和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

9月6日、地震講の記念日。

2024-05-24 | 安房
関東大震災で被災した安房郡役所から、重田郡書記が徹夜疾走して、
9月2日の午後一時半頃に、千葉県庁へ到ります。

そこから、県内各地へと安房の状況が伝えられることになります。
その様子をたどってみます。

  本銚子町 ( 本銚子町青年団報 )より

「・・・翌2日に至って県下南部の震災も確実に伝へられ
  人心恟々たる内に郡役所より通牒あり。

  安房郡の震害甚しき故救護班を組織して出動せよとの事であった。
  仍て早速青年団員中より有志を募集して15名を得た。
  此の外に医師5名と総計20名で班は組織された。 」

       ( p1352 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )

 以下には、北條に着くまでの様子が書かれておりました。

「 愈々出発となったが汽車は日向以西は不通と聞いて銘々自転車を
  準備して明朝を待った。

  翌9月3日早朝出発日向駅からは自転車で夜来の雨に
  道路泥濘幾多困難を凌ぎつつ漸く千葉に着いたものの
  西海岸も矢張り汽車不通已むを得ず其のまま
  巡査教習所に泊ることにした。不安と焦燥の一夜を明した。

  あくればもう4日である。
  今度は千葉駅前に自転車を預けおき、
  汽車で成東まで引返し更に勝浦までは汽車、
  之より自動車で天津へ着いた。

  最早日は暮れてゐるが
  前途が急がれて宿泊など出来ない。
  徒歩鴨川着、小学校の庭にしばし仮寝の夢未だ結ばぬ2時間計りにて
  又出発、和田町役場の庭に天幕あるを幸、
  ここに又1時間計りの仮寝をしたのは夜半であった。

  かくの如くにして漸く北條に着いたのは実に
  5日の午前11時頃であった。

  途中勝浦より千倉まで舟行された救護班小野田周齋外4名の
  医師及団員1名は茲に合体したのである。
  我等の班は救護班としては第一着であった。
  そして最惨害を極めた那古船形方面へ行くことになった。・・・」  
                         ( ~ p1353)

  旭町青年団報 より    (p1387~ )

「本団は9月4日正午県召集の緊急救護出動の命あるや
 団長は直に各支部に出動準備と人員の割当を通達せり。

 午后4時に至り各支部より確定報告あり。
 直に海上郡第二救護班医師4名団員12名、
 旭町青年団割当分の編成を終り
 警察分署を経て県に編成完了の報告をなせり。

 6日一番列車にて出発、成東大網勝浦を経て、
 途中困難と戦ひつつ鴨川に着き第一夜を明かし
 翌朝徒歩して北條警察署に辿り着く。
 
 直に警察並郡衙に到着報告をなし
 先発隊海上郡救護班銚子第一班と事務引継ぎを終り
 食糧部より給与の玄米を焚き夕食をとり
 案内さるるまま北條食堂に一泊す。  」


以前には、銚子青年団の活躍を引用したことがあったので、
ここには、旭町青年団の記述をつづけて記録しておきます。

「 一行は東天明けぬ内に、那古町に行き茲にて2班に分れ
  医師2名団員6名船形町へと急行す。

  船形町も全滅同様の惨状にて立てる家一戸とてなく
  寂寞荒れ果てたる廃墟の如く夜間は総て燈火なく全く暗黒たり。

  到着早々治療準備を行ひ8時より診察す。
  団員は主として受付手伝及各種の伝令、衛生材料運搬食糧分配等で
  那古町は観音堂下船形町は船形クラブで不眠不休の活動を為し、

  夜間は主として重患者を館山水産試験場へ彼の湊川を徒渉し、
  駆逐艦川風よりの探照燈を唯一の頼りとし輸送す。又水の運送等も行った。

  救護人員の計813名にて船形町は内科の48名外科の414名、
  那古町は内科の35名、外科の316名の多数であった。
  右総て延人員にて本職等の余り知る所にあらざれど
  受付簿に依り記載す。

  9日午後3時交代者来るにより引上げ命令あり。
  引継をなし郡役所並北條警察署に完了の報告を済し
  帰郷する旨を告ぐ。

  一行は出発以来不眠不休の活動にて加ふるに
  飲食物さへ不充分なるため皆やせ心身の疲労甚し。

  8時漸く雨は止んだ。風浪高きも出帆すとの報あり。
  帰心矢の如き折柄、元気は百倍せども
  前日正午夕食を摂りしままにて空腹と疲労は増すばかり
  漸く乗船す風浪高く皆船酔せり。

  午後4時木更津沖へと着く。
  上陸し5時30分に乗車し千葉にて乗替10時に佐倉に下車一泊す。
  翌朝一番にて帰郷することにした。
  重任も果し出発以来初めての入浴に心身の疲労一時に増し
  初めて布団の上に眠る事が出来た。

  一同記念撮影をなし地震講を組織し、
  9月6日を記念日とし、茲に目出度解散するを得た。 」(~p1389)




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