和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

けものみち。

2008-01-11 | Weblog
ちっとも読んでいないのに、それでも、あれこれと本を結びつけたくなることがあります(こうして、もったいぶった書き方をしているのは、楽しいからです)。昨年の夏に伊東静雄詩集を読み。いつか「伊東静雄研究」という古本を読んでみたいと思っておりました。それが今年に入ったら、今でもいいのじゃないかと、ふと、思ったわけです。さっそく古本屋に注文し、それが今日届きました。

ということで、まずは、あれこれと本を結びつけたくなったのです。

 梅田望夫著「ウェブ進化論」「ウェブ時代をゆく」(ちくま新書)
 内山節著「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(講談社現代新書)
 富士正晴編著「酒の詩集」(カッパブックス・1973年古本)
 富士正晴編「伊東静雄研究」(思潮社・1971年古本)

この本を、あらぬところから、むすびつけたくなったのです。
まずは、富士正晴編「伊東静雄研究」の「あとがき」。
といっても6行ほどの短文です。そのはじまりはこうでした。

「編集しおわって、今更語ることはほとんどない。本自体に語ってもらうつもりである。本としてスラリとした内容のものにはしたくなかった。なるべく多くの読者がつまづき、疑問をもち、自分解決して歩みすすんで行く道のようなものを心掛け、すらすら走れる高速道路のようなものになるのを避けた。・・・」

ここに「高速道路」という言葉がでてきます。
それが、楽しい連想に誘われました。
梅田望夫著「ウェブ進化論」「ウェブ時代をゆく」の両方に、「高速道路」論というのが興味深い指摘として登場しておりました。
それは、将棋の羽生善治さんの指摘だと、梅田望夫さんは書いております。

「『ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走り抜けた先では大渋滞が起きています』あるとき、羽生さんは簡潔にこう言った。聞いた瞬間、含蓄のある深い言葉だと思った。」(「ウェブ進化論」p210)詳しくは本文に譲るとして、つぎにいきます。

その議論を引き継ぐ形で「ウェブ時代をゆく」には「高速道路を降りて『けものみち』を歩く」という記述があります。

「さて羽生善治が提示した高速道路論の難問とは、『素晴らしい高速道路はできたものの、高速道路を走り抜けた先には『大渋滞』が待っているぞ、そんな時代に我々はどう生きればいいのか』であった。私なりに何年間か考え続けて出した結論は、次の通りである。・・・・仮に大渋滞に差し掛かったら、その専門をさらに突き詰めて大渋滞を抜けようとするか、そこで高速道路を降りて、身につけた専門性を活かしつつも個としての総合力をもっと活かした柔軟な生き方をするか(道標もなく人道がついていない山中を行くという意味で「けものみち」と呼ぶ)、そのときに選べばいいじゃないか。ひとつの分野で『好き』を突き詰めて『知の高速道路』を大渋滞まで疾走して一芸に秀でる経験は、のほほんと生きている多くの人たちに対して、絶対的な競争力を持つはずだ。そう信ずることだ。『けものみち』を生き抜くのに大切なのは、自信とちょっとした勇気と対人能力と『一人で生きるコツ』のようなもので、それは『知の高速道路』を疾走できる人なら、少しの努力で身につけることができると思うよ・・・・」(p100~101)


では、現在のけもの道はどうなっているのか。
高速道路ならぬ、けもの道路最新情報ということで、
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」から

「私が暮らす上野村だけでなく、1990年代に入った頃から作物の動物による被害がほとんどの山村で激しくなっている。ジャガイモ、ヤマイモ、大豆が食べられてしまうのはイノシシの仕業で、大豆はサルが食べにくることもある。サルはネギ、シイタケ、果物、ときにカボチャやスイカ、白菜なども狙ってくる。もうひとつ被害の大きい動物にシカがいる。シカは葉のあるものなら何でも食べる。イノシシのいない東北の山村以外では、ほとんどの山村でイノシシ、サル、シカが田畑を荒らしていて、村人は困りはてるようになった。」(第三章キツネにだまされる能力・p90)

ちなみに、私の地域では、山村にイノシシ・サル・シカが出没するせいか。すみわけでしょうか。町並みにタヌキ・イタチなどが夕方から夜にかけて道路を横切るのを目撃することがあります(こちらではキツネはみかけません)。ところで、道路を横切る、イタチなどはスマートで、最初はネコかと思っていると、実に毛並みもよさそうで、ほっそりして走り抜けます(おもわずふりかえりたくなるような異性にであったときのような感じで、イタチの通り抜けを見送ります)。ああ、そうそう、第三章「キツネにだまされる能力」は、私には柳田國男の「山の人生」よりも地域密着型で納得して読めました。

富士正晴編「伊東静雄研究」の2年後に、富士正晴編著「酒の詩集」が出版されておりました。その「酒の詩集」には司馬遼太郎さんが「著者・富士正晴氏のこと」という短文を書いております。これ「司馬遼太郎が考えたこと 7」(新潮社・文庫もでておりましたね)にも掲載されております。
短い文ですから、ほとんどを引用しちゃいましょう。
それでもって、今回は終わります。

「けさ、家の前で、黄色いイタチが意外にゆるゆると道路を横切ってゆくのをみて、変なぐあいだがとっさに富士正晴氏のたたずまいを連想した。大阪の北郊の農家に氏は住んでいる。わらぶきのわらを掻きわけてイタチが閃くように顔をだすという天然の動きと、その上の灰色の空と、その下で石を据えたようにして住んでいるところの、実意にあふれすぎている奇妙な虚無家である氏の景色が、竹をみても、イタチをみても、抜け落ちた虫歯をみても、私にはいつでもさまざまに造形化できる。それほどに氏の思想も、思想の住まい方としてのその詩藻(しそう)も、そして陰鬱な世界にたえず呪文をかけつづけているような酒の飲み方も、まわりの私どもにとっては宗教性を抜いた光明のような魅力をもっている。しかしその魅力を感ずるのは氏と膝をつきあわせている三メートル四方の者たちの冥利で、その冥利がマスコミに増幅されないところにわれわれの私(ひそ)かなたのしみがあった。・・・」


高速道路から、イタチの横切り、までの引用でした。
ここまで読んで、「だまされた」とは思われた方は、
あらためて、内山節氏の新書をお読みください。






  

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