和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災と安房の海の時代④

2024-04-04 | 安房
震災援助の『 物資の陸揚げ 』の記述で、
ぜひ、引用しておきたい箇所がありました。

小見出しに「 目覚しかった漁村青年の活動 」とあります。
その全文を引用。

「 被害の少かった町村からは、日割と人員とを定めて、
  本部救援の為召致したその大部分は青年団員であったが、

  団体的訓練、団旗持参、巻脚絆に跣足袋といった服装の如き、
  形式的には農村青年団の方が整って居た、

  然し其の仕事に於て殊に仕事の分量の多かった
  海岸に於ける物資の陸揚作業等に至っては、   
  漁村青年の方が遥かに能率が上った。

  満25歳以下の者を以って組織せる農村青年の中には、
  四斗入一俵米の運搬も容易でなかった者も見うけられた、
  況んや20貫もあらうといふ菰包等の運搬に於ておやである。

  然るに漁村の青年は年少の者と雖海の操業には慣れ切った者であった、
  就中海底の隆起と干潮の際などは数十間の沖合より、
  背を以って水中徒渉陸揚をせねばならぬ状態である、

  或は艀舟の操縦、或は海中に於ける荷物の受渡等に至っては、
  腹部を没する波のうねり、しぶき等をも物ともせず、
  褌一つの身軽を以って、鼻歌交りに、可成の重量あるものと
  雖易々として、陸揚をなせるが如き、流石は稼業柄、
  活動の目覚しきもののあったことは、衆目の見る所であった。 」

     ( p891~892 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


これは、海が身近でない山間部の育ちと、漁師町の育ちの違いが、
この物資の陸揚げの際に、鮮明な形で映ったということでしょう。

思い浮かんだのは、田宮虎彦がその著「花」に載せている箇所でした。
こちらは女性が主人公で、安房の外房の町の花づくりを描いた物語です。
この機会に、陸揚げの関係しそうな箇所を引用してみることに

「・・かたくかたまった凝灰質の砂岩がところどころに露呈している。
  そんな三反や四反の畑で一年の生計をたてて行けるわけはなかった。

  安房丘陵をうしろにせおって木樵(きこり)の多い向原や奥畑をのぞき、
  天畑にかぎらず〇浦の町のどの部落でも男たちはみな海に出ていった。

  男たちが海に出ていくこと、つまり漁業が〇浦のどの部落でも
  生計を立てていく主な仕事であった。そして、畑をたがやし
  冬は麦をつくり夏はささげや大豆やあずきなどをつくるのは
  残った女たちの仕事であった。半農半漁といっても、
  漁業の方に重みは大きくかたよっていた。・・・・・

  種蒔きの時期や刈入れの時期は畑仕事に追われはしたが、
  その間の時期は、僅か二、三反の畑仕事など女たちだけでも
  手は余ってしまう。女たちは畑仕事が終ると、
 
  イサバヤに仕事があればイサバヤにかよい、
  あぐりの法螺貝が聞えれば畑仕事や家まわりの
  雑用仕事を投げだして〇浦の港や△浦の浜にかけおりて行った。

  ・・・あぐり網の鰯を浜まで運んだはしけから受けとる女には、
  浜でならんで待ちうける女たちのほかに、
  胸まで波間におどりこんで、はしけのそばまでかけよっていき、
  はしけに乗ったノリコから鰯をいっぱいいれた万両籠をうけとる女がいた。
  浜で待っている女たちの仕事は子供でも老婆でも、
  時には東京や千葉あたりから遊びに来たきゃしゃな女たちの
  浜遊び半分の手伝いでも間に合ったが、
  胸まで波間におどりこんでいってはしけの舟ばたまで
  万両籠を受けとりにいく女たちの仕事はそんな生易しい仕事ではない。
  ・・・・    」

    ( p23~26 新潮日本文学36「田宮虎彦集」昭和47年 )


  
コメント
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