久冨純江著「母の手 詩人・高田敏子との日々」(光芒社・平成12年)に
出てくる明治が思い浮かびます。
まずは、高田敏子の年譜から
1914年(大正3)9月16日、東京日本橋区(現在中央区)に生まれる
(次女)。旧姓塩田。父政右ェ門、母イト。家業は陶器卸商。
(自編年譜「高田敏子全詩集」花神社より)
久冨純江さんは、高田敏子の長女(1935年生れ)です。
それでは、久冨さんの本からの引用。
「学問にも文学にも縁のない家だったが、ふだんの暮らしのなかで、
言葉を楽しむ習慣はあったようだ。」(p187)
このあとに、高田敏子の文を引用しております。
『私の家は商家だったので、学問には縁はなかったが、
祖母や父母が折々に口にする芭蕉、一茶、千代女の句、
道元禅師の歌など幼い耳にも親しめるものがあった。
朝顔に釣瓶とられてもらひ水 (千代女)
朝顔の種を蒔き、水をやり、のびたつるに竹を添えて
毎朝花を数えるたのしみを知りはじめたころに、
母からこの句を教えられた。私が一番初めに覚えた七五調、
その頃は井戸も身近にあったことで、その意味もすぐにわかり、
朝顔のつるが自然に竹の方にむいてゆく不思議さもおもった。
・・・・・・・・・・
春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえてすずしかりけり (道元禅師)
この歌は、祖母から教えられた。花の下、月の夜、祖母は
≪ああ、ありがたや≫というようにして、口ずさんでいた。
祖母や母が、特にいくつもの歌や句を知っていたわけではないのだが、
それだけに同じ歌、句を繰り返し聞くことにもなって、
子どもの心にもはいってゆく。
覚えやすい七五調の音律が、自然にものの見方や思い方を教え、
昔の家庭ではそれが教訓にも、しつけにもなっていたのだと思う。』
このあとに、久冨さんの文になっておりました。
「本家に泊まると、朝、大伯父の朗詠する明治天皇の
御製を聞きながら幼い母は目を覚ました。
この時代の人たちがおおかたそうであったように、
大伯父も明治天皇の崇拝者で、伊勢神宮、皇居の遥拝のあと、
仏壇の上の壁にかけてある御真影に向かって
何篇かの御製を朗々と歌い上げる。意味が分からないままに、
母はその心地よい調べをうつつの中で聞いていた。
祖父政右衛門の唯一の楽しみは浄瑠璃で、
夕食後の茶の間で語っていたし、祖母は
毎月の芝居見物でなじんだ台詞を使って躾をする。
・・・・」(~p188)
今泉宜子編「明治神宮戦後復興の軌跡」(鹿島出版会・平成20年)
の最後の方に、ひとつの写真があり、印象深い。写真下には
「明治神宮復興遷座祭の日。
この日を待ちわびていた多くの参拝者が集まった」とあります。
その写真は、復興なった明治神宮の側から、
賽銭箱の柵の前で、参拝に来られた方々の、
顔顔が写されているのでした。
最前列には、白髪のご婦人方の着物姿が並びます。
待ちわびたような、安堵したようなご老人の方々で、
その後ろにはもう顔顔顔が写りこまれております。
うん。この本の表紙カバーにも、同じ写真が載せてありました。
後ろの門のところから、まだ人が続々とつめかけているのが
わかります。
そうでした。産経新聞(1月4日)の平川祐弘氏の対談に
こんな箇所があったのでした。
平川】 ・・明治天皇の和歌を読みますと、
神道の気分がよく出ています。明治神宮には、
月ごとに明治天皇の御製が掲げられており、
参拝のたび、すばらしくて感心しています。
おおらかで、王者の風の歌でいいなあと思います。
今泉】 先生は、神道の詩的表現が明治天皇の御製に
表れているとよくおっしゃいますね。
はい。最後には、掲げられる御製から一首を
あさみどり澄みわたりたる大空の
廣きをおのが心ともがな
https://blog.goo.ne.jp/kinpatkibun/e/d4caa5671519d5ce02800ebcb8634891
さて、びこさんが、どのように、
リンクし紹介するのだろうなあ。
舌足らずで、つっこみどころ満載ですが、
よかったらどうぞ。