和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講座参考本①

2024-07-06 | 安房
講座の題は、『安房郡の関東大震災』。
思いつく参考本を取り上げることに。

『館山市史』(昭和46年・編集は館山市編纂委員会)。ここにある
『関東大震災と館山』(p564~575)と10ページ程を参照。

「 当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、
  郡役所職員、各町村主脳部が打って一丸となって、
  県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力は、
  今でも感謝の語り草となっている。 」(p565)

これに対する具体的な記述はないものの、
その内容は『 安房震災誌 』に詳しいのでした。
編纂者白鳥建氏は、「安房震災誌」の凡例に

「・・安房郡の被った災害と、之れに対して
   安房郡役所を始め全郡の官民が執った
   応急善後施設の概略を記録したものである。 」

とあり、「感謝の語り草となっている」その具体的な記述を
「安房震災誌」をひらくことでより理解を深めることができます。

もどって、「館山市史」には、10ページほどの短い記述のなかに、
他では読めない引用があります。
この際ですから、気になった箇所を少し引用。

〇 船形の地震と火災の思い出(船形醍醐篤さんの談話による)の文

 「  4,5日たって、ようやく生心地がついて、
   被害の少なかった親戚から、米や木材を運んで
   バラック小屋(トタン屋根)を建て、そこに
   家族一同落ちついた。その頃小学校庭では配給物資が渡された。 」
                            (p570)

〇 北条小学校全潰(当時北条小訓導であった小原時江氏の寄稿)の文

 「 ・・・長い揺れが静まったその時に見たものは、
   校舎という校舎が全部倒潰して三角の屋根が地面を這っていた。
   あたり一面広い原っぱになった様な感じだった。・・ 」(p571)

〇 富崎の津波( 嶋田石蔵議員の回想談 )、そのはじまりは

「 私は大震災の時は千葉師範の生徒であった。
  9月1日大地震になったので、すぐ様帰郷が許されて、
  仲間数人と路線づたいに房州へ向かった。・・ 」(p573)

 真ん中を端折って(以前に紹介したので)、
 ここには、最後を引用しておきます。

 「 ・・・海の上には、草屋根だけがぷかりぷかりと浮いていた』
   と語ってくれた。
   しかし津波にさらわれた人は一人もいなく、
   地震も潰れた家は全潰15戸で、半潰が20戸前後であった。
   死んだ人も極わずかでたった一人であった。
   津波で家を失った人たちは、学校や寺院に収容し、
   救護の手を待った。  」(p574)
 
                 

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