和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

少年マガジン。

2010-06-19 | テレビ
渡部昇一による野間清治・講談社の創始者の伝記を読んだら、
講談社に興味をもちました。そこでさっそく思い浮かんだのが、
週刊少年マンガ雑誌のことでした。

「昭和34年(1959年)三月と四月、講談社から【週刊少年マガジン】が、小学館から【週刊少年サンデー】が相ついで創刊された。日本初の少年週刊誌の発売、少年マンガの世界に週刊誌時代が到来したのである。」(足立倫行著「妖怪と歩く」文芸春秋p36・以下頁数のみは、この本から)

思い浮かぶのは、文春文庫の武居俊樹著「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」。
こちらの武居氏は小学館の少年サンデー編集部に配属された漫画編集者。

さてっと、水木しげると講談社、というのが、興味ある今日のテーマ。
今現在のNHK朝のドラマ「ゲゲゲの女房」は水木しげるが貸本漫画を描きながら、身辺に貧乏神がしばしば登場しております。まだ、講談社との縁がつながらない状況です。

「いかんせん市場が狭隘だった。貸本業界ではいくら大ヒットでも一万部以下の売れ行き・・・三洋社を経営していた頃を振り返り、青林堂会長の長井勝一が書いている。
【当時、一冊128ページぐらいの単行本を二千部刷って、それが全部、貸本屋さんに売れても、2万円ぐらいの儲けしかあがらなかった】(「ガロ」編集長・ちくま文庫)
貸本マンガ家が1ヵ月に一冊描いて手にする原稿料も二万円から三万円。貸本出版社が零細なら貸本マンガ家も食べるのがやっと、陽の当たる大手出版社の雑誌の世界に比べると、貸本マンガの世界はやはりアンダーグラウンドと言わざるを得なかったのである。」(p44)

「『昭和39年の時点で、ライバル誌の【サンデー】は毎週約50万部、ウチ(少年マガジン)は32万部から33万部程度でした』当時の少年マガジンの副編集長でマンガ班チーフだった内田勝は言う。『それが41年にサンデーを追い抜き、42年1月8日号で百万部達成、44年には150万部を突破しました。・・・』昭和40年(1965年)というのは、水木しげるの名前が初めて大手出版社のマンガ誌【少年マガジン】に載った年である。」(p38)

「昭和39年(1964年)七月に創刊された【ガロ】は、三洋社をやめて青林堂を起した長井が乾坤一擲勝負を賭けた一般誌であり、長期連載された白土の『カムイ伝』がその後一時代を画すことになるのだが、創刊から一年ほどはさっぱり売れなかった。当然、白土とともに初期の【ガロ】の両輪を務めていた水木の懐具合も芳しくなかった。
水木は後に、【少年マガジン】編集者が訪れた時のことをさまざまなメディアで『暑い日、福の神がドアを叩いた』と表現している。・・・・『編集方針が変りましたので、自由に32ページやってください』と言った。僕はひきうけた。作品が掲載されたのは、昭和40年8月の『別冊少年マガジン』だった。『テレビくん』という幻想マンガだった。これを機会に、雑誌の注文がどんどん来はじめるようになった。・・水木は、『テレビくん』がその年の講談社マンガ部門賞を受賞し出世作となった・・・」(p45~46)


という、講談社と水木しげるとの関係のはじまりでした。

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