和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

郡長と農学校。

2024-05-02 | 安房
「関東大震災と安房郡」というテーマで
震災当時、安房郡長だった大橋高四郎を主軸に語りたいのですが、
肝心の大橋氏のことがよくわからない。
どこの出身なのか。いつ生まれいつ亡くなったのか。
そんなことがわかりません。うん。あとは、分かる範囲で
あれこれと繋ぎ合わせてみるくらいのことが
現在の私に許されるのかなあと思っています。

ということで、繋ぎ合わせられそうな範囲を探ってみる。
この名でネット検索すると、千葉県匝瑳高等学校が出てくる。
まずは、そこの箇所を引用。

「山武郡長に着任した大橋高四郎は、
 農業教育に熱心な方で機会あるごとに
 農学校設立の働きかけを行った結果

 ・・・大正9年12月1日をもって文部大臣より
 郡立甲種農学校として認可され、ここに山武農学校が誕生した。
 大正10年3月5日初代校長着任、事務所を東金郡役所に於いて
 ・・3月30・31日入学試験実施にこぎつける。
 大正10年6月7日新校舎落成8日移転。大正12年3月24日第1回卒業式。 」

端折って引用しましたが、これで、安房郡長に移動になる前に、
山武郡長だったということまでが分かります。
そして、「安房震災誌」の序文のなかで、大橋高四郎ご自身が
こう記しておられます。

「 私が安房郡に赴任したのは、大正9年12月のことで、まだ
  郡制時代のことであった。大正12年9月の関東大震災は、
  それから丁度4年目のことである。・・・・ 」

はい。分からないことだらけだと、かえって
勝手な連想をしてみたくなるから不思議です。

1921(大正10)年の宮沢賢治が、思い浮かびます。

「1921年9月、賢治は妹トシの病報をうけて大型トランクに
 原稿をいっぱいつめて帰花した。妹の病気は肺炎である。
 その看病のかたわら、ひきつづき童話原稿を書いていた。」
       ( p186 堀尾青史著「年譜宮澤賢治伝」中公文庫 )

 この次のページに、郡長が登場しておりました。

「 そういうとき、時の氏神といおうか郡長の葛(くず)博、
  農学校校長の畠山栄一郎が賢治を農学校教諭にむかえたいと
  いってきた。・・・・・

  農学校はこの年(大正10年)4月稗貫農学校となったので
  それまでは蚕業講習所といった。1907(明治40)年5月から開所している。
  この講習所が発展し、2年制の稗貫農学校となってこの4月新入生を
  募集した。・・・生徒がふえて先生もふえた。ふえたといっても
  ひきつづきの校長畠山栄一郎以下4名、書記1名、剣道師範1名だ。 」
                       ( p187 同上 )

安房郡長・大橋高四郎へと話をもどすことに、
ちょうど、貴島憲氏が安房郡長に呼ばれて、安房農学校の教諭となる
場面を、貴島氏が回想しております。

「大正11年の春、時の安房郡長の大橋さんの電報で、
 私ははじめて北条の郡役所にやって来た、
 
 そこが安房農業水産学校の創立事務所になっていた。
 郡役所の玄関の前の大きな辛夷が一ぱいに花をつけていた
 から3月中旬の事であったであろう。
 そこで大橋さんから学校に関して色々なお話を承った。 」
  ( p76 「千葉県立安房農業高等学校創立五十周年記念誌」 ) 

ここで、貴島氏は安房郡長の謦咳をよく回顧されているので
最後に、つづけてさらに引用しておきます。

「 何でも此の新しい学校は、今度新に文部省で制定された
  五ヶ年制実業学校として、全国に率先して創立されたもので、
  其期する処は、従来の様な不徹底な到底役に立つ筈のない
  下手な技術員養成でもなく、又そうかと言って今の中学の様な、
  3人か4人の上級学校へ行く人のために他の数十数百人に
  非実際的な教育を強いる恐れの多いものでもなく、
  将来社会の中堅として役立つべき青年に
  直に基礎的な普通教育を与へる学校、つまり農村的漁村的
  公民学校というべきものでなければならないという事であった。

  私はどうもこれはむつかしい仕事だと思った。
  併し同時に大変大切な事で、もしそれが全国に
  普及しよく運用されたなら、かの豆粕程の
  デンマークをして世界に重きをなさしめた
  国民高等学校のような働き、此行き詰った
  貧乏国家を一新せしめるような働きをなさないものでもない、

  吾々もまあ精々椽の下の力持を勤める事にしようと考へた。
  大橋さんの清新溌溂たる精神に感服すると共に、
  私自身も大に愉快になってきた。・・・・   」(~p76)


貴島憲氏は、ちょうど宮沢賢治が亡くなると前後して亡くなっております。
この貴島氏が聞いたという、大橋高四郎氏の言葉が、
あらためて、大橋氏の内面を語った貴重な箇所のような気がしております。



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