和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都の足元。

2020-02-05 | 京都
昨日古本届く。
森浩一著「京都の歴史を足元からさぐる」(学生社・2008年)。
副題は、「洛北・上京・山科の巻」。
はい。ありがたいことに、古本300円。

私は、森浩一氏を読むのは、はじめて。
カバーにある著者略歴には、

「1928年大阪府に生まる。
同志社大学大学院修士課程修了。考古学者。
同志社大学教授を経て、現在、同大学名誉教授
・・・・」
2013年8月に亡くなっておられます。
さて、この古本の巻が出来た2008年には
「はじめに」によると
「ぼくはあと数カ月で満80歳になる。」とあります。
そのすこしあとに
「あまり言いたくはないことだが、
五年来ぼくは定期的に病院通いを
余儀なくされていて、それにかなりの
時間がとられている。」

うん。「はじめに」は4頁です。
丁寧に引用したくなるのですが、
ここでは、カット(笑)。
でも、惜しいので、「はじめに」の
最後の方を引用することに。

「今回の執筆を通して、
すでに高齢者といってよい自分が、
いままで知らなかったことの多さに
驚くとともに・・・・大袈裟にいえば、
日々『発見』の連続である。・・・・・・
つい執筆の手をやすめて、
書斎から階段を下りて居間にいる妻に
その『発見』を早く伝えたくなる。

読者もぼくが味わった『発見』の
楽しさを共感してもらえるならば
嬉しいことである。とにかく
ここでいう『発見』は、
古典や研究書を読み現地を訪れる
ことによって身につけることができるのである。」
(p3)

うん。わたしは、この「はじめに」でお腹が一杯。
それでも、少し本文から引用しておきます。
目次をめくると、「大原と大原女」とあるので、
どんな発見があるのかと、
ここでも、すこし長めの引用してみます。

「同志社大学に勤めていたころ、
花をいっぱい積んだ車をひく
大原女(おはらめ)をときどきみかけた。

大学のある上京は室町時代に足利義満の
室町殿(花の御所)と相国寺(しょうこくじ)があって、
その周辺にひらけた町である。
町のあちこちから西陣の下請けの機(はた)を織る
音が聞こえてきたり、店先に木や草の根を干す
染料問屋などがあって、昔の面影がただよっていた。

大原女は頭に手拭をかぶり藍染の着物に前掛を垂らし、
腕には手甲をはめ足には脚絆の姿で全身を日光から
防御していた。足元は白足袋だが、
草鞋はもう見られず運動靴だった。

日本画家の浅井忠や土田麦僊が描いた『大原女』の
姿よりは少し変わっていたように記憶する。それでも、
『花いりまへんか』を繰り返す声がまだ耳にのこっている。 

ぼくが見た大原女は花を商っていたが、
家庭用のガスや電気が普及する以前は、
大原で産する炭、薪、柴を商うことが多かったようだ。
タキギ(マキ)は材木を切ったり割ったりした燃料、
シバはすぐ火のつきやすい小枝を束ねた燃料、
ちょっとした調理にはシバを使ったが
風呂はタキギを使った。

タキギやシバを軽視してはいけない。
古代には天皇や豪族に、支配下の者は
毎年タキギを貢納する義務と慣習があったし、
炭、薪、柴の産出は山村や島の重要な
収入源だったのである。

大原女の活躍は古く、すでに鎌倉時代の
歌人藤原定家の自選の『拾遺愚草』で
京へ商いに来た大原女が家路を
急ぐ姿をよんでいる。

 秋の日に 都をいそぐ 賤(しず)の女(め)の
      帰るほどなき 大原の里

ぼくの知っている大原女は車を使っていたが、
昔は一人が持てるだけの柴を頭の上にのせて
売り歩いていたのである。頭上運搬だが、それに
くわえて馬にも柴をになわせて曳くこともあった。

大原は小原とも書き、
八瀬以北の高野川上流の地域である。
大原女は『おはらめ』と発音するのは
本来は小原女であったからであろう。
享和2年(1802)に京都に24日間滞在した江戸の
文人滝沢馬琴は『羇旅漫録(きりょまんろく)』で
『見てうれしきもの。八瀬大原の黒木うり』をあげている。
黒木はタキギをいぶして火のつきをよくしたものという。」
(p40~41)

うん。浅井忠画「大原女」の写真が、p41と、
ちらりと表紙カバーにも使われていました。









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