和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

夏の旅。

2007-08-23 | Weblog
日本の仏像で、以下の説明を受けたら、はたして、どの像を思い浮かべるでしょうか? ヒントは、奈良時代。国宝です。

「少年をおもわせるしなやかな肢体(したい)。六本の手の一組は胸の前で合掌し、ほかの二組は左右の空間に無限に伸びていく。その手のいかにも自由で調和のとれた不思議なやさしさ・・・。そして眉根(まゆね)を寄せた清純な表情の奥に秘めたきびしさ・・・。」

ちなみに、この像については、和辻哲郎が大正期に著した『古寺巡礼』にも、亀井勝一郎が終戦の2年前に著した『大和古寺風物誌』にも語られてはいないのだそうです。

答えは、奈良の興福寺の阿修羅像。
これについては、私なりに順を追って話してみます。
それは、編集手帳(2007年8月9日)のコラムでした。
そこで、コラム子は「ここ何年か、広島と長崎の被爆地を訪ねた帰り、奈良に立ち寄って阿修羅像を拝観する夏の旅をしている。せつなげなまなざしに打たれるときもあり、張った眉(まゆ)に浮かんだ怒りの色におののくときもある」と書いておりました。そこで紹介されていた本が興福寺監修「阿修羅を究める」(小学館)でした。その本を注文していたら、今日届いたというわけです。初版が2001年とあります。編集手帳のコラム子の「ここ何年か」という期間がすこし割り出せそうな気分です。
この本「阿修羅を究める」の中の、医療史家・立川昭二さんの文を、コラム子は取り上げておりましたので、さっそく私も読んでみました。堀辰雄・岡野弘彦・會津八一らの言葉を織り交ぜながら文が進行しており、読み甲斐がありました。

その立川昭二さんの文をどこから引用すればよいのか迷いますが、
こんな箇所はどうでしょう。

「近ごろの医者は患者のからだの内部にまなざしを向けるどころか、患者を前にして眼は検査の数値や画像に向けられていることの方がはるかに多い。・・私たちが『人を見る』『人に見られる』というときは、たがいに眼と眼を合わせないで『見る』『見られる』というのがふつうである。たとえば、この『阿修羅を見る』というとき、私たちはふつう阿修羅の眼と自分の眼を合わせないで見る。そして阿修羅のまなざしは何を見つめているのか、と問う。一方、私たちはおたがいに真正面から眼を合わせ、あるいは眼がかち合い、見つめ合うことがある。・・・・
阿修羅の場合、阿修羅のまなざしを『見ている』ときは、それは遠くはるかにやさしく見ているようなまなざしに見える。しかし、真正面からそのまなざしとかち合うと(あるいはそのまなざしに射すくめられると)、それは深く貫き通すようにきびしいまなざしに見える。阿修羅はやさしいまなざしときびしいまなざしの二つをもっている。」

さきに、まなざしについての、立川昭二さんの意見を引用しましたが、
それでは、立川さんの文章の最初の方から紹介してみたいと思うのです。
まずは阿修羅の紹介。

「この三面六臂(ろっぴ)の印象的な仏像といえば、奈良興福寺の国宝『阿修羅像』であることを知る人は多い。阿修羅は単に修羅ともいわれ、古代インドの神で帝釈天(たいしゃくてん)と戦う鬼神とされ、仏教では八部衆の一人として仏法の守護神とされている。修羅といえば争いのことをいい、地獄などと同じ六道の一つ。したがって、阿修羅の像はふつう忿怒(ふんぬ)の相をしている。」

この後に、昭和16年(1941)に小説家・堀辰雄が奈良を訪ね、阿修羅に出会った時の文を引用しているのでした。その引用を孫引きしてみます。

「結局は一番ながいこと、ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目(まな)ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。」(『大和路・信濃路』新潮文庫)

9ページほどの立川氏の文の最後の方には、會津八一も登場します。

「『鹿鳴集』で名高い歌人の會津八一も、戦時中教え子たちがつぎつぎに戦場に駆り出されるのを嘆いたとき、この阿修羅の前に立ち、こう詠んだのである。

   けふ も また いくたり たちて なげき けむ
   あじゆら が まゆ の あさき ひかげ に

(歌集「山光集」所収)                        」


ちゃんと時代背景にも、言及しておりました。

「この阿修羅が造られた天平時代、日本はけっして安泰な時代ではなかった。日本各地には飢饉・疫病がたえまなくくりかえしていた。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の神亀(じんき)三年(726)に、『百姓或ハ痼病ニ染沈シ、年ヲ経テ未ダ愈エズ。或ハ亦重病ヲ得テ、昼夜辛苦ス』とあり、同書の天平五年(733)には、『是ノ年、左右ノ京及ビ諸国飢疫スル者衆(おほ)シ』とある。・・・そうした時代、人びとの病苦や悲嘆を受け止め、共に苦しみ、共に悲しみ、その苦しみ悲しみを癒してくれたのが、阿修羅だったのではないか。」


編集手帳のコラムニスト竹内政明氏が、ここ数年繰り返しておられる、夏の旅のことを思うのでした。



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