和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

谷内六郎。

2008-01-12 | Weblog
夕飯など、ダラダラとテレビを見ながら、食事をします。
昨日1月11日NHK20時の「迷宮美術館」に「谷内六郎が夕焼け雲に込めた思い」というコーナーがありまして、ちょいと図録で見かけない絵などがあったりして、興味深く見ておりました。

ということで、今回は谷内六郎で、思い浮かぶことを並べてみます。
寺田寅彦著「柿の種」を読んでいたときに、これは私には谷内六郎の絵を思い浮べるなあという文章がありました。まずはそれから。

「『二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分のからだが、二階といっしょに、だんだん空中へ上がって行くような気がする』と、今年十二になる女の子がいう。こういう子供の頭の中には、きっとおとなの知らない詩の世界があるだろうと思う。しかしまた、こういう種類の子供には、どこか病弱なところがあるのではないかという気がする。」(岩波文庫・p85)

これなど、谷内六郎の初期の絵を、私などつい思い浮べてしまいます。
マドラ出版の本に「谷内六郎 北風とぬりえ」があります。
表紙はというと、大木の下に電話ボックスがあり、夜でボックスの中が明るい。
そこにはキツネが受話器をもって電話をかけている。電話ボックスの明かりで、暗がりに浮かび上がる大木の幹が、ぼやけたように明るんでいるのでした。

この本の書評を、川上弘美さんが書いており、印象が鮮やかでした。
今回はそれを引用したかった。

「子供のころ、谷内六郎の描く『週刊新潮』の表紙がこわかった。そしてそれは、宮沢賢治の童話を読むときのこわさと、同じ種類のものであった。児童文学と呼ばれるものの大概をわたしは愛読したのもだったが、どうしても賢治だけは読めなかった。なぜか。そこには理路整然というものがなく、子供の世界の模糊としたさまが描かれていたからである。そこには善も悪もなく、淋しさや暁の幽(かす)かな光のようなものだけが、世界の方向を決めていたからである。子供を子供の世界に放り出しても、子供は困惑するばかりなのである。子供があかるい歓びを感じるのは、子供の世界を整理し方向づけ、はげましてくれるものだ。子供はその中ではじめて、守られているように感じる。現実の子供の世界の隙間から噴き出す悪夢と無秩序を、見ないですむと感じる。子供が大人になること。それはたぶん、世界の無秩序を自分の中で飼い馴らすことが上手になること、なのだ。・・・子供にとって、真実であり身近である、渾沌。大人になって、谷内六郎がこわくなくなった。歓ぶようになった。狐が電話ボックスで電話をかけている『夜の公衆電話』というような絵を正視できるようになった。それはけれど、『童心』を蘇えらせるという意味は持たない。大人になって。渾沌に慣れて。渾沌を見ないふりができるようになって。そこではじめてわたしは、世界の無秩序の美しさを、子供のころにはあまりになまなましくて味わえなかったその美しさを、固定してくれたことに、感謝や賛嘆を示せるようになったのである。・・・」(川上弘美著「大好きな本」朝日新聞社・p105~106)

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