和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『 泣く 』

2023-03-26 | 柳田国男を読む
柳田国男に『 涕泣史談 』という文があり、
ちょっと、気になることがあったので、あらためてひらく。


この『涕泣史談』は、昭和16年8月に雑誌に掲載されておりました。
柳田国男年譜をひらくと、この昭和16年(1941)は柳田国男67歳。
雑誌掲載のそのあとになるかと思うのですが、
8月15日 兄井上通泰死去、同18日葬儀。
9月17日 井上龍子(通泰妻)、川村桃枝(井上長女)死去。
というのが年譜をひらくとありました。

それはそうと、『 涕泣史談 』をあらためてひらく。
そのはじまりの方には、こんな箇所があります。

「・・旅行をしているとよく気がつく。旅は一人になって心淋しく、
 始終他人の言動に注意することが多いからであろう。
 私は青年の頃から旅行を始めたので、この頃どうやら
 五十年来の変遷を、人に説いてもよい資格ができた。

 大よそ何が気になるといっても、あたりで人が泣いている
 のを聴くほど、いやなものは他にはない。一つには何で
 泣いているのかという見当が、付かぬ場合が多いからだろうと思うが、
 旅では夜半などはとても睡ることができないものであった。

 それが近年はめっきりと聴えなくなったのである。
 大人の泣かなくなったのはもちろん、
 子供も泣く回数がだんだんと少なくなって行くようである。

 以前は泣虫といって、ちょとした事でもすぐ泣く児が、
 事実いくらもあったのであるが・・・
 長泣きといって、泣き出したらなかなか止めない子供もあった。・・」


 「・・泣き声の身にこたえるのは、若い盛りよりも年を取ってからが
  ひどいのである。私の親などはなぜ泣かすと周囲の者を叱り、
  またはごめんごめんなどと孫にあやまっていた。
  気が弱くなって聴いていられないらしいのである。

  一般にまた感情の細かく敏活な文明人ほど、
  泣くのを聴き過すことができなくなるものかと思う。 」

こうして、現代と元禄時代との常識のちがいを例を出して引用しております。

「 つい最近にも、雑誌の『婦人之友』だったかで、
  子供を泣かさぬようにするのが、育児法の理想である
  というようなことを、論じていた婦人があって、
  私も至極もっともなことだと思ったことがあったが・・・」

このあとに、津村淙庵の『譚海』からの引用をしております。

「    小児の泣くといふこと、制せずに泣かすがよし。
     その児成長して後、物いひ伸びらかになるものなり・・  」


ここから、柳田国男の史談が展開されてゆくのですが、
私はここまでで、とりあえずは満足。
ちなみに、史談の展開のスタートラインは、ここらでしょうか。

「表現は必ず言語によるということ、これは明らかに事実とは反している。」



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