度成長の要因というか、
 潜在力が蓄積していることをみてとって、
 このエネルギーの引き出し役をしたというのが
 池田政策の基本となているものであり、
 私どもはその片棒をかついだのであった。

 敗戦という事実のために、日本経済はかえって
 戦前に見られなかった新しい幾多の有利さに恵まれた。

 植民地を土台とした先進国のブロック経済に圧迫され、
 孤立化に追いこまれていた日本は敗戦によって初めて開放され、
 どこの国からも門戸が開かれるようになったことはまたとない機会であったし、
 
 終戦によって質のいい労働力があり余っていたことも幸いであった。
 それよりも国民の優秀な頭脳は何よりもの無形財産であった。

 明治の先人が偉かったために、教育の普及度が物を言うようになり、
 国際水準の技術を消化する能力は十分であって、戦争による
 科学技術のたちおくれを取り戻せる可能性は十分であった。

 また中共やソ連の建設五ヶ年計画がしばしば農業の不作によって
 挫折した事実を見てもわかるように、わが国がここ数年来、
 農業不作を経験していないことは、はかり知ることの出来ない
 潜在力の蓄積とみなければならない。

 さらに財閥の解体と農地の開放に併せて、古い指導者が追放され、
 日本の社会は若返って経済の体質も柔軟性を回復した。

 したがって伸びようとする潜在力の躍動がようやく
 随所に見られるようになってきたのである。
 そこで私どもは考えた。

『 日本経済は伸びる力をもっている。伸ばすのはいまだ。
  伸びられる時に伸ばさなければならない 』と。

 この考えがいわゆる所得倍増計画となって現れたのであった。」(p120~121)


もう一ヵ所引用。

「・・・経済を成長させる念願の方は、何やかや若干の実績を
 残し得た気持ちでいる。私は閣僚として、いわゆる
 神武景気と、岩戸景気と、いまのいざなぎ景気の
 三つの好況に遭遇しているので、世間からは
 積極的な高度成長論者とされているようである。

 しかしながらこの十年間を通じて私が実際的に心を砕いた仕事は、
 経済成長を刺激する仕事よりも、むしろ好景気によって悪化した
 国際収支をなおすための仕事の方が多かったようである。
 大蔵省で退任のあいさつをしたとき、

『 いつも私が引き締めのにくまれ役を買って、
  国際収支をよくすると、そのあとを受け継いで、
  こんどは予算の大盤ぶるまいをして、
  いい子になれる運命のいい星の下に生まれているのが、
  田中角栄君であり、福田赳夫君である 』

 と言って笑ったのであるが、冗談ではあっても、
 この二人にくらべるとやはり私が一番貧乏性に生まれている
 ことになるのかもしれない。   」(p135~p136)


つい最近、中村隆英(たかふさ)著
「昭和史」(東洋経済新報社文庫上下)を手にしました。
私のことですから、前書きと後書きをパラパラとめくるだけです。
そこに、田中角栄とあります。最後にそこを引用。

「 仕事をしながら思ったことをいくつか書きつけておきたい。

  まず、高度成長が終わるまでのところは
  書くのが比較的楽しく、そのあとが苦しかった。

  昭和前半は政治と軍事の時代、後半は経済の時代と
  分けていいように思っていたが、

  とくに田中角栄内閣のあとは、政治史がつまらなくなるのである。
  首相が交代しても、局面が変わるわけではなく、
  書きたいことがなくなってしまうのである。
  徳川幕府の老中が交代しても、
  政策はめったに変わらなかったようなものである。・・・  」
               ( p894 文庫下巻 )

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