幸田露伴は夏目漱石と同じ年に生れておりました。
慶応3年(1867年)。その10年後。
角田柳作は明治10年(1877)生れ。
ちなみに、この人は、ドナルド・キーン氏の大学の先生。
でも、いまいち、どんな方なのか分かりずらい。
窪田空穂が明治10年(1877)なので、
何やら、角田柳作氏との年代的な共通点があるのじゃないかと、
こちらは、窪田空穂全集があるので、読もうと思えば読める。
でも、読もうと思うだけ。
翌年が、与謝野晶子で明治11年(1878)。
堀口大學は明治25年(1892)で、
そういえば、「月下の一群」を丁寧に読みたいと思ったのに、
いまだに、忘れております。
田中冬二は明治27年(1894)、田中冬二の全集は3巻なので
いつでも、読めそうなのですが、今年は、齧りはじめ。
その十年後、幸田文が1904年。
何とか、幸田露伴・幸田文とのつながりで読み齧れれば。
というところ。
徳岡孝夫氏は1930年生まれ。
その徳岡氏の「妻の肖像」に
「1970年に40歳にして思いがけないことが起った。56・9倍の競争率にもかかわらず、横浜・港南台の宅地債券に当選したのだ。」
「会社の信用組合から限度まで借りた。住宅金融公庫から借りた。銀行からも借りた。それでも二百万円がどうしても足りず、最後の頼み中央公論社の嶋中鵬二社長に借金を申し込んだ。私の話を聞いた嶋中氏は、一瞬考えてから『よござんす』と、二つ返事で二百万円貸して下さった。ドナルド・キーン氏の日本文学史の翻訳料から返す約束(私の方から申し出た)であった。そもそも借りられたのは、キーン氏の口添えがあったからである。真っ先に中央公論の借金を、二年も経たぬうちに完済した。・・・」(p84・単行本)
というドナルド・キーン著「日本文学史」も、いまだ未読。
とにかくも、読むというよりも「袖振れあうも・・・」でゆきましょう。
そうしましょう。
ということで、未読本の列挙。
9月1日追記。
安藤鶴夫は、1908年の東京浅草生まれ。
慶応3年(1867年)。その10年後。
角田柳作は明治10年(1877)生れ。
ちなみに、この人は、ドナルド・キーン氏の大学の先生。
でも、いまいち、どんな方なのか分かりずらい。
窪田空穂が明治10年(1877)なので、
何やら、角田柳作氏との年代的な共通点があるのじゃないかと、
こちらは、窪田空穂全集があるので、読もうと思えば読める。
でも、読もうと思うだけ。
翌年が、与謝野晶子で明治11年(1878)。
堀口大學は明治25年(1892)で、
そういえば、「月下の一群」を丁寧に読みたいと思ったのに、
いまだに、忘れております。
田中冬二は明治27年(1894)、田中冬二の全集は3巻なので
いつでも、読めそうなのですが、今年は、齧りはじめ。
その十年後、幸田文が1904年。
何とか、幸田露伴・幸田文とのつながりで読み齧れれば。
というところ。
徳岡孝夫氏は1930年生まれ。
その徳岡氏の「妻の肖像」に
「1970年に40歳にして思いがけないことが起った。56・9倍の競争率にもかかわらず、横浜・港南台の宅地債券に当選したのだ。」
「会社の信用組合から限度まで借りた。住宅金融公庫から借りた。銀行からも借りた。それでも二百万円がどうしても足りず、最後の頼み中央公論社の嶋中鵬二社長に借金を申し込んだ。私の話を聞いた嶋中氏は、一瞬考えてから『よござんす』と、二つ返事で二百万円貸して下さった。ドナルド・キーン氏の日本文学史の翻訳料から返す約束(私の方から申し出た)であった。そもそも借りられたのは、キーン氏の口添えがあったからである。真っ先に中央公論の借金を、二年も経たぬうちに完済した。・・・」(p84・単行本)
というドナルド・キーン著「日本文学史」も、いまだ未読。
とにかくも、読むというよりも「袖振れあうも・・・」でゆきましょう。
そうしましょう。
ということで、未読本の列挙。
9月1日追記。
安藤鶴夫は、1908年の東京浅草生まれ。
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