和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

人を得なけりゃ優駿も只の奔馬。

2024-04-16 | 短文紹介
何か、久しぶりに月刊雑誌『文芸春秋』を
買ったので、何だか新鮮な気分になります(笑)。

今日になって、雑誌を2冊本棚からとりだしてくる。

文藝春秋発行の『諸君!』2009年6月号。
隣に並んでた、『新潮45』2013年12月号。

『新潮45』のこの号には、
田中健五の「池島信平と『諸君!』の時代」が掲載されておりました。
はい。8ページほどですから、すぐに読みかえせました。
その最後の方に、こんな箇所がありました。

「 この雑誌(注:「諸君!」)が今はもう存在しないことを、
  私は悔しく寂しく思う。
  『 人馬一体 』という言葉がある。
  編集者と雑誌も同様である。『人馬一体』が求められる。
  人を得なければ、優駿も只の奔馬にすぎない。     」(p91)


さてっと、『諸君!』2009年6月号の表紙にはこうありました。
「 最終号 特別企画・日本への遺言 」。
その特集の一つ「『諸君!』と私」には、
佐々敦行氏の次に曽野綾子氏の文がありました。
はい。短文なので好きなように引用してみます。

曽野さんは、沖縄渡嘉敷島でのことを、
紀元1世紀にローマ軍に囲まれたイスラエルのマサダ要塞での
出来事をもって比較されておりました。

「私は『 ある神話の背景 』という題で、
『 諸君! 』の1971年10月号から1年間連載させてもらった。」

うん。そのあとの最後の箇所はきちんと引用しておかなきゃ。

「『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。
 沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの
 反論でも試みる者は徹底して叩くというのが沖縄のマスコミの
 姿勢だったが、その私を終始庇ってくれたのが、
 
 田中健五編集長と、私の担当だった村田耕二氏だった。
 或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、
『 多分ご迷惑をおかけしているんですね 』と言ったことがある。
 すると村田氏は
『 社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ 』
 という意味のことを言った。
 反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。

 田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかった
 ほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。

 私は『諸君』の終巻を心から悼むが、
 経済的な理由で終わりを告げることには、
 むしろ自然なものを感じる。
 これが思想的な弾圧でなくて良かった、と喜んでいる。
 と同時に歴代の編集者たちの苦労を深く労いたい。  」(p165~166)


久しぶりに『文芸春秋』を買って、私が読みかえして
みたかったのは、この曽野綾子さんの短文なのでした。

せっかくなので、曽野綾子氏が
『経済的な理由で終わりを告げることには、むしろ自然なものを感じる』
という『自然さ』を田中健五氏の文にもとめるとなると、
この箇所なのかなあと思う健五氏の言葉を最後に引用しておきます。

「 まだ戦後10年足らずの日本には、
  活字に飢餓感をもつ国民が多く、
  雑誌界は沸き立つような活況を呈していた。
  今では信じられない話しだが、
  一出版社の出す一月刊総合雑誌にすぎない
 『 文藝春秋 』編集長が社会的にも大きな存在を持つ時代だった。 」
コメント
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